かみさまの眠る村


 利き手同士を繋いだまま、バスの最後尾に座っていた。右手が握り締めている制服のスカートには、すっかり皺が寄っている。
 車内には、私達の他には背広を着た五十歳前後の男性ひとりしかおらず、静かに、しずかに、バスは薄暗い中を進んで行った。
 横目で伺うと、耕一君は考え事をしているような角度で、ずっと俯いていた。窓から絶え間なく風が吹き込んでくるというのに、その温度がわからない。時折強く頬に当たるので、目を細めた。
 ほんの数時間前まで、私はこの人に触れたことすらなかったのに。同じクラスの男の子と、校外で並んでいることが不思議だった。
 二人の間、握られた手が座席のシートの上でぬるんでいるのはわかっていたけれど、それ以上は何も考えたくなかった。

 夕暮れ時の学校のプールで、手紙を見た。手紙、なのか定かではないが。
 それには、私と、耕一君、高晴君、三名の名前と「ひと」の文字が並んでいた。手紙を持っていたのは、結城奈央という、図書委員の三年生だった。図書室の本の間に挟まっていたという。
 三名のひとと、図書委員。四人で顔を見合わせる。
 不可解な手紙が薄気味悪い。それを手にしている結城先輩に対しても、嫌悪感が大きくなっていく。そして、一つの不安。『神隠し』のことが思い出されて止められなくなった。
 夏休みの初日、クラスメイトの女の子が忽然と姿を消して騒ぎになっていた。その時点では、誰も『神隠し』などという単語は口にしていなかったように思う。
 きっかけは昨晩。私達は奇怪な現象に遭遇した。目の前で、白川清二という三年生が消えたのだ。それは見事に、跡形もなく。『失踪=神隠し』の図式が、脳裏に大きく浮かんだ。
 だって、ほら、夏だから。のぼせた頭は、苦笑こそすれ驚くほどすんなりと伝承を受け入れる。
 ――これは、神隠しってやつじゃないのか?
 ――それは神様がするの?
 あの晩そんなやり取りが為されたことを、蒸し暑いプールサイドで私は思い返していた。
 あの夜は、神隠しの直後に街灯が切れた。闇の中、私の手は耕一君のシャツに伸びていた。そこに意図は介在していたのかどうか言い切れない。あれがきっかけだったのかどうかは定かではないが、彼はその夜、私を家まで送ってくれた。気まずい沈黙と不安と、わずかだけれど確かに存在するある種の期待が、私の中でごちゃ混ぜになった蒸せるような夜。
 ねぇ、なんで私を気にかけてくれるの?かけているよね?私の思い上がりなら教えて貰いたい、けど、怖い。
 水音のしないプールサイドのタイルは、昼間に熱せられたまま冷える気配が全くない。じわじわと熱が舞い上がってくるようだった。思考が過去へ過去へと向かっているうちに、先輩の手に握られたままだったはずの手紙に文字が増えていた。ざわめく私達のことを、誰かがどこかで嘲笑っているような気がした。
 そこには、『こはる もののけ』と書かれていた。
 こはる。それは、私のクラスメイトの名だ。当たり前のように毎日顔を合わせ、お昼ご飯を共に食べ、毎日のように電話で話す。冬はどてらを着込んで、夏はアイスと団扇を手にして、廊下に座り込んで。彼女は本を読むことが好きで、私は身体を動かすことが好きで、彼女は体育が苦手で、私は国語の授業を親の敵のように憎んでいた。彼女はいつも穏やかで、人を安心させる空気を持っている。昨日も一昨日もそうであったように、私は今日も明日もこはると他愛もない一日を過ごすものだと思っていた。それが自然の成り行きで、神様が決めたことであるかのような確実さを持って。
 気がつくと、私は手紙をバラバラに破り捨て、肩で息をしていた。結城先輩を睨む私の顔は、鬼のようだったのかもしれないし、泣きそうだったのかもしれない。先輩の怯えている表情を見て、これが彼女の悪戯ではないことを確信した。それなら、何者がこんな手紙を。
 プールサイドを走り出し、一度振り返る。
「耕一君!」
 立ち尽くしていた彼は、私の声に反応して瞬いたが、そこから動く気配がない。もどかしくて仕方がない。
 怖くて、不安で、どうしても一人では嫌だった。誰かに一緒にいて欲しかった。もしかしたら、誰でもよかったのかもしれない。私は駆け寄り、耕一君の手首を引っ掴んで走り出した。
 背後から、恐らく引き止めたのであろう結城先輩と高晴君の声が届いたが、その内容は聞き取れなかった。
 バス停までが、酷く遠く感じた。

