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[けれども、困りました
410円、それはいいのです
財布のなかには、小銭がたくさん入っています
だけれど、わたしにはわからないのです
410円を支払うには、何円玉がいくつ必要なのでしょう?
わかりません、わかりません
わたしはすっかり立ち往生してしまいました]
‥‥?
[そんなときです、足になにかがこつんとあたりました
ひろいあげてみます
コーヒーの缶のようです
手の先からじんわりと暖かさが伝わってきました]
‥‥あなたの、ですか?
[きょろきょろ、まわりを見ます
そこにはひとりの、白いふくの人がいます
その人のものでしょうか
わたしは缶を差し出しました]
[転がっていった缶を、拾い上げてくれたようで。
あはは、と繕う笑い声をあげて手を差し出す。]
ありがとう、それは私のだ
手から缶が逃げてしまってね
捕まえるのに苦労していた所なんだよ
[彼女がそれを渡すのなら、受け取るだろう。
彼女が立っていたのは、煙草の自販機の前。
煙草を買いに来たのだろうか。
せっかくだし、話を振ってみよう。]
煙草かい?
「ありがとう、それは私のだ
手から缶が逃げてしまってね
捕まえるのに苦労していた所なんだよ」
[あははと笑う人、お医者さまでしょうか
わたしもにこりと笑って、缶を手渡しました]
逃がさないように、しっかり持っていてあげてくださいね
[「煙草かい?」その問いかけに、わたしはこくりと頷きます]
ハイライトと‥‥、ハイライトと、マルボロが、ほしいんです
[いつもなら、お札で払ってしまうのだけれど、今日はお札がありませんでした
小銭がいっぱい入った財布が、じゃらりと音を立てました]
どうも捕まえるのは苦手なんだ、ありがとう
[受け取った珈琲。
少し冷めるまで、それを握っていよう。
彼女は、ハイライトとマルボロが欲しいという。
彼女に並んで、煙草の自販機の前に立った。]
マルボロは、紅い方? 白い方?
[いくつか種類のあるその銘柄。
指をさして、聞いてみる。
彼女の財布から、小銭の音がする。
お金が無いわけではないようだ。]
で、何か困りごとかい?
こいつのお礼に、お手伝いするよ
赤いの、です
[わたしは自動販売機を指差して、答えます
ハイライト、410円
マルボロ、440円
足していくらになるのかしら
今のわたしは、それもわかりません
かみさまも、こんな感じだったのかしら]
その、すみません
ここからお金、とってください
[財布を差し出しながら頭を下げて、そうお願いしました
じぶんひとりで買い物もできないなんて、情けないなぁ
そう思いながら。]
お金を?
[病室がわかれば、病気の種類がわかる。
けれど、若者は彼女の病室を知らない。
だから、彼女の病状は理解出来ていなかった。]
ああ、構わないよ
[彼女が財布を差し出すのなら、そこから小銭を取り出して。
掌に載せて、彼女に見せる。]
100円が4つと、10円が1つ
100円が4つと、10円が4つ
[そのままそれを自販機に投入し、二つの銘柄のボタンを押した。
缶よりも乾いた音がして、ぼとん、ぼとん、と二つの箱が排出される。]
君は、何号室の患者さん?
[100とかかれた銀色のお金が、4つと、4つ。
10とかかれた銅色のお金が、1つと4つ。
財布の中から取り出されました]
ありがとう、ございます
[ボタンが押されるとぽとん、ぽとんと控えめな音が鳴りました
わたしはお礼を言って頭をさげて、それからふたつの箱を取り出します]
926号室です
[かみさまと同じ、アルツハイマーとかいう病気のせいで数をかぞえられなくなったけれど、部屋の番号は覚えています
わたしはにこりと微笑んで、答えました]
[彼女が屈んで、自販機から煙草を取り出す。
違う銘柄を二つ、という事は誰かに頼まれたのだろうか?
そんな事を思ったけれど。
病室を聞くと、首を傾げた。
確か、926号は脳外科。
認知症の病室ではなかったろうか。
認知症の患者に、お使い?]
