[拳からは魚の柄が見えている。
くしゃっとしたそれは男の煙草の箱とどっこいどっこい。
普段なら怒鳴っていたかもしれない。
だが男は辛抱強く、少女の言葉を待った。
待つだけの大人としての余裕を、思い出しかけていた。]
[無言のまま、男は待った。
無表情にじっと少女を見つめて。
握りつぶした箱も気にする様子もなく、見返していた。
少女の目に映る自分の影が小さく見える。
その中の自分は行く先も分からないようで。
男が小学生にもならないうち、
親に連れて行ってもらった夏祭りで迷子になった。
自分は、泣いていたときもこんな目をしていただろうか。]
[「おすそ分け、です!」
思い切って口を開けた少女は、そう言った。
つられたわけでもないが、今度は男が口をぽかんと開けた。]
[好きな飴をわざわざ手渡しに来たのか。
しかし、なんで俺に。
言いたいことはあったが、強く結ばれた拳を見て飲み込む。
電車の速度は緩やかになっていく。
男の、まだ降りる必要のない駅が近付いてくる。
一瞬だけ窓の外から光が差して、男は瞬いた。
しばらくしてから開けた目には、
日光を浴び小さな自信を備えたように見える、少女の姿。]
ん。
[言葉を聞き終わると、男は少し目を細め
箱を持っていない方の手を軽く差し出した。
指を開かせてやる必要はないだろう。
少女にもそれくらいの自尊心や、都合や、
あるいは強さだってあるはずだから。]
…………あんがと。
[そう言ってしまえば、少女も渡さざるを得まい。
その後押しは、意地悪でもあり、大人としての助け舟でもあった。
飴がてのひらに落ちてくるのを、男は待った。
力仕事をしている、大人の男のてのひらだった。]
[就労したことのない、子供の柔らかい手。
男の手に比して小さい飴はそこから、
揺らめくようにしててのひらへと落ちてくる。
夏祭りで捕まえた金魚よりもつめたい気がした。
その錯覚は手に触れて、現実の温度を知るまでの短い間。
一瞬の交流の間そのもの。
頷く少女はいたく納得した顔で、
よかったじゃん、と声でもかけてやれば
いっそう破顔したかもしれない。
しかし、小さく小さく、笑うだけにとどめて。
少しだけ顎を引いて頷き返した。]
[少女が再びよろめく。
支えてやろうかとも思うが、その必要はなかった。
そうしてややお姉さんぶったお辞儀をして、
するり、魚よりも滑らかに行ってしまう。
手を挙げて挨拶するのもおかしいようで
男も視線を投げたきり、納得した。
扉の前に立った少女はもう降りるのだろう。]
[熱い空気が流れ込んでくる。
乗り込んできたときほど、顔をしかめたりはしない。
見送った少女は大きな大きな一歩を、
今にも転んでしまうのではないかと心配するような一歩を、
踏み出して、
春風のようにいなくなった。]
[しばらくドアの外を見ていたが、
扉が閉まる音がすると携帯の電波を確認した。
全くの圏外だったのが、
電波がひとつ入るマークに変わっている。
日常に帰るのだ、そんな実感がしてきた。]
[いい父親だかいい夫だか、
そんなことは思っても仕方のないことで。
どこからか柑橘類の匂いがしてきた。
これも一瞬で消えてしまうのだろう。
けれども、憂いを払うのはそんな刹那のなにかではないか。
思いながら携帯を閉じる。
目を閉じて、揺れに身を任せる。
降車駅まで、あと少し。
日常まで、あと少し。
それまでにちっぽけな英気を養おう、
そう考えて男は口元に生来の笑みを浮かべて息をついた。**]