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[此方もまた、全員ではないにしろ入院患者の顔と名前程度であれば、担当でなくとも把握していた。
特に目前の患者は著名人だ。尤も、芸術に疎い己は彼がどんな絵を描いているのかまでは、知らないけれど。
ありきたりな言葉へ返って来た彼の言葉に、軽く首を捻る。
さも今天気に気づいた、というような。興味が無い、とも取れるかもしれない。
これが芸術家なんだなと、妙に感心してしまう。]
……、……深いなあ。
――あ、良かったら中庭に散歩にでも、出てみますか?
僕で良ければ、車椅子でお連れしますよ。
[自分は丁度、休憩時間だ。気分転換にでもなれば、と。
常と変わらず、お節介かもしれない一言を告げてみる。]
おや。 おやおや。
おやまあ。
[軽やかな足取りで現れた女子学生を、そう広くはない視界に入れると、皺の刻まれた顔に一層の皺を寄せて笑んだ。]
奈緒ちゃん。奈緒ちゃんじゃないか。
おかえりよう。
あたしったら てっきり
奈緒ちゃんにゃあもう会えないと思ってたよォ。
[問いかけに直接答えるまでもなく、その顔に浮かんだ笑みは頬にさっと色を走らせて、老人特有の白さはあれど元気であると示していた。]
へへ、おばあちゃんにまた会いたくて
…来ちゃった
[笑顔も、顔色も、悪くない。
元気だと分かれば、それを見る少女の気分も上向いて]
もう会えないはないよぉ
これからは毎日、会えるよ!
[それは見舞いではなく、入院だという言葉。
一見元気そうに見えるのに、少女の身体はそのセーラー服の下にいくつもの傷跡を隠していた。
ほら、今だって。
まくりあがったスカートの裾から、腿に走る縫い跡がうっすらと顔を覗かせている]
……なら。
落とし穴かも、しれませんね。
[独り言のように、直ちに霧散するような淡い言葉を、短く一つだけ落とし]
……
そうですね。もし、宜しければ。
散歩に出てきたつもりでは、ありましたから。
[結城が提案するのを聞くと、少し考えるような間を置いてから、頷いた]
[音羽――オトハの声は、庭だけでなく、建物の中からもよく聞こえてくる。
それはこの病院に来る人を出迎えているようであり、出て行く人を――魂を、祝福するようでもあった]
………
[職員以外に顔見知りと認識されるのは、あまり嬉しいことではなかった。
そして何より、「また」という挨拶が、男は何よりも嫌いだった*]
――え、?
[虚をつくかの言葉に思わず聞き返してしまった。
まさか、かの芸術家がジョークに長けていたとは知らなかった、らしい。
妙な間を挟んでしまったものの、快諾を受けると嬉しそうに微笑んだ。]
良し、じゃあ…、少し待っててくださいね。
[そう残し、手近なナースセンターで車椅子を借りてくる。
――気分転換したかったのは、彼ではない、自分だ。死に満ちた空間から、今は少しでも、逃れていたかった。
カラカラと車椅子を押しながら柏木の横へと付ける。拒絶されなければその手から杖を受け取り、そっと腰を支えて介助を行うだろう。]
あァらあ
こんな干からびた婆さんに会ったってねぇ
[会いたくて、の言葉に、弓なりに細めていた眼はくちゃりと皺の中へ、笑みの中へ沈んでいく。
見舞いに来たのだと思うばかりに生まれた笑みは、次いだ言葉に薄まり]
……あらまぁ。
[今度は皺を寄せ集めた布のような笑みではなく、にこりと曲線を描き出す表情をして]
そうだったの、奈緒ちゃん。
それじゃ毎日奈緒ちゃんの可愛い笑顔が見れちまうってわけだねェ。
婆ちゃん喜びすぎて 長生きしちゃうよ。
――ああ、でも。
そんなサービスぁ、婆ちゃんじゃなくて
かっこいいお兄ちゃんにしてあげなきゃあね
[んふふ、と鼻にかかった笑い声をさせながら、指先に携えた針をふるって捲れたスカートを指す。覗いた縫い痕は年頃の少女が背負うには、その痛ましさが重いよう。]
[食器を下げに来た看護師に頼んで、カーテンは開けたままにしてもらった。冷たい風は窓を鳴らし、遠くに見える海は時折白波を立てる。]
…お母さん、今日はこれないんだって。
[羊の縫いぐるみを抱きしめて、千夏乃は独りごちた。]
[マフラーに覆われた口元は、サングラスに覆われた瞳と共に、その表情を遮り隠す。笑い声が零れる事もなく、男はただ惑った結城に顔を向けていて]
宜しくお願いします。
[それから、ナースセンターに行くその姿を見送った。彼が戻ってくるまでの間、男は黙って窓の外を眺めていた。結城が戻れば手に持った松葉杖を渡し、小柄な身を任せて、車椅子に腰を下ろし]
仕方ないよね。ヒャッカテンは、ハンボウキだもの。
[千夏乃の母親は、都心にある百貨店で働いていて、特にこの時期は大忙し。覚えている限り、クリスマスにも正月にも、母と共に過ごしたことはない。
ハンボウキ、というのはどんな字を書くんだっけ、と、しばし首を傾げる。残念ながら思い出せなかったが、ボウ、というのは忙しい、という字だったような、気がする。]
そのかわり、明後日にはお父さんが、ハルちゃんと一緒に来てくれる、って。
[千夏乃の家族は両親と、ハルカという名の、九つ年下の小さな弟。
父親も平日休日の区別のない美容関係の仕事をしているから、なかなか全員揃って過ごすことはできなかった。慣れているとはいえ、やはり少し寂しいと、千夏乃は思うのであった。
それでも、千夏乃が入院してからは両親が時々平日に休みを揃えて、家族で過ごす時間を作ってくれるようになった。それが、何よりの楽しみだった。]
そうだよ、一緒に長生きしよ!
[ほおづえをついて、にこり、と首を傾げて見せた。けれど、ぼたんにスカートを示されれば、顔をあげ慌てて裾をなでつけた]
や…やだな、おばあちゃん
サービスはおばあちゃんだからだよ…
[へへ、と眉を下げて笑い声をあげる。
立ち上がり、上着の裾も撫で付けながら]
新しい子、作ってるの?
つまんないな、今日は。
[ふわふわの毛の中に、顔をうずめる。
個室の並ぶ東病棟は、しんと静まり返っていて、時々、廊下を歩く見舞い客や看護師たちの足音が響くだけ。]
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