「来海、大丈夫か?」
 どれほど時間が過ぎたのか、耕一君の声が耳をかすめた。顔をあげると、いつの間にか車内には二人しかいなくなっていた。
 もう、彼は「大丈夫だよ」とは言ってくれないんだ。そのことが悲しくて、私の左手は力を無くす。
「もういっかい」
 私の喉は、寝起きのように、のろのろと声を出した。耕一君の口が「え?」という形に開かれる。俯き首を振って、視線を逸らし窓の外の闇を見た。
 彼が、「クルミ」と呼ぶ声がくすぐったくて、苦しくなる 。呼吸の仕方がわからない。汗が全身にじんわりとにじむのが感じられる。
 今、ここに耕一君が居てくれたことを、神様に感謝した。私が今どんな気持ちで居るのか知って欲しいのはこの人以外には浮かばなかったけれど、きっと彼はそのことを知らない。
 目を閉じると、夏の夜の匂いがした。

 ドアベルを押すと、出てきたのはこはるのお母さんだった。
「すみません、間違えてこはるの本持って帰っちゃって。宿題に使うって言ってた気がしたんで……」
「通りすがりの付き添いです」
 二人揃って、何とも怪しい挨拶だと思った。
 わざわざありがとうね、と言って、おばさんは廊下の奥の階段から二階へ声をかけていた。
「いつもならすぐ返事するのに。寝ちゃったのかしら」
 苦笑しながら二階へ向かったおばさんに、私はもう少しで「待って下さい」と言う所だった。選択的に言わなかったのではない。私の喉は、とうとう言葉を発することを忘れていた。心臓がざわめく。
 ほどなく二階から聞こえたのは、こはるとおばさんの話し声ではなく、混乱した母親の搾り出すような叫びのみだった。胸元を強く叩かれたみたいに、痛くて苦しくなる。
 気のせいだと押さえ込んでいた不安が、はじけた。何か起きている。何か、悲しい出来事が私に襲い掛かる。それは、予感と言えるほど遠いことではなくなってしまっていた。
「堪えろ」
 視線を向けると、耕一君のそれとぶつかった。心臓の音ばかりが、耳鳴りのように聞こえる。
 世界が騒がしい。
「何も知らなかったフリをしろ。いいな」
 険しい表情の耕一君が小声で言い、私の背中を励ますようにポンと叩いた後、二階へと足を進めていった。
 私は茫然と立ちすくみ、彼を見送る。こはるのお父さんも弟もまだ帰ってないんだ、などと考えていた。
 スニーカーを脱ぎ、恐る恐る後を追った。なめくじが這うようにゆるゆると。