そうかい
私は外科医のユウキと言うんだ
今度、お見舞いさせて貰うね
[病室を聞いた手前、聞いた理由を作らなくてはならなくて。
一度、本当に見舞いにいこうと思った。]
困る事も多いでしょう
ユウキ、さん
[この人は、やっぱりお医者さまのようです
わたしは名前をわすれないように呟きました]
わたし、ロッカです
むっつの、花で、ロッカ
[ほんとうは、ちがいます
ほんとうは、リクカと読むそうなのです
でも、かみさまはロッカと呼んでくれました
それに、「リクカ」はたぶん、あのときに死んだのだと思うのです
だから、わたしはロッカなのです]
「困る事も多いでしょう」
[その言葉に、わたしは笑います]
でも、助けてくれます
ユウキさんも、ひろくんも、ぜろくんも、みんな
優しい人がたくさんいるから
[優しい人が助けてくれるから、わたしはまだ、生きていられるのです
けれど、そんな優しい人たちの事を、わたしはわすれたくないと思います
その人たちを忘れてまで、生きていたくはないのです]
ロッカさん
六つの花で、六花さん
[うん、と頷いてみせた。
最近頭がぼぅっとするから、しっかり覚えておかないといけない。
若者も、彼女と同じように呟いた。]
ひろくんに、ぜろくんですか
優しい人が周りに多くて、羨ましい
ほら、窓の外をご覧なさい
今日は貴女の名、六つの花が咲いています
冷たい世界を、優しい光で包みこむ
そんな花が、咲いていますよ
[掌で、窓の外をさして見せる。
今日は、雪が降っているから。]
「ほら、窓の外をご覧なさい
今日は貴方の名、六つの花が咲いています
冷たい世界を、優しい光で包みこむ
そんな花が、咲いていますよ」
[ユウキさんが手の平でさした方向を、わたしは見ます
窓の外から、ちらちらと白いものが落ちているのが見えました]
‥‥雪、
[わたしは、昔、雪が嫌いでした
でも、今はだいすきです
かみさまのことを、思いださせてくれるからです
顔がほころぶのを感じました]
六つの花とは、雪の結晶の事
なんとも、美しい花だね
[儚さも象徴する雪であるけれど。
それは、言わない事にしよう。]
少し、触れてみるかい?
冷たいけれど、何故か嬉しい気持ちになれる
何故だろうね、見ているだけ、触れているだけ
それでも、雪は心を染め変えてくれる
まるで、誰かの願いが乗ったかのように
「六つの花とは、雪の結晶の事
なんとも、美しい花だね」
[ユウキさんの言葉に、わたしは頷きました
雪は綺麗です
綺麗なかみさまの髪の毛と、おんなじ色をしている雪
「触れてみるかい」と訊ねられて、わたしはまた頷きました
わたしは好きになったけれど、かみさまは雪はあんまり好きそうじゃなかったなぁ。]
[彼女が頷くのを確認して、少し外に出てみる事にした。
外と行っても、中庭のようなスペースで。
リハビリをする方達が、散歩コースにするような場所であるけれど。
病院の外に連れ出すわけにも、いかないし。]
じゃ、こっちだ
[彼女を促しつつ、中庭の方へ歩いて行く。
少し歩けば、そこに辿り着くだろう。
流石に、寒いかもしれない。
彼女が寒がるようであれば、白衣でも貸そう。
無いよりは、きっとマシだろうから。]
896号室の朝
[海に雪が落ちる様子が見たくて。
髪に櫛を通す間は、目を閉じて、
頭の内に冬の海岸を思い描いた。]
…手紙は来るかな?
お手玉は出来るかな?
[看護師に検温してもらいながら、
少し細めた目で足の先を見つめる。
昨日塗ったばかりのペディキュアは
今日もそのままに鮮やかな林檎色。
この部屋での生活が始まってから
化粧をする習慣は無くなっていたけど、
たまの気分転換に色を得るのは好き。]
[お医者さまと一緒に、小さな中庭へ出ます
降りてきた白が、わたしの頬に触れて溶けていきました
手を受けざらにするように差し出せば、そこにも白が降りてきます
まるで、空からのプレゼントのようだと思いました
吐く息も白くて、たばこを吸っていないのにたばこを吸っているみたいです
ちょっぴり寒かったけれど、わたしは雪を手に受けることに夢中で、そんな事はどうでもいいのでした]
[雪を手に受けている彼女は、何やらそれに夢中のようで。
若者は、とても楽しそうだと思った。
白い息が、ゆっくりと拡散して行く。
白い粉が、ゆっくりと降り注ぐ。
触れれば溶けて、触れれば消える。
繰り返していく内に、積み重なって。
気がつけば、世界を白に変えて行く。
何もかも、ゆっくりと、真っ白に。
認知症も同じだと思ってしまえば、少し悲しくはなったけれど。
それは、考えないようにと首を振った。]
寒くないかい、大丈夫?
[温かい珈琲を握り、そう問う。]
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