[「もうお兄ちゃんになったんだから、
お兄ちゃんらしくしてね」
そう言われたときを思い出す。
腹部が膨らんでいくだけの母は入院し、
次に見たときにはよく分からない生き物を抱きかかえていた。]
なんだよ、これ。
[「らしく」という意味が分からない。
妹が生まれてきたことが分からない。
意味も、必要性も、どこにあるのか。]
[しかし、これから男が出会うのはそういった場。
気持ちが悪かった。
帰りたかった。
しかし、帰るところがない。
帰るところに新しく異物が加わる、それだけなのだ。
なんであいつは、妊娠なんかしたんだ。]
[当たり前に、当たり前な子供が生まれるのだと思っていた。
それが「普通」だから。
しかし普通とは何だろうか。
何の感慨もなく結婚して、
今日にでも父親になろうとしているのに
全く実感は湧かないでいた。
妻の陣痛が酷くなったと聞かされたのは今朝のこと。
男はなにも持たず、財布と携帯とだけを持って家を出た。
面倒なものは妻の実家にあるはずで、
男が持って行くべきものなどなにもなかったのだ。
そこにまた、小さな疎外感。
家族とは何だろうか。
自分は家族ではなかったのか。
自分と妻の子供が生まれようとしているのに、
「家族」から自分だけ抜け落ちたような感覚。]
[そういやいつだったか、
男の妹が家出騒動を起こしたことがあった。
妹が中学生にもならなかった頃か。
確か、軽率な妹は手提げ鞄にリコーダーなんかを
入れっぱなしにしたまま出て行った。
筆箱やいらないプリントや、
その夜さえ越せそうにない出で立ちで。
結局は、駅前でうろついて
途方に暮れているのを男が確保した。
ぐずる妹に、半ば無理矢理のように
自販機で買ってやった粒入りオレンジジュースが
魅力的に見えて、自分でも飲みたくなった覚えがある。]
[男(?)が出て行ったときに開いたドアから、
生暖かい風が入ってきていた。
わずかなそれすらも、男の眉間にしわを寄せさせるには充分。]
あっついな……。
[日差しは凶悪で、できるならばずっと電車に乗り続けていたい。
車内の冷房は男には丁度良く、日差しを遮る座席の位置も
大きな魅力のように思われた。]
[何だっただろうか、思わせぶりな女の話。
よく知っているものとは違ったはずの、女の言い方。
「迷える子――解って?」
そうだ、ストレイシープ。]
[苛立ちの原因のひとつに、思い至る。
……あのときの、駅前での妹の顔。
そこに浮かんだ、不安そうな色。
それが、先に見た少女にもあったのだ。
だから、男は自分も不安を煽られたのだ。]
[探すわけではない。
断じて、心配しているわけでもない。
だが――男は先程見掛けた少女がどこに座っていたかと、
狭い車内をもう一度改めた。
自分の不安が、具現化されているような気がした。]