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1F 廊下
[彼女は上着もはおらず、手にもの持たず、歩いた。
建物内をうろりと歩き回り、何かを必死に探すような眼差しで周囲を見渡す。
そこにちらりとでも、無菌室にいるべき姿を見つけたら、
もしくは中庭に向かう姿を見つけたら、動きは止まったことだろう。
けれど今の彼女に何か建設的なことが言えたのかは別の話だ。]
建物外
[ようやく、目当ての場所が見つかった彼女はそこから建物外へ出た。
老婆の日課であった散歩を知っているものならば、
病院の敷地内を歩む彼女を止めることはなかった。
老婆は、時折、意図の不明な駄々をこねたが
おおむね大人しかった。
老婆の我儘が増えたのはここ数日のことだった。]
寒い……。
……、……おうち、帰らないとォ
無菌室
[病室の外側に付けられた小窓から、無菌室の中をそっと覗く。
鎌田の姿はそこには無く、扉を開いて中へと一歩、踏み出した。
室内へ視線を巡らせると、先日置いてあった筈のバレーボールが、無い。
考え過ぎだろうか……、過ぎる嫌な予感が、あった。
丁度5階だったからかもしれない。
咄嗟に思い至ったのは屋上だった。
外に出たとすれば、一望し捜索も叶う場所でもある。
看護師に声を掛けるでもなく、屋上へと足早に向かった**]
[何処を通ってきたか分からないけど、中庭についた。
看護師が追ってきてるかもしれないけどそんな事はどうでもいい。
持ってきたバレーボールを見て苦笑する。
『がんばれ!』だとか、『負けるな!』だとか。
ごめんね。私は、未来に絶望してしまいました。]
ゆうぐれ・314号室
「くしゅん。」
[くしゃみと同時に、目が覚めた。
外はゆうぐれ。沈んでいく太陽が、空にわずかばかりのオレンジ色を残している。
ベッドから降りて、厚いカーテンに触れたとき。
ふと、言いようのないさびしさを覚えた。
まるで、世界に自分だけが取り残されているような。
おかしな話だ。
父や弟と会って話したのは、つい昨日のことだというのに。
家族だけではない。看護師や、医師や、ほかの入院患者たちとだって、たくさん話をしたではないか。]
[遠くで何か、いきものの鳴く声がした。
鳥か、けものか、なんだかよくわからないけれど、悲しげな声。]
――っ、
[千夏乃はとっさに、カーテンを強く引いて夕闇に飲まれていく景色を視界から閉ざした。
「さみしい。」
「こわい。」
そんな言葉が、頭をよぎる。
その場から駆け出してしまいたくなるような気持ちをこらえ、カーテンに背を向けてぎゅっと拳を握り締めた。
そうして、千夏乃はしばらくの間青い顔で*うつむいていた*。]
[柔らかく皺の寄っていた彼女の顔は、いまや風の寒さにゆがみ、暗がりでがさつく森の茂みに怯え、紙をまるめたかのように皺くちゃになっていた。
よろめく彼女の足取りを支えていたのはなんだったのか、知ることは難しい。けれど、彼女はただ必死に、その足を動かしていたことは事実だった。転び、衣服に泥をつけ、それでも立ち上がった彼女の歩みは、森が開けたころに、止まった]
海
[田中ぼたんは、海辺にいた。
明かりは遠く。病院の上階の、カーテン越しの明かりや談話室から漏れた光が、おぼろげながらに見えた。彼女はそれを遠く仰ぐようにしながら、波打ち際近くまで進み、しゃがみ込んだ。
皺だらけの手を二つ、ぎゅっと握りしめる。寒さのせいか、その手はかすかに震え、関節は真白に染まっていた。]
……おっとさん……ルリちゃァん……
あたし、来たよォ……!
一緒に帰れるよう。出といで ……
おっとさァん……
[声は小さく、潮風にかき消される。
彼女は立ち上がり、波打ち際をゆっくり歩いた。
その横には誰もいない。
彼女の後ろに続くのは一人分の足跡のみ、それもすぐ波が消した。
黒く色づく海に反射するのは、微かな、遠くの病院の明かりだった。]
あぁ、そっかァ――夢かァ
ありゃァ……そうだよねェ、お布団の上で見た夢だねェ
なんだか、……いるような気がしたんだけどォ
……――夢ならしょうがないねェ
[暗い波は老婆の足元をはるか通り過ぎ、老人の衣服を濡らした。
老人は重たげな足取りのまま進んでいく。
彼女の足跡はもう、砂地につかなかった。
岩場を見つけると、服をもう濡らさないようにとそこに上りこんだ。]
もォお、あの子らァ、一緒に海で泳ごうなんて約束
守るのァ無理だろうしよォ……
あたしの家族ァ、もう、
お人形さんだけかねェ――
お見舞いに来なくとも、いっつも一緒にいてくれるのァ
あの子らだけなのかいねェ
……家族じゃなくとも、傍にいたいと思ったのは
駄目だったのかねェ……
家族じゃなけりゃ、駄目だったの、かねェ
あたしにゃ元気づけることも無理だったし、
むしろォ、元気をもらってばかりだったけどよう。
そんでもぉ……居たいって思っちゃいけなかったんかねィ
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