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渡辺ナオさん、か。
[相手の名前を短く反芻する
そしてやがて電車は減速する。アナウンスが彼女がいつも降りている駅の名前を告げた]
―――ああ。…気をつけて、な。
[ドアへ向かうナオの背中に、そう言葉をかけて]
――――…
荷物が増えた。
[文庫本を鞄に仕舞い、傍らに置いていた八朔を手繰り寄せつつ呟いた
その言葉は幾つかの意味と、比喩をはらんで口から漏れた]
まぁ、悪くない。
[そして、彼女が降りた電車はまた動き出す。
もうすぐ降車駅のアナウンスが聴こえる頃合いだった]
[ぎゅっと、それこそ、すがるように握っていた手を緩めました。
ルリの小さな手から、男の人の手の中へ、飴が降ります。握りしめすぎてたせいでぐしゃりと包装紙は潰れてしまっていましたが、魚柄が上を向いて下を向いて、くるりと回りました。子供の柔らかな手から、大人の掌へ。まるでスカイダイビングです。]
[ん!
と、ルリは男の人のお礼に、大きく頷きました。本当は、どういたしましてと答えるのがお行儀的に花丸だったのでしょう。でも今日はいいのです。男の人の真似っこでもいいのです。]
[ルリは務めを果たした大人の顔で、鹿爪らしく、もう一度、大きく頷きました。飴を渡すことが至上命題だとでもいう様子です。
対する男の人は、小さく、笑っているようでした。笑った顔は少しだけ意地悪そうで、でも、さっきまでの不機嫌そうな雰囲気よりこっちの方がずっといいと、ルリは思うのでした。]
[おっと、危ない危ない。ルリはもう一度足でしっかり床を踏みました。
それから、怖い人を見、両手をきちんと前に揃える、お姉さんお辞儀をして。]
―― !
[さよなら、と言おうとしたのですが、やっぱりすぐには言えなくって、怖い人をちらりと見て逃げるような勢いになってしまいました。
でも、御挨拶はもうしたし、いいですよね。]
[ルリは扉の前に立ちました。
気の抜けた音を立てて扉は開きます。
冷房の利いた車内に、むあっと熱気が入り込みました。
まるでルリを押し戻すみたいです。
ルリは外の空気に負けないように、間抜けな音に油断しないように、
ルリは、特大の一歩を車内から、
**]
[就労したことのない、子供の柔らかい手。
男の手に比して小さい飴はそこから、
揺らめくようにしててのひらへと落ちてくる。
夏祭りで捕まえた金魚よりもつめたい気がした。
その錯覚は手に触れて、現実の温度を知るまでの短い間。
一瞬の交流の間そのもの。
頷く少女はいたく納得した顔で、
よかったじゃん、と声でもかけてやれば
いっそう破顔したかもしれない。
しかし、小さく小さく、笑うだけにとどめて。
少しだけ顎を引いて頷き返した。]
[少女が再びよろめく。
支えてやろうかとも思うが、その必要はなかった。
そうしてややお姉さんぶったお辞儀をして、
するり、魚よりも滑らかに行ってしまう。
手を挙げて挨拶するのもおかしいようで
男も視線を投げたきり、納得した。
扉の前に立った少女はもう降りるのだろう。]
[熱い空気が流れ込んでくる。
乗り込んできたときほど、顔をしかめたりはしない。
見送った少女は大きな大きな一歩を、
今にも転んでしまうのではないかと心配するような一歩を、
踏み出して、
春風のようにいなくなった。]
[しばらくドアの外を見ていたが、
扉が閉まる音がすると携帯の電波を確認した。
全くの圏外だったのが、
電波がひとつ入るマークに変わっている。
日常に帰るのだ、そんな実感がしてきた。]
[いい父親だかいい夫だか、
そんなことは思っても仕方のないことで。
どこからか柑橘類の匂いがしてきた。
これも一瞬で消えてしまうのだろう。
けれども、憂いを払うのはそんな刹那のなにかではないか。
思いながら携帯を閉じる。
目を閉じて、揺れに身を任せる。
降車駅まで、あと少し。
日常まで、あと少し。
それまでにちっぽけな英気を養おう、
そう考えて男は口元に生来の笑みを浮かべて息をついた。**]
[誰も同席してないのをいいことに、
足を投げ出して座るさまは
年相応男子学生相応の、不遜さ傲慢さがちらほら。
じゃらりと連なるクマを鳴らして、
眼鏡を通して携帯の画面を確認した。]
[ブルーライトの明るい画面、
レンズがそれを反射する。
窓の向こうは夏の空、
積み上がった雲の向こうに青が広がる。
暑いのだろう。
きっとアイスが美味い。]
[列車で、緊張した声を聞くのはなんだか久しぶりだった。震える声。あの女子高生は、見覚えがある。
向井は無意識に熊をぐにぐにと触りながら、乱れてもいない前髪を引っ張って座りなおした。
列車が止まる。窓の外をちらりと見て、また視線を下に。
まだ、降りる駅じゃない。
でも]
[電車は川を越える。
実家と、小さな工場――車の修理工場だ――、
それから練習場に立てかけられた畳が見えた。
今日は練習しないのです。
電車はそのまま、全てを後ろに飛ばしていく。]
[既に見えなくなった家に向けて
べ、と小さく舌を出した。
もう少し、電車に乗る。
一駅二駅、どれくらいか、
冷房のない外にでるのを億劫に思う頃、
ドアの前に人がたった。]
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