「一昨日は学校で、部活の休憩時間に話しました。特に、変わった様子はなかったです」
 駐在さんに話ながら、「推理小説を読んでいる途中だったって言ってました」と言いそうになった。鞄を調べればいずれわかることなのだろうが、何となく言い留まった。
「昨日は俺が会いました。教室で見かけただけですけど。他には誰もいなかったはずです」
 嘘だ。先輩も、高晴君も、私も、教室で一緒に話をした。それどころか、その夜にも校外で会い、『神隠し』を目撃した。
 口元が嫌らしい笑みを浮かべそうになる。神隠しなんて信じているの?そんなことあるわけないじゃない。
 壁時計が時を刻む音が煩い。
 先ほど、「見るな」と制された大きな声が脳裏に蘇る。それなのに私は、見てしまった。
「昨日は、私は――」
 思いの外震えていた声を押し戻すように、左手で口を押さえる。
 見てしまった。布団の上で、丸まって寝ているこはるを。畳に落ちていた、果物ナイフを。その刃先が、赤く濡れているのを。そして私はようやく、こはるを包む赤いものが、血であることを認識した。いや、血ではないことを否定した。
 ペンケースを忘れて登校したときのような気分だった。そして、電気を消されたみたい。そう、昨晩人が消え、街灯が消えたような、あの唐突さ。あれに似ている。私は今ここで何ら変化を伴わずにぼんやりと生きているのに、こはるはいない。
 こはるは、本当に『もののけ』に取り憑かれていたのだろうか。私は、こんな姿を見るために駆けつけたわけではないのに。こはるの口から「何それ。そんなことあるわけないじゃない」と聞くためにやって来たのに。
 物の怪って何?
 わからない。こはるがもののけを殺したのか、逆なのか。それとも、もののけなどいないのか。バケモノに囚われているのは、もしかしたら私なのではないだろうか。
 何もかも、神様が戯れに見せた夢なんだよ、と言って欲しかった。
「これ、机にあったんだけどね」
 駐在さんが差し出したのは、薄いグリーンの便箋だった。見慣れたこはるの字が目に入る。ゆっくりとペンを動かしているのが目に浮かぶ、丁寧な文字。
「ごめ、なさ……」
 折りたたんだ便箋を机に置く。いつ、こんな手紙を書いてたの?
 駐在所の黒電話が鳴り響き、「見つかった?」という応答が聞こえてくる。
 昨日、あるいは一昨日に神様が隠したものが、戻ってきたのかもしれない。神様は、飽きてしまったのだろうか。
 椅子に座ったまま上半身を折り曲げ、両手で頭を抱え込んだ。誰かが差し出してくれたタオルに顔を押し付けるが、涙が出ているわけではなかった。
 あの夜のことを思い出す。私が浮かされていた夜。こはるの見送りを高晴君に任せ、私は能天気に耕一君に見送ってもらった。
 私はなんでこはるのそばに居なかったの。
 「すぐ戻ります」と言って、耕一君が私の手を引いて外へ出た。揺れる世界で、私は何度となく転びかける。
「大丈夫、だから。ごめんね?」
 立ち止まり、手を解く。
「無理すんな」
 耕一君はやさしい。
 気付いたのはいつだろう。私はこの人に、もっとやさしくして貰いたくなっていた。子どもをなだめるようにでもいいから、甘やかして欲しかった。
「無理しているように見えるの?」
 どんな風にでもいいから、構って欲しかった。
 それがこんな風に叶うなんて知っていたら、私は欲しなかったのに。
「つらいだろ、こんなの」
 耕一君の横顔はきれいだ。いつもと変わらずにきれいだ。それなのに、残酷にも彼の口が「今日は昨日と違ってつらい日である」と告げてしまった。私達の間に、こはるの死が現実味を持って横たわるのを止めることが出来ない。
「“だから、夜は、怖いんですよ”」
 急に思い出されたのは、昨日、神隠しのあとにこはるが呟いていた言葉。
 耕一君が私の顔を見た。まっすぐすぎて、私は見ていられなくなる。胸一杯に空気を吸い込んだつもりなのに、全然足りない。
 昨日は気にとめなかったそれは、こはるが発した警戒警報であり、SOSだったのだろう。そんなことにすら、私は気付けなかったのだ。
「怖がっていたのは、こはるなのに。私よりも、不安で怖くて、誰かにすがりたかったに違いないのに。私は、自分ばっかり耕一君に泣き言をぶつけていた。そんなことしている場合じゃなかったのに」
 手を伸べ、耕一君のシャツの裾を握り締めた。そうしないと、居なくなってしまう気がした。
「違う」
「何が?」
 顔を見上げた。
「気付いていたら助けられたわけじゃない」
 その瞬間、私は世界で一番酷い顔をしていたと思う。拳を握り締めて、耕一君の腕を殴った。なんとも弱い力で。
「そんなのわかんない」
 私の拳はいとも簡単に、耕一君の手に包まれてしまう。
「わかるんだよ」
「……耕一君は、こはるが神隠しをしたって思っているの?」
 ああ、と低く唸るような声が、悲しげな顔をした耕一君から発せられた。
「だったら、それに気付いていれば、こんなことにはならなかったよね?何が違うの?何がわかるの?」
 私は責めるような口調で、自己反証を目論んでいるのかもしれない。視線は気弱に地面に落ちる。
「来海に打ち明けられなかったんじゃなくて、しなかったんじゃないのか。お前に、心配かけまいとして」
 自信がないのだろうか。彼は、呟くように言った。
