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[女子学生が去ってしまえば、廊下には再び静寂が宿り始める。
否、微かな足音が近づいてきたか。
姿を捉える事は叶わないものの、静かに窓を閉める。
海風が体調に触る患者も、少なくはないから。]
[廊下に人通りは少なく、辺りはしんとしていた。からり。その中で響いて聞こえた音に、男は顔を其方に僅か傾けた。廊下の先に見えたのは、白い人影。病院である此処には当然幾人もいる、医師の一人だ]
……
[そうとまではすぐに把握出来たが、何分サングラスでとても良好とはいえない視界、それがどの医師かまでの判別は]
……、今日は。
[出来たのは、数メートルに近付いてから。かつり、立ち止まり、会釈と共に挨拶し]
[スカーフに手をかけて、首を振った。
今日は一つ目の検査まで時間がある。まだ、もう少しだけ。制服でいよう。
トランクを開けて、荷物を片付ける。図書館で借りてきた本は出さずに、パジャマを一着、マフラーの横に置いた]
ずっと此処にいたらそりゃあ…
[気分も滅入るよね、と。
陰を隠せていなかった結城の顔を思い出した。次に会うときは、彼が言った「後で」の時は]
私が暗い顔してなきゃ、いいけど
[一人でいるのに慣れると、どうにも独り言が増える。誰か、誰か。大きな財布から少しだけ小銭入れに移し変えて、水色のがま口を片手に病室を出る]
[近づく足音が、通常のそれとは異なる事に気づいたのは窓を閉めてからだったろう。
足を引き擦り、松葉杖をつき、顔を隠すかのように目深く被った帽子姿の人物を正面に捉え、軽くお辞儀を返した。]
こんにちは、柏木さん。
今日はとても良い天気で、気持ちいいですね。
[こうして歩く事さえ不自由であろう彼へ送る挨拶は、余りにもありきたりなものでしかなかった。
しかも、…先程までは「気持ちいい」には程遠い心境であったのだけれど。]
[結城という内科医。直接治療での関わりはないが、その名前と所属、新米らしいという事、そして簡単な人となりくらいは知っていた。
そもそも、病院内で全く知らない人間というのは、職員でも患者でもそう多くはない]
いい天気。……そうですね、確かに。
こんなに静かだから。
雨ではないとは、思っていましたが。
そうですね。いい天気です。
[結城の言葉で初めて気が付いたというように、閉じられた窓の方を見た。通る声質だがマフラーで些か篭った声で、ぽつりぽつりと]
[風に紛れる歌声に、ふんふんと鼻歌で後を追いながら、老婆の時間はゆっくりと過ぎていく。その間にも皺に紛れるような黒いまなざしは一針一針進む手元に注がれていた。黒い布は形を変え、布を寄せては膨らまし、そうして少しずつ洋装の一部へと変わっていく。]
あんたには、 黒いびろうど の
スカートがいいね
こんな風にも飛ばない 重ぉい スカートさね
あの子の歌は 飛んでいいんだよぉ
そうじゃないとあたしにゃ聞こえなくなっちまうからねぇ
[もう一針、皺を寄せた。波打つ光沢の天鵞絨、海原の輝きとは違う柔らかなきらめきを眼に写し]
――おや。
いつの間にやら、終わっちまってたみたいだ。
[歌声のかけた潮風に耳を傾けた。]
ラウンジ
[廊下を進みやってきたのは、緑と青が一緒に見えるラウンジだった。両方とも好きな色だし、何より此処にいる人の空気も、なんとなく好きだった]
おばあちゃん、元気してた?
[踊るような足取りは椅子の前で止まり、ぼたんの前へと膝を抱えるようにしてしゃがみこんだ]
[此方もまた、全員ではないにしろ入院患者の顔と名前程度であれば、担当でなくとも把握していた。
特に目前の患者は著名人だ。尤も、芸術に疎い己は彼がどんな絵を描いているのかまでは、知らないけれど。
ありきたりな言葉へ返って来た彼の言葉に、軽く首を捻る。
さも今天気に気づいた、というような。興味が無い、とも取れるかもしれない。
これが芸術家なんだなと、妙に感心してしまう。]
……、……深いなあ。
――あ、良かったら中庭に散歩にでも、出てみますか?
僕で良ければ、車椅子でお連れしますよ。
[自分は丁度、休憩時間だ。気分転換にでもなれば、と。
常と変わらず、お節介かもしれない一言を告げてみる。]
おや。 おやおや。
おやまあ。
[軽やかな足取りで現れた女子学生を、そう広くはない視界に入れると、皺の刻まれた顔に一層の皺を寄せて笑んだ。]
奈緒ちゃん。奈緒ちゃんじゃないか。
おかえりよう。
あたしったら てっきり
奈緒ちゃんにゃあもう会えないと思ってたよォ。
[問いかけに直接答えるまでもなく、その顔に浮かんだ笑みは頬にさっと色を走らせて、老人特有の白さはあれど元気であると示していた。]
へへ、おばあちゃんにまた会いたくて
…来ちゃった
[笑顔も、顔色も、悪くない。
元気だと分かれば、それを見る少女の気分も上向いて]
もう会えないはないよぉ
これからは毎日、会えるよ!
[それは見舞いではなく、入院だという言葉。
一見元気そうに見えるのに、少女の身体はそのセーラー服の下にいくつもの傷跡を隠していた。
ほら、今だって。
まくりあがったスカートの裾から、腿に走る縫い跡がうっすらと顔を覗かせている]
……なら。
落とし穴かも、しれませんね。
[独り言のように、直ちに霧散するような淡い言葉を、短く一つだけ落とし]
……
そうですね。もし、宜しければ。
散歩に出てきたつもりでは、ありましたから。
[結城が提案するのを聞くと、少し考えるような間を置いてから、頷いた]
[音羽――オトハの声は、庭だけでなく、建物の中からもよく聞こえてくる。
それはこの病院に来る人を出迎えているようであり、出て行く人を――魂を、祝福するようでもあった]
………
[職員以外に顔見知りと認識されるのは、あまり嬉しいことではなかった。
そして何より、「また」という挨拶が、男は何よりも嫌いだった*]
――え、?
[虚をつくかの言葉に思わず聞き返してしまった。
まさか、かの芸術家がジョークに長けていたとは知らなかった、らしい。
妙な間を挟んでしまったものの、快諾を受けると嬉しそうに微笑んだ。]
良し、じゃあ…、少し待っててくださいね。
[そう残し、手近なナースセンターで車椅子を借りてくる。
――気分転換したかったのは、彼ではない、自分だ。死に満ちた空間から、今は少しでも、逃れていたかった。
カラカラと車椅子を押しながら柏木の横へと付ける。拒絶されなければその手から杖を受け取り、そっと腰を支えて介助を行うだろう。]
あァらあ
こんな干からびた婆さんに会ったってねぇ
[会いたくて、の言葉に、弓なりに細めていた眼はくちゃりと皺の中へ、笑みの中へ沈んでいく。
見舞いに来たのだと思うばかりに生まれた笑みは、次いだ言葉に薄まり]
……あらまぁ。
[今度は皺を寄せ集めた布のような笑みではなく、にこりと曲線を描き出す表情をして]
そうだったの、奈緒ちゃん。
それじゃ毎日奈緒ちゃんの可愛い笑顔が見れちまうってわけだねェ。
婆ちゃん喜びすぎて 長生きしちゃうよ。
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