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[海の歌が聴こえる。
賑やかなあらゆるものは私を避けて過ぎ行き
残されたものは静かで平らな毎日。
此処にあるのは
遠くの波音と車椅子が軋む音だけ。]
896号室 ひとりきりの部屋
[真っ白な部屋の窓際。
膝に乗せた青い表紙の日記帳を撫でて。
その、海とも空とも似ていない
つまらない青色を指の先で愛しんで。
私は、そっと世界に幕を下ろす。
そして閉じた瞼の内側に砂浜を描き。
空想の中へと、駈け出した。]
[思い描いた空想の正体はきっと、
本当なら私が歩むはずだった未来の画。
瞼を持ち上げて、世界をみつめて。
冬の砂浜で犬と一緒に走る午後を、
日記帳に書き留める。
嘘と夢が綴られた日記帳はこれで三冊目。]
…明日の散歩は何処へ行こうか。
キミは何処へ行きたい?
[冷たい硝子窓に映る私に問いかける。
アン・シャーリーに倣ったひとり遊び。
私の<友達>には、名前がまだ無いけれど。]
896号室 ある日の午後
[長らく役目を果たしていない両足を、
真っ白で清潔なシーツに、置く。
グラウンドを駆けた筋肉は死んで
鳥の足みたいになってしまった、私の足。
どうせなら腕も羽根になれば良いのに、
感覚の無い腿を擦る私の手の平からは
しっかり五本の指が生えている。]
…ねえ、アレをしてよ。
[病室を整えてくれる看護師の指を握り。
足の先の10枚の爪に
色を乗せて欲しいとお願いする。
今日は、赤が良い。林檎の赤。]
…でも、たぶんもう私は駄目だよ。
歩いて行きたい場所が無いもん。
[熟れた林檎色のペディキュアが乾くまで、
リハビリをしようと促す看護師と
遠くの潮騒を聴きながら話をする。
消極的な意見はお気に召さないようで
彼女の表情が曇ってしまう。]
…少しだけね。
その後で、屋上へ連れて行ってよ。
[しばらく、そうした話が続き。
根負けして、私は車椅子に乗った。
せっかくの赤い爪先を隠すのは
勿体無いから。
素足のままで。*]
ロビー
[リハビリは嫌い。
私の足が役に立たない事を
嫌という程に思い知らされるから。
屋上へ連れて行ってと頼んだのに、
看護師は急な呼び出しに応じて
私をぽつんと残して行ってしまった。
何度も謝っていたから
許してあげる。
ひとりで行く病室への復路。
明るいロビーに響く子供の声。
小さな足音。
動かない足を見下ろして。
移動が億劫になってしまって、
そこで、車椅子を停めた。]
[外来患者で少し賑やかなロビー。
その中にあって静かな陽だまりに
ちょんと座るお婆さんの姿を見つけた。
祖母の優しくて乾いた手を思い出す。
私が入院している間に
死んでしまったお祖母ちゃんの手を。
からから…と車輪を回して近付いて。]
…お手玉を作れる?
[不躾に、声を、かけた。]
…あずきが入っていて。
ちりめんの布がさらさらしていて
懐かしい匂いがするの。
[戻ってくる声があってもなくても、
私は車椅子に座ったままで話をする。
海の音は
あずきを揺する音と
少し似ているなって考えてみたり。
お手玉があったら
少なくとも両手は退屈しないと
少し期待をしてみたり。]
[短い時間だったけれど、
日差しの中で懐かしい時間を持てた。
嘘でも夢でも無い本当の思い出。
私の中にあった思い出。
腿を擦って、からりと車輪を回した。]
…また会える?
[お婆さんに訊ねて、
叶うなら「またね」の約束を交わし。
私は、ロビーから離れる。]
廊下
[長い廊下を車椅子で進むのは一苦労。
腕の力も随分と落ち込んでいるみたい。
休憩に停まった窓際で、
先程の、お婆さんとの話を思い出す。
柔らかな声が耳に残っている。]
回想・ロビーで
…そう、私が遊びたいの。
おかしい?
[十分に大人の顔つきをした私は、
少しだけ気恥ずかしくて
そろりと両肩を上げて首を傾けた。
ゲーム機を欲しいと思った事はない。
小さい頃から
外を走り回っている方が好きだった。
体を自由に大きく動かすのが好きだった。
お手玉やけん玉やコマ回しも。
とても好きだった遊び。
だから、作ってくれると言って貰えて。
とても久しぶりに笑顔になれた。
茜色も紫色も素敵だと喜んだ。]
…クルミ。
此処に住んでるの。
[去り際に、
手を振り返して名前を教えた。
病室から出ることはあまり無いけれど、
また、来ても良いなって思えて。
私はそのひとときを笑って過ごした。*]
[誰かが通りかかるのが早いか、
男性が私に気付くのが早いか。
私は、暫くそこで
きょろきょろとしていた。**]
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