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[あの女性が、菊子と呼んだ小さな子を見つめる。
あぁ、そうだ。
あれは小さな、小さな私。
二人の兄、それと。]
おかあ、さん。
[記憶から、抜け落ちていた人。]
なんで…
私、忘れて─
[目の前のその人は、小さな私に優しい顔で笑いかけてくれている。
私も、全身で大好きを伝えていて。
どうして、こんなに大好きな人を、忘れてしまったのだろう。
どうして父さん達は、忘れてしまっていることを不思議に思わないのだろう。]
…たしかめ、なきゃ。
[無意識に、足が動く方へと向かった。]
(ここ、は。)
[波の音、潮の匂い。
賑やかな笑い声。]
『こんなちっちぇーのがこわいなんてへんなの!ほらほら!』
『うわああん、たけにぃのバカー!』
『こら、タケ!おまえまたキクコいじめてんのか。』
『なんだよマツ兄!いっつもキクコのみかたばっかして!』
[あぁ、これは覚えてる。
毎年恒例だった潮干狩りの時だ。
フナムシを押し付けられそうになって、大泣きして。
兄二人が言い合いをし始めた隙にこの場から逃げだしたんだ。
走って、走って。
後ろから、お父さんとお母さんの慌てた声が聞こえたけど、止まらずに走って。]
『きゃあっ』
[どしん、前にいた人にぶつかった。
尻餅をついて、痛みにまた涙が出て。
それから。]
(…あ、れ。)
[この後何があったのか、思い出せない。
今の私の記憶にない出来事が、目の前にある。
小さな私がぶつかった人が差し伸べてくれた手。
その手につかまって、立ち上がって。
ぱたぱたとスカートをはたいて、お礼を言おうと見上げた人は私の顔を見て驚いて、そして問われた。]
『…君のお母さんの名前は、何て言うのかな?』
『お母さんの?』
…だ、め。
[答えちゃダメだ。
そう思ったけれど、止められる訳がない。
小さな私は、お母さんの名前をその人に言った。
そして、後ろから、浜から離れた私を探すお母さん達の声が、聴こえて。]
『やっと、見つけた。』
『菊子!』
[ぐい、と。
その人に腕を引っ張られる。
急にそんなことをされたから、私は怖くて泣き出して。
お母さんは、私の腕を掴んでいるその人の顔を見て、固まった。]
『菊子を放して下さい。』
『勝手なことを言わないで。私を勘当したのはあの人でしょう。
今更、父親面されたって。』
[お母さんが見たことないような怖い顔をして、話している。
私を捕まえている人も、怖い顔をしている。
怖い、怖い、怖い。お母さん、助けて。
そうだ、この時そう、思ってた。
いつのまにか、お父さんも、この場に来ていて。
お父さんも加わっての、話し合いになった。]
『……時間を、くれませんか。
この先10年、俺が一人で子供たちを育てます。
10年後の俺と子供たちを評価した上で、こいつを取り上げるかどうか、決めて下さい。』
[お父さんの言葉に、私を捕まえている人が頷く。
お母さんは、すごく悲しそうな顔でお父さんと私を見た。
お父さんとお母さん、二人の声は急に切れ切れにしか聞こえなくなって。
『離れたくない』『お父さんが病気で』『側に』
断片的に聴こえる声、二人の表情。
徐々に俯き、悲しげな顔をするお母さんが、お父さんの言葉に頷いて。
小さな私の手は離されて、お父さんの元に。
お母さんは、私をぎゅっと抱きしめて、そして。]
…っ、いかないで!
お母さん、いかないで!いっちゃやだ!!
[小さな私と、同じ言葉を叫んだ。]
[お父さんの手に引かれて、その場を離れさせられた。
お母さんは振り向いてくれない。
お父さんはすごく強い力で、ぐいぐい引っ張って。
ずっと待ってたお兄ちゃん達に、お母さんは帰ってこないって説明した。
お兄ちゃん達も、泣いて。
でも、わかったって、返事をしてた。
それも、小さな私には、ショックだった。]
『おとーさんもまつにぃもたけにぃも。
どーしておかーさんがいっちゃったのをしかたないっていうの?