 こはるの声が思い出される。「クルミちゃん、おはよー、宿題やった?」やわらかい、かわいい声。「昨日の試合どうだった?」細かいルールを知らないのに、楽しそうに話を聞いてくれる。「たまに、甘くない卵焼き食べたくなるときあるよねぇ?」美術の授業中に突然言い出したりする。
 目元が熱を帯び、世界が一気に揺らいだ。
「耕一君。……私を怒って。なんていけない子なんだ、って、叱り付けて」何を言っているのか理解が出来ない、という顔が目に映る。「こはるが死んだのは、私のせいだって言ってよ」
 じっと耕一君を見詰めたままでいた。眉間に皺が寄っているのが、自分でもわかる。「なじってくれたら、違うって必死に言えるのに」
 明日からどうやって生きていけばいいんだろう。
「来海のせいだって言っているんじゃない」
 耕一君の手に力が入り、私の拳を圧迫する。手を振り解いて、両手でタオルを握り締めた。
「ちがうって言うことに必死になって、嫌なこと考えないですむのに」
 ねぇ、なんで私はあの夜に限って、こはるの隣に居なかったの?
 自問する。タオルに顔をうずめ、産まれた直後のように、徐々にしゃくりあげていた。
 嗚咽は止まらない。どうして泣いているのかわからなかった。悲しいの?悔しいの?
 人前でこんな風に泣くなんて、情けなくてカッコ悪くて、余計に泣きたくなる。
 可哀想な女の子がひとりで泣いているから、やさしくしてよ。慰めてよ。甘えさせてよ。こんなときでさえ私は、そんなことを考えている。付け入ろうとしている。
「あいつが守ろうとしたものだろ」
 ふ、と聴こえた声。泣き崩れた顔になっているだろうことも構わず、顔をあげた。
「お前がこんな泣くのなんて、わかってたことだろ?それでもあいつはこの結果を望んだんだと思う。自らの意思で」
 私の手から、するりとタオルが抜き取られる。
「あいつは、来海のことを守りたかったんじゃないのか」
 収まりかけていた涙が、再びあふれ出しそうになる。目元がほてり、腫れぼったい。
「そんなのわからない」
「ああ、そうだな」
 耕一君の手に握られたタオルが、私の頬を拭う。それでもあとからあとから雫がこぼれてしまい、彼を苦笑させた。
「真実はどうであれ泣いてやれ。弔いに」
 泣けと言われて泣くほど、私は器用じゃない。言われなくても、重いものが私の心に沈み込み、寂しさを呼び覚ましている。
 私は、心細いんだ。ようやく気付いた。
 目まぐるしくて、何が起きているのかわからない。どうして耕一君が傍にいるんだろう。そんなことすらわからなくなる。この人がここにいることは確かなのに、それでも、私は寂しいんだ。
 耕一君はタオルを私の頭に被せた。私はその両端を手にして、俯く。タオル越しに、彼のあたたかい手が触れた。ゆっくり瞬くと、はらり、涙が零れ落ちて地面に吸い込まれていった。
 やさしくされているのに。甘やかされているのに。
 それでも全然、癒えない。足りない。全然、足りない。
 迷いに迷ってから、身体を傾けて彼の肩口に額をつける。このことにどれだけの勇気が必要だったか、耕一君は知らないはずだ。母に抱かれる子どものように委ねさせて欲しかったけれど、距離を縮めてはくれなかった。小さな落胆は、すぐに愛おしさに変わる。私の首元で、タオルが弄ばれる気配がした。やり場の無い手がそこにあるのだろう。
 その日初めての、安堵のため息をついた。深呼吸にも似た、長くゆっくりとした。
『クルミちゃんの目の前に広がっていく未来が、明るいものでありますように』
 目を閉じた暗闇の中、こはるの文字が浮かんで、消える。
 こはるは、生きていた。ナイフを突き刺す瞬間まで、彼女は生きていたんだ。
 どれだけ吸い込んでも苦しくて、思考が麻痺していく。
「耕一君……」声は湿り気を帯びていた。出てきた言葉は「ありがとう」の一言だけだった。そこに込められている意味が、どれだけ伝わったのかはわからない。小指の先ほども伝わっていないかも知れない。
 すぐ近くで、ん、という小さな声がして、私の胸をくすぐった。
 すがるように利き手同士を繋いで、水中にいると錯覚しそうになるほど揺れる世界を歩む。

 そして私は神様に呼びかける。
 目覚めたら、私の元へおいで。あなたの悪夢を聞かせてごらん。

2007/8/26

舞台は50年前、とある村の高校生達の物語。
じんろうさまのかみかくし村」のif 4日目SSでした。
村を知らなくてもこれだけで通じるようにと思ったら、くどくて説明っぽくなった。ぎゃふん。
あと、時系列ごちゃまぜに書くの慣れてないのでわかりにくい…。あ、クルミはソフト部です。書き忘れた。まぁいいや。
こはるの人がエピで「もののけは自害してー」と言ってたので、そんな感じでレッツ妄想。自害したのもののけじゃなくなった。あるぇー?

ちなみに村のエピソードは、来海の孫にもののけが憑いたかもかもというオチで終わってるので、SSの終わりはそれへの布石っぽく。
「怒らないから言ってごらん?」(笑顔)って感じです。絶対怒るよこの人。

個人的に「おいで」って言葉が好きなんだけど、言う機会ないんでSSに書いちゃった。気分は敗北者。

もっと夏特有の息苦しさを描きたかったなぁ…。

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