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さてと…日課の一服でもしにいこうかね…
[一二三は愛用の煙草入れをポケットに押し込み、いつもの屋上へと向かう事にした。
本来ならラウンジの喫煙室を使うように言われているのだが、何とも監視されているようで嫌だ…との理由から一二三は利用したことがなかった。屋上でひっそりと、潮風にさらされながらの一服が何よりの御馳走だった]
(丁度屋上からは中庭が見えるしね…。あの歌声が誰のものか、耳を澄ますのも悪くはないさ)
[後藤と沢渡の間に椅子を置き、勉強する様子を眺めている。
沢渡の教科書を拝借してページを捲り、自分が学生の頃にも習った内容を見つけると微かに目許を細めたり。懐かしかった。
沢渡の言葉に、珈琲を啜ってから答えた。]
先生も、学生の頃はブラックなんて飲めなかったよ。
ミルクたっぷりのココア派だったけど。……味覚なんて成長と共に変化するものさ。
―――…っと、ちょっとごめん。
[何時もは切っているプライベートの電話が震え、メールの内容を確認する。案の定時計屋からだった。
簡素なその内容を見つめると、表情から微笑の色の一切が、消える。]
時計屋に、行かないと。……勉強の邪魔して、ごめんね。
[カップを手にして立ち上がり、じゃあね、と談話室の二人へ手を振り、去っていった。]
[仄かな潮風が冬の冴を運び、白衣の裾を薄く浚っていく。
不意に鼓膜へ伝う歌声に惹かれて、中庭へ視線を落とした。人の姿は捉えられないけれど、きっと誰かがオトハの死を悼んでCD音源を流しているのだろうと、合理的な解釈を行った。]
『オトハ』さん……、まだ若いのに、残念な事でしたね。
人生で二度も交通事故に遭い、亡くなるなんて。
[黒枝に見せた時のような翳りはもう、見受けられないだろう。平家へ淡々とオトハの死を語り、白衣のポケットから腕時計を取り出した。]
これももう、直らないなら要らないな。
[屋上の柵へ時計を差し出し、そのまま手放す。僅かな空白を縫うように、中庭のコンクリートに腕時計が落ちた事を示す軽い衝撃音が響く。
薄く微笑んだまま、再びポケットへ両手を忍ばせる。「余り、本数吸ってはだめですよ」と、煙草を咎めることなく屋上を去っていった。]
[屋上から検査室に戻り、幾つかの検査を行っていった。いつもと変わらぬ業務を、淡々とこなしていく。
誰かが死のうが、産まれようが、所詮自分には関係のないこと、と。
『患者に対し、必要以上の感情移入をしてはならない』という父の言葉がなんとなく、解ったような気もした。]
夕刻:531号室前
灰色の中で、過ごせばいい……
[ぽつり、ひとりごちた言葉で思い出すのは、極彩色の中に生きる青年の事だった。
職員へ、何かあったら院内PHSで呼び出してくれと残し、その足は5階へ進む。]
柏木さん、……居ますか?
訪問するには些か妙な時間ではあったものの、気に留めることなくその部屋の前に佇み、扉を*ノックした*]
おいしかったねェ
[箸を降ろした老婆の食器には、まだ食事が残っていた。
眉を下げ、職員に明日からもっと減らしてくれなどと声を掛けながら食堂を辞する。
知った顔があれば皺に塗れた顔をくしゃりと歪ませて、そうして挨拶しながら出て行った。]
五階 廊下
さァて。
あの窓ォは、どおこの、部屋かね。
[金髪の人形を携え、一歩、一歩と歩いていく。
時折部屋をのぞきこみ、そこに見知った顔があれば皺を深めて話しかけた。老婆にとっては、この病院内ですべてが終わっていた。彼女を見舞う人間はいなかった。家族と呼べた相手は、はやばやと次の世界へ旅立った。娘も、孫も義息子も、彼女の入院以来一度たりとも訪れたことはない。だからこそ、彼女は病院内にいる人間に向けて笑いかけた。]
あっ……ちょいと すいませんけども。
[廊下を歩んでくる看護師に、声を掛ける。
金髪の人形を持つ手が忙しなく、上から下へと梳いた。]
あたし、このお部屋の人のお見舞いしたいンです
そのォ……いいでしょうか、ねェ
何分あたし、こんなお部屋ァ初めてで……
いえね、外から見上げた時に、
はて……あの子ァ誰だろうな、見たことがないぞって思っちまいましてねェ
なんだかね、サミシイんじゃないだろかって勝手に、えェ勝手に考えちまって。
いやねあたしだったらァ、そうだろうなって思ったんですよぅ。
で、どうでしょう看護師さん。
勝手にお見舞いしていいもんでしょうか。
[その看護師の言葉を待つように、
小さな黒い眼がうろちょろ、壁越しの病室へと投げかけられた**]
[ベッドの上でぼんやりとして――いつの間にか、眠りに落ちていた。男の眠りは基本的に浅い。幾分深くとも、精神は度々疲労を強いられる。
故に男は日中にも眠りを挟む事が多かった。
男が再び目覚めたのは昼食の時間だった。朝食と同様の按配でそれを食べ、男はイーゼルに向かった]
……、
[いつものように、キャンバスを色で染めていく]
……
[ただ目の前のキャンバスのみに集中して、ひたすら筆を走らせて、男は午後を過ごしていった]
[男が作業の手を止めたのは、夕刻になっての事だった。不意に聞こえてきたノックの音と呼び声に、男は扉の方へ顔を向けた。
前日の中庭での約束を、幾つかの会話の断片と共に思い出しながら、男は筆とパレットを傍らの台の上に置いた。かた、と僅かに水入れの中の混沌が揺れ]
――どうぞ。
[帽子を深く被り直しつつ、訪問者に*返した*]
『鎌田さーん、お見舞いにきたいって方が来られてますけどー?』
あっ、はーい。分かりましたー
[帽子だけ被って準備万端。無菌室の前に紫外線を当てて殺菌をする部屋があるので、
そこに決められた時間いてからようやく部屋に入れるようになっている。
さらには時間が無いけどお見舞いがしたいと言う人向けに、窓から中を覗くことも出来るようになっているのだ。]
うーん、誰だろう?
学校は授業中だし…親戚の人かな?
「はい、お見舞い良いですよ。」
はァ、ありがとうねえ。
[看護士が部屋の中に尋ねる間も、廊下では老婆がずっと、金髪を撫で続けていた。
ようやっと帰ってきた声に安堵したような吐息を交えながら返答した。]
じゃァ、――……失礼しますよう。
五階 病室
[そこで目にしたのは、老婆にとってはそれこそTVですらも見たことのない内装だった。
簡単な説明を受け、窓越しの対話を選んだ彼女は、すぐに話し口に向かわずに
窓の向こうの女の子へと笑みを向けた]
あらァ、やっぱり見たことない子だ。
こんにちはァ、お邪魔しますよ。
[皺を深め、その波に眼まで埋めてしまうのかという具合に老婆は笑んでみせる。そこには初対面だから、などといった躊躇もなく、長らく合わなかった親類に対してのような、そんな気さくさが皺のうちからにじんでいる]
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