どうしておかーさんはあのおじさんといっちゃったの?
わたしがあのおじさんにぶつかったから?
わたしがみつかったから?
そうだ。
わたしがおかーさんのナマエ、おしえたから。
わたしのせいで、おかーさんがいなくなっちゃった。
わたしの、せいで。』
[ぱきん。
頭の中で、何かが割れた音がして。
そうだ、そのまま、私は気を、失って。
目を覚ました時には、お母さんを、忘れていたんだ。]
[そうだ。
10年前と、今と。
父さんが変わったんじゃない。
勿論、兄達も変わってはいない。
変わったのは。
忘れてしまったのは。]
あたしの方、だったんだ。
[父も兄も母のことを口にしなかったのは。
心の負荷に耐え切れず忘れてしまった私を、刺激しないように。
私が思い出すのを、待ってくれていたんだろう。]
……帰らなきゃ。
[帰って、父さん達に、話さなきゃ。
そして。]
お母さんに、謝らなきゃ。
忘れてて、ごめんって。
[ぎゅ、と。
手を握る自分の身体を、あの兎から感じた力がふわり、*包んだ。*]
……あ、れ?
[立っていたのは、道の真ん中。
片手に柏餅、もう一方の手には学生鞄を持っていて。
周囲を見回さずとも、髪を撫でる潮風と耳を擽る波音が海辺の道だと教えてくれた。]
いまの、って…
[所謂白昼夢というものか、そう思いかけたけれど。
一方が解けた髪と、思い出した面影が現実だったのだと告げていて。]
…飛鳥さん達に、会わなくちゃ。
それに…和馬にも。
[狭間に飛ばされた人達は戻れたか、飛ばされなかった人達もワスレモノは見つけられたのか。
それを確かめに、心当たりを探しに*向かった。*]
─ 後日のこと ─
「菊ちゃんってさ、少し変わったよね。」
[休日。
友人と二人で歩いていたら、不意にこう言われた。]
「何が変わったとか、うまくは言えないんだけど。
前よりも今の菊ちゃんの方が、らしい気がする。」
[そういって笑う友人に、自分ではよく解らなくて首を傾げてはみたけれど。
友達の楽しそうな笑顔に悪い気はしなくて、こちらも笑顔になった。
話題は他愛のないものに移行しながら、目的の場所へと歩を進めて。]
「あ、ねぇ、ここじゃない?
ギャラリー刻って書いてある。
…楽しみだね、写真。
葉書くれた人…六花さん、だっけ。」
[友人の言葉に頷くと、嬉しそうに笑いながら二人一緒にギャラリーの扉を*くぐった。*]
[あの不思議な体験から、自分を取り巻く状況は随分変わった。
まず、家族。
父や兄達が母のことを話すようになった。
母の実家に家族全員で出向き、祖父たちとも話し合うようになった。
先はどうなるか分からないけれど、また一緒に暮らせるように、頑張っている。
母に、忘れてしまっていたことを謝りも、した。
母はぎゅっと、あの別れた日と同じように抱きしめてくれて。
二人で泣いて、笑った。]
[それから、自分自身。
落ち着きないとか、すぐに思ったことを口にするとかはそのまま、だけど。
前よりも、視界が広がった気がする。
それと。]
聞いてくださいよ、貢さん。
お見合い、断れなかったって言うんですよ。
そりゃ、一度は引き受けましたけど。
[以前とは心境が変わったと言っても、切欠は説明できるわけもなくて。
期間限定の柏餅を買う為足繁く通っている内、すっかり話し相手になってもらった人に愚痴った。]
まあ。
顔合わせだけすれば断って良いっていわれたし…
そもそも相手の方から断られることもあるん、ですけど。
[見合い自体、したくないと思うようになった。
それは何故かわからないけれど、和馬の顔が浮かんで慌てて顔を横に振って。
結局押し切られた見合いの席で、向かいあわせに座った人の顔を見て。
驚きに目を丸くしたかどうかは、その場に居合わせた人しか*知らないこと。*]
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