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午後の話
[屋上に行くと決めた彼女は、そのまま、行動に移した。喫煙スポットにも成りえるそこで望むのは喫煙ではなく、そこから中庭を見下ろすことだった。
手にした緑茶をすすり、売店で買い求めた菓子袋の中から煎餅を取り出し、噛んだ。]
死んじまったんだってねェ……あの歌い手さんよう。
ニュースでね、やってたんだァ
――ここに来たら、聞こえっかなあ
って思ったけど、駄目だァね。
やっぱり、駄目だァね。
[煎餅に噛み跡は付かなかった。老婆はひどく落ち着いた素振りでもう一度、緑茶に口をつけた。]
[ふと、彼女は顔を上げた。
もう失われたはずの歌が、聞こえたような感覚がして辺りを見渡す。だんだんと染められていく空は深みを増して、そろそろ真っ赤に太陽が風景を焼き尽くす時間が訪れようとしていた。音の出どころは見つからず、気のせいか、と思う前に。鈍い音が、歌の名残を打ち消して鼓膜を揺らした。]
……――、なァんの、音かねェ……
いやァな音だあ……嫌ァな…… 音だァねェ
[人形をその胸にしかと抱いた。老婆の顔は、常ならば笑み皺が縁取っている老婆の顔は、その皺こそが不安を表しているかのように、老婆の感じている不吉さを前面に押し出した。その不吉さを彼女が尊重し、身を乗り出していなければ、それはまた彼女に別の道を示したことだろう。けれど彼女はそうしなかった。音の出どころを探し、左右を探り、そして、屋上から見下ろした。]
[老婆の見た光景は、極々一部であった。何かを防ぐ目的で屋上に備えられていたものが、彼女に全貌を見せるを妨げた。それでも、先ほどの潰れる音と合わせて何が起きたか知るには十分だった。十分すぎた。]
[ 田中老人はよろめき、後ずさった。
自身の手で、人形で、顔を隠すように。真っ赤に焼き尽くすものを見、目がつぶれてしまうを防ぐ様に顔を覆った。]
おお……おォ……
違うよう、あたし、あたしァ見てないよう
何も見ない 見なかったんだァよ
大丈夫さ 何も何も………なんにもなかった……見てないよぉ
帰らなきゃ――帰らなきゃァ……どこに?
おうちに帰んないと。おっとさんに叱られる……帰らなきゃ……。
[震える体で地を這うように菓子袋をひっつかむと田中老人は足を叱咤して駆け出した。
そこで見たことを、目を潰すような鮮やかな色のことを、彼女は同室の誰にも、看護士にも言わず寝台の中で丸くなった。]
午前 ラウンジ
[彼女は食堂へ行かなかった。
菓子袋に入れたものから適当につまみ、そうして彼女は朝食は済ませたと言い張った。菓子袋に手を入れた時、四角い小包装のチョコレートに触れて、老婆は人形と一緒にその胸に抱き、それからもう一度、大事そうに袋の中に戻した。
そうして朝の食事の時間をやり過ごすと、食事についてこれ以上看護士に怒られないようにと病室を抜け、いつもの彼女の定位置へと向かったのだった**]
ラウンジ
[胸に人形抱えた田中老人は、ラウンジの窓から木々と、その隙間の海を眺めいていた。彼女の定位置ではなく、窓際に佇んで。
近づく音に面を上げそちらを見やった。皺に覆いつくされんばかりの顔面には笑みは――意図的な柔らかさは、添えられておらず、ただ目鼻がくっついたといったような顔つきをしていた。]
――あらァ……奈緒ちゃん……
……よく眠れたのかい
今日ァ、この前逢った時より、顔色が……
[椅子を示しつつ、その顔色の血色の悪さに触れる。言い切ることは、けれど、出来なかった。]
[椅子に座った少女に向かって、一歩二歩と老婆は近寄る。
隣の椅子に座っても、老婆の視界にはなにも、少女の表情は見えなかった。少しだけ、身を乗り出す。胸に添えた人形は今はもう膝上に横たわり、じっと、見上げていた。セルロイドの表面に描かれた平面的な瞳で。]
おンや……明日なのかい。
[小さな黒目が揺れた。萎びた指を、少女の頭に触れるよう伸ばし、けれど触れる前に落ちる。]
検査、――……
うゥん、こんな婆ちゃんの顔見に来てくれるなんてェ
嬉しい限りだよう。
婆ちゃんの分の元気ォ、奈緒ちゃんにあげっから。
あらあらあらあら
今元気返しちゃうなんて
明日の検査終わってからで、いいンだよう。
[柔らかな樹の色が視界に広がった。抱きとめる老人は、言葉とは裏腹に声音を柔らかにして――けれど口端はまっすぐのまま。柔らの感触を惜しむようにしながらも老人は身をはなし、奈緒の顔を見、そして止まった。]
[血の気の薄い彼女の顔は、脳裏にこびりついたあの、眼下に広がる、鮮やかな色を内包しているはずであった。生きるものなら必ず、どれほど肌が白くとも、その下には血潮があると認識していた。
けれど、田中老人には、そうは思えなかった。単なる――単なる、予感だ。それに過ぎない。
老婆は指を震わせながら、奈緒の腕に伸ばした。叶うなら衣服を掴もうとし、出来るなら奈緒の存在がそこにあることを確かめようとし。]
――……奈緒ちゃん――
明日ァ、ただの検査、なんだよねェ
本当、それだけ……だよねェ…………
検査ならすぐ終わるかんね、危ないこともないさね。ね。
[口端が下がっていく。老婆の声音は、急いで流れ落ちていくかのように連続して]
ごめん、ねえ。ごめんねえ。
婆ちゃん、…………あたしァ不安にさせちゃいけねェってのに
でも、ごめんよう。なんだか……なんだか……
―― ………。
……ごめんよォ**
[背中に向けた言葉は、彼女の口の中で消えるほどに小さかった。いつぞやの、約束だと繰り返した光景が脳裏によみがえる。あのときにはなかった点滴装置と共に去る背中を、彼女は見送った。]
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