酒場での弾き語りなど、誰も聴いていないに等しい。
今夜もタバサは忙しそうに店中を動き回っているし、いつも顔を合わせれば調子よく歌をせがんで来るヤニクの姿もなかった。
たとえ音を外しても、誰一人として気付かないのではないだろうか。
“あたたかい陽射し浴びて君と
馨しい華にうもれて
寝転ぶのはもうすぐ
春が来たらきっと告げるよ
すべての想いをいとしき想いを”
「春待ちの歌」を唄い終えると、酒場の時計はちょうど定時を示していた。
ピアノの前で立ち上がり一礼後、バックヤードでコートを羽織り外へ向かおうと店舗部分へ戻る。そこには何故かクリスが居て、驚きに口をぽかんと開けてしまった。
「お疲れサマ」
あたしは、彼の口角がほんの少し上がったことを見逃さなかった。紅茶屋の主人として毎日接客しているとは思えない、怖い顔をした彼なりの笑み。
そんな顔も、異国訛りの声も、とても可愛いと思う。見るたびに、聞くたびに、あたしはわくわくする。誰にもそのことは言ったことがない。
「何でここに居るの……歌、聴いてたの?」
問いに、クリスは苦笑混じりに頷いた。誰も聴いてなどいないと思っていた自分のことが恥ずかしくなって、口を一文字に結んで足早に駆け出す。地元民であるはずのあたしの方が雪に足を取られ、すぐに追いつかれてしまった。それでも精一杯の早歩きで道を進んで行く最中、後ろから「家まで送る」と言う声が聞こえたが、首を左右に振って固辞した。どうしてそんな優しさを見せるのか。嬉しさを越えて、恨めしい気持ちが湧き上がる。
クリスはそのまま横に並び、あたしの頭に微かに手を置いた。
あたしの足はぴたりと動きを忘れ、一瞬にして均衡を保つ力を失ってしまった。冬の夜は暗く冷たく、凍てつく頬は言葉を吐き出すことを躊躇させはしたが。
「あたしの何がダメなの?」
俯いたまま吐き出した言葉に、反応はなかなか返ってこなかった。「あたしそんなに子どもじゃないよ?ダメならダメで、迷惑かけない位の分別はつけられるよ」
あまりの沈黙の長さに、顔をあげるタイミングをすっかり逸して、居心地の悪さに飲み込まれそうだった。
「失う怖さを知っているカイ?」
そう言うが早いか、クリスはあたしの髪の毛を一掬い、散らした。弾かれるように見上げると、彼はどこか遠くを見ているようだった。どうしてそんな表情をするのか全く心当たりがない。あたしは寂しさに泣きたくなる。
「どういう意味?」
「……何でもないヨ」
苦笑した彼が、髪を撫でた。何かを恐れるかのように、やんわりと。それがあたしの胸を叩くことになるのを、彼は知っているのかどうなのか。息を、飲んだ。
彼に傷つけられることは怖くなかった。けれど、彼を傷つけることはしたくなかった。あたしはクリスを苦しめているのだろうか。唇が震えそうになるのを、必死で抑え込んだ。
髪に触れていた彼の手を取り、制するように引き離して押し戻す。
「あたしを失うのは怖い?」
イエスともノーとも言わぬクリスに、更に続けて畳み掛ける。「怖いなら、ずっと傍に置いておけばいいんだよ」
手を離してその場から数メートル早足で遠ざかり、「あたし子どもだから、ダメならダメってはっきり言われないとわからないんだから!」と負け犬のように言い捨てて、逃げる心持ちで歩き出した。
「コリーン」
彼は一度だけあたしの名を呼んだが、追ってくることはなかった。
安堵と、残念な気持ちとが入り混じる。
苦しくて苦しくて仕方が無かった。怖くて怖くて、涙が滲んだ。
「バカみたい」
あたしは何故、父ほど年が離れた人に惹かれてしまったのだろう。「バカみたい」もう一度言う。
打ち明けるきっかけをつかめず、それなのに知られているような気配は存在し、されど好意を否定されることもなく、ただ時だけが流れて何年経ったのか。進むことをしなければ離れることもないということに甘え続けてきた自分が嫌になった。
会わぬまま冬を越え、春も終わりに差し掛かった。平静を装って紅茶屋の扉を開いたときには、もうなかったことにしよう、と唱えていた。
「紅茶を一杯飲ませて」
いつものようにおまかせのオーダーをして待つ。砂時計が落ち切ったのを見届け、続いてポットを持ち上げるクリスの手元をじっと眺めた。彼の手があたしの髪に触れた様を思い出して、軽く眩暈を覚えそうになる。
危なげに、触れてはいけないもののように触れる手のひらは、決してあたしにぬくもりを与えたりはしない。それ故に、あたしの心は揺れ動いていた。その半端さが孕んでいるかもしれない意図について考え、口をつぐんでいた。
「コリーンは、ワタシに何を望ム?」
琥珀色の液体が満ちたカップが目の前に置かれると、広がる甘い匂いにホッとして頬が緩んだ。
カップを手にしたままクリスを見上げ、無理に微笑みながら尋ねる。
「叶えてくれるの?」
「内容に依ル」
視線を落として苺の香りがする紅茶を飲みながら、なかったことにしよう、と何度目かの呪文を唱えた。
紅茶をゆっくりと飲み干して空になったカップをソーサーに戻すと、かちゃんと小さな音が響いた。時折、風が梢を揺らしているのが窓の外に見て取れた。
何もなかったことにしよう。全部過去にしよう。苦い思い出にしよう。
思いながら見上げると、クリスは強張った顔のままあたしを見下ろしていた。いつからあたしは、彼のこの表情を恐れなくなっていたのだろう。初めて会ったときは、逃げるように店を出て行ったのに。
この人は、あたしが何を言うのか恐れているのだろうか。
「内緒話を聞かせて」
彼の眉間の皺が深くなった。
「内緒話?」
あたしは静かに、次の句を継ぐ。
「何でもいいの。どんな国で育ったの?ご両親はどんな人?どうしてこの村に来たの?人に話したことがある話で構わない」
彼の顔に困惑の色が浮かぶ。
「それは内緒話ではなく世間話デハ?」
ただ話がしたいだけの口実であるなんて、言えるはずもない。
「世間話とは、心持ちが違うの」不貞腐れたような素振りで言ってみたが、クリスは解せないという表情で動かない。俯き、渋々「たとえいつか失うことになっても、あたしはクリスに傍に居て欲しい。ただ傍に居て欲しい。そういう、意味」と言ってからもう一度見上げた。
なかったことにしよう。思い、意を決して「ダメ?」と訊ねた。泣きそうになるのを堪えた掠れ声で問わなければ、未来は全く違ったものになっていたのかもしれない。
あたしはその日、クリスの手のあたたかさを知った。
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