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[筆が温まってきたように感じられた。
実際には筆ではなく、色鉛筆なのだけれど。
こうして、何かを描くのも久し振りだった。
描いてみたい、と感じる光景に出会うことも。
緩く天空を仰ぎ見る。
青空を背後に聳える病院の、屋上の柵が見えた]
『かみさま』
[そう話していた、煙草を吸うお嬢さんを思い出し――
空へ向かい、薄煙を吐き出す横顔と、『かみさま』を描いてみる。
『かみさま』の姿に思案して、結果形になったのは
白い髭と白い巻き毛の、赤い服を着た老人で]
クリスマス、だもんなァ…
[サンタクロースに酷似した『かみさま』は
煙草を嗜むお嬢さんへ、空から穏やかに微笑んでいる。]
[スケッチブックは、更に新たな線を綴る。
穏やかな、母の笑顔。
貧しさも、不安も、病の痛みも
その全てから解放されて、ただ嬉しそうに微笑む
母の笑顔を描き出す。
頬の皺も、一際下がった眦も
染みの浮かぶ肌も、その全てが彼女の生きた証。
自分と、兄と、妹と弟。
次の世代を健気に守り、慈しんで育ててくれた
偉大な存在を紙へと記す]
――母ちゃん…、
[その声音は音と為す前に、白い呼気となり
大気へ、溶けた]
[スケッチブックに描く色。
最後に描いたのは、四人の娘達と女房の絵だった。
幾度となく繰り返してしまった暴力と
一向に改善されぬ貧しさに痺れを切らし
男が目を離した隙に500キロ離れた土地へと
逃げてしまった娘達と妻。
まだ十代だった娘達が、友人全てを切れる筈はなく
友人ひとりひとりを訪ね歩いて、移転先へ迎えに行った。
今度こそ、心を入れ替え仕事に励むと。
暴力は一切奮わないと。
土下座し、二度戻って来させたけれど
慣れてしまえば常と変わらぬ生活に、
娘達は完全に男を見捨てた。
妻の居場所は、煙のように消息を掴めなくなってしまっていた]
[やがて、移転先でそれぞれ結婚し、
地盤を固めていく娘達に、幾度となく金をせびった。
妻の居場所を探ろうと、電話口にまだ小さな孫を出させ
「ばあちゃんはどこに住んでいるかなァ」
とカマをかけた。
「ばあちゃん?えっとね…」と語ろうとした孫から
娘が電話を取り上げ
『旦那の方のばあちゃんの事だから!』と
慌てふためいていたのも、記憶に新しい。
そんな自分の所為なのか、妹と同じように
『こんな父親は居なかった』ことにしたかったのか
娘達とも、連絡が取れなくなっていく]
[描き上げた娘達の姿は
彼等が居なくなってから、網膜に焼き付けんとばかりに
幾度も幾度も眺めた、家族旅行の際の写真の構図。
それぞれが華やかにお洒落をし、
豪奢な温泉旅館の前で撮ったもの。
もう、戻れないと知るが故
決して忘れることの出来ない一枚だった。
男は、絵の横に文字をしたためる]
[それを、誰かに計られる心算なく
自分で、自分を卑下する心算もない。
今はただ、そう――
カタクリの花が見たい、と
ただ、それだけを感じて
絵をしたためたスケッチブックを
休憩室にそっと*戻した*]
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