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―朝―
[気が付けば朝だ。外から歌が聞こえてきた気がした。
一人の部屋は寂しい。無菌室という場所だから、仕方がないのだけど。]
誰かお見舞いとか来てくれるといいんだけどなあ
[窓の外の海を見ながら、そう呟いた。5階の窓から見える景色はなかなか綺麗なのだけど。]
[今日は何を歌おうか?
こんな空が近く見える日は、あれがいい。
祝福の歌。
アヴェマリア。]
Ave Maria
gratia plena...
[その歌声は、空にとけるように吸い込まれて行く。]
Amen...
[やがて歌い終わり、結びの祈りを捧げると、それまで気にしていなかった周囲に顔を向ける。
その時に初めて違和感を感じた。]
…?
[誰一人として、こちらを見ては居ない。
拍手とかが欲しかったと言う訳ではないけど。
通り過ぎる人も廊下を歩く人も中庭に居る人も、誰も彼女を見ては居ない。
声が出ていなかったのだろうか?
いや、そんな筈は無い…と思うけれど、自信が無かった。
何せこの耳はポンコツなのだから。]
明るいうちに寝ちゃうと後が大変だもん
[肩に触れた手を、まだ目覚めきっていない瞳でぼんやりと見て呟き、慌てたように一歩後ろに下がった。
扉の前まで来ていたから、ベッドに足がぶつかることもなく]
あ、えぇと…
座ったほうがいい?
[軽く診察されるのか、と窺うように見上げた]
[回診が終われば、カーテンの開け放たれた窓の向こうを見やった。中庭は反対側。そこからの音は、きっとあまり届かない]
オトハ…さん、今日も来るかな?
[結城も確か好きだったはず。世間話のひとつみたいに軽く、口に出した]
そりゃごもっとも、だ。
昨日はどう、よく眠れたかな?
[そっと寝台へ導き、自分はその前へと立つ。
手許のファイルの内容を確認した。ざっと目で追うが、朝の検温等では別段変化は見受けられなかった、かもしれない。]
うん、そうだね。
どうかな、体調は。
[簡単な診察を行うだけなので、緊張しないように会話を続ける。
黒枝が寝台に腰を下ろせば、指先を頬へと滑らせ顎をほんの少し上向かせて喉奥を確認しようと。
心音や脈拍を測り終える頃、何気なく呟いた彼女のひとことに、ぴく、と動きが停止した]
―――…、……。
[無垢な瞳を、凝視する。
伝えるべきか、否かを計算していた。少なくともオトハに何かがあった事は、伝わってしまうか。]
なに …どうしたの、先生?
[とくん、と努めて平静を保っていた鼓動が大きく跳ねた気がした。嫌な予感がする。嫌な、空気が
穏やかだった朝の病室を一瞬にして塗り替えてしまった]
オトハさん、どうかしたの?
[視線を逸らすように伏せられた睫毛は僅かに震え、問いが終わると同時に持ち上げられ
偽りを許さない、というように結城の瞳をひたと見据える]
/*
無菌室にいるときは家族の中でも限られた人のみが入室を許可されており
他はドア越しにインターホンで話します。インターホンの場所まで行くのは患者にとって苦痛です。
見舞い客は無菌室の中に入ることはできない。壁の一つが全面ガラス張りになっていて、その外側から室内を見ることができるだけだ。動物園のケモノのような感じである。
会話は「留置場にあるようなガラスに開けられた小さなたくさんの穴」に向かって大声を出すか、直通電話(受話器の付いたインターホン)で話すしかない。しかし身体がきついので大声を出すのは無理である。そのうえ受話器が重いので、直通電話で長時間話すこともできない。
webサイトからコピペ
…… ああああいに行けるかな…!
[遠い病室の少女の耳に、彼女の歌は届かない。
いや、誰にもその歌声は届いてはいなかった。]
…何か、変。
[いつもと違う。
その不安は、胸の中でもやもやと渦を巻く。
今はまだ不可解さの方が勝っていて、そう大きいものではなかったけど。
丁度手近に居た入院患者の男性に目を向けて。
確認をしようとして、挨拶の言葉を述べる。]
こんにちは。
お散歩ですか?
[会釈をして。
普段ならそのまま歩いていく事の方が多いが、男性の事をじっと見つめる。
しかし、男性の様子は声をかける前と、全く変わらない。
返事を返すどころか、こちらを見てすらも居なかった。]
[追われている。あれらが、追ってくる。追ってくる。追ってくるそれらから、自分はひたすらに逃げる。逃げても、逃げても、距離は変わらず、それらは消えず]
……っ、……
…… あ、
[飛び起きた男の顔には、薄らと汗が滲んでいた。サイドテーブルのサングラスを取ってかけ、深呼吸をして、ようやく落ち着きを得る。
肩に届くか届かないか程度の白髪混じりの髪を指で梳き]
[その後、何人かに同じ事を試したが、誰からも返事が返ってくる事は無かった。
中庭から受付へ。
受付からラウンジへ。
病棟、病室、ナースセンター。
どこへ行こうと。
結果は同じ。]
[気が付くと、普段は来ないような奥深くまで入り込んでしまっていた。
彼女は知らなかったけれど、そこは病院の中でももっとも暗くて冷たい場所。
霊安室の、すぐ傍。
そこで彼女は見ることとなる。
目にハンカチを当てている母親の姿と、布をかぶせられ、車へ運ばれようとする――自分の遺体。]
あ…
[ぞくり。
背中に寒さが伝った。
立っていられない。
目の前がくらくらする。
いくら布がかぶせられていても、直接見ることが出来なくても。
アレが自分である事は、何故か疑いようも無いほどに分かってしまった。
そうだ。
なんで忘れていたんだろう?
昨日、帰り道、急に強い光が向けられて、その後意識が暗転して、そして――]
私…
死んじゃった…のか…
[口にしてみても、実感は無い。
唇が乾く感覚だって、まるで生きてる時のようなのに。
けれど、彼女の本能が、彼女の記憶が、何より娘に気付かず敷地から離れようとしている母親の姿が、彼女の死を肯定していた。
声をかける。
そんな行動すら出来ず、ただ、母親が遺体と共にどこかへ行くのを呆然と見守るしか出来なかった。]
[身体が凍りついたように動かない。
残像が、フラッシュバックのように視界で跳ねた。
これまで目の当たりにしてきたいくつもの死が、その冷たさが背後から迫ってくるようで]
……オトハさんは、……
オトハさんは、亡くなったよ、昨日。
[無垢な瞳の前で、上手に嘘をつくなんて出来なかった。真実を告げる事で彼女を傷付けることになると、解ってはいたけれど。
責められているような錯覚を覚えてしまい、斜め下方へと緩く視線を落とした姿で、簡潔に告げる]
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