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[不意に届いた女子学生の声>>28が、思考を現実へと帰化させた。
彼女へと振り返った己の表情は酷く、間の抜けたものであっただろう。大きく目を瞠り、やがて現状を把握しにこりと微笑んだ。]
こんにちは、黒枝さん。
……ああ、ちょっと考え事してたんだ、うん。
[不思議そうに此方を覗き込む様子に、なんでもないよと首を振る。
何時もの自分を取り戻そうとするのは、下らない自尊心からかもしれなかった。
バツ悪そうに視線を落とし、彼女の荷物を見遣る。]
今日からだったんだね。後で、様子を見に行くよ。
[『ばいばい』。若者らしい挨拶を残す彼女へ、軽く手を振って見送った。]
[女子学生が去ってしまえば、廊下には再び静寂が宿り始める。
否、微かな足音が近づいてきたか。
姿を捉える事は叶わないものの、静かに窓を閉める。
海風が体調に触る患者も、少なくはないから。]
[近づく足音が、通常のそれとは異なる事に気づいたのは窓を閉めてからだったろう。
足を引き擦り、松葉杖をつき、顔を隠すかのように目深く被った帽子姿の人物を正面に捉え、軽くお辞儀を返した。]
こんにちは、柏木さん。
今日はとても良い天気で、気持ちいいですね。
[こうして歩く事さえ不自由であろう彼へ送る挨拶は、余りにもありきたりなものでしかなかった。
しかも、…先程までは「気持ちいい」には程遠い心境であったのだけれど。]
[此方もまた、全員ではないにしろ入院患者の顔と名前程度であれば、担当でなくとも把握していた。
特に目前の患者は著名人だ。尤も、芸術に疎い己は彼がどんな絵を描いているのかまでは、知らないけれど。
ありきたりな言葉へ返って来た彼の言葉に、軽く首を捻る。
さも今天気に気づいた、というような。興味が無い、とも取れるかもしれない。
これが芸術家なんだなと、妙に感心してしまう。]
……、……深いなあ。
――あ、良かったら中庭に散歩にでも、出てみますか?
僕で良ければ、車椅子でお連れしますよ。
[自分は丁度、休憩時間だ。気分転換にでもなれば、と。
常と変わらず、お節介かもしれない一言を告げてみる。]
――え、?
[虚をつくかの言葉に思わず聞き返してしまった。
まさか、かの芸術家がジョークに長けていたとは知らなかった、らしい。
妙な間を挟んでしまったものの、快諾を受けると嬉しそうに微笑んだ。]
良し、じゃあ…、少し待っててくださいね。
[そう残し、手近なナースセンターで車椅子を借りてくる。
――気分転換したかったのは、彼ではない、自分だ。死に満ちた空間から、今は少しでも、逃れていたかった。
カラカラと車椅子を押しながら柏木の横へと付ける。拒絶されなければその手から杖を受け取り、そっと腰を支えて介助を行うだろう。]
中庭
[思わず聞き返してしまった言葉への反応は無かったけれど、気に留める事も無く車椅子を借りに出た。
松葉杖を受け取り車椅子に彼を乗せると、ゆっくりと椅子を押しながら廊下の中央を進んでいく。
時折、顔見知りの患者や看護師に声を掛けられ幾許かの言葉を交わした。ありきたりな、挨拶程度に。
通用口から中庭へ、スロープを伝いそっと降りていけば、澄んだ空気と木々のせせらぎ、やわらかな陽光が迎えてくれる。
直接日光に触れるのは、負担が掛かるかもしれない。
木陰まで車椅子を押し、軽く身を屈めて柏木のサングラスを窺った。]
……疲れてませんか?柏木さん。
普段、余り外には出られてませんよね?
[何気ない所作だった。
背後から彼の顔を覗き込むように窺い見たのは、表情を、というよりも顔色を窺おうとした動作だったかも知れない。
けれど、それを拒絶するようにより目深く鍔を下げる柏木に気づき、自己の失態に気づく。]
ああ、すみません。つい、癖で……、
[眼元や頭部を隠している患者も少なくは無い。それは、病状により見せたくないという理由があるからだと悟っている。
しかも柏木は著名人だ。配慮が欠けていた事を、今更ながらに詫びて]
体力は食事やリハビリでも作れますけど、心の洗濯、っていうのかな……、そういうのって、屋外じゃないと出来ないような気も、するんですよね。
医者の言うセリフじゃ無いですけど、はは。
[視線を交える事無く、そう告げて頭を掻いた。]
……、……違う、……?
――なに、と……?
[「気にするな」という言葉よりも、「違いますから」という言葉への違和感に、表情を曇らせた。
「違う」という事は、何かと比較されたのだろうけれど、その比較対象が、わからない。
真意を知りたくて思わず腰を屈めた瞬間、今度ははっきりとした意志で紡がれる言葉に、引き寄せられる。]
人の心の、色……、怖い、もの。
[変化球のような問いだった。確かめるように紡ぐ響きは次第に、医師としての自分の声音とは異なり、素の低さが混じってしまっていたかも知れずに]
人のこころは無色透明だって、昔読んだなにかの本に書いてあった気が、しますね。
相対するこころの色を汲み取って、赤になったり、青になったり変化する、という。
怖いもの、は……、うーん、……ありますね。
[後者へは言葉を濁してしまうものの、努めて平静を保った声音にはなったか。かすかに俯いたまま]
[視界の端、お下げ髪の小児科患者の姿を見止めれば、軽く手を振り挨拶するだけの余裕はまだ、存在している。]
ああ、確かに。
無色でぱっと色がつく、っていうよりも、元々どんな色も持っている、っていう解釈の方が、しっくりきます。
[「世界」「言語」、その喩えは心の奥にストンと降り、彼の言葉に酷く共感できた。と同時に、自分と柏木では、世界の見え方が異なるのかも知れない、とも感じていた。]
柏木さんは画家さんだから、……より美しく、感じ取れるのかもしれませんね。
[色彩感覚豊かな彼にもまた、怖いものが存在する。
追われているイメージを、何処と無く察した。
軽く伏した視線の奥に、柏木の足を映し出す。切断の予定がある事を院内で知らぬ医師は、居ないだろう。
足を失う事が怖いのだろうか、とも一瞬考えたけれど…物理的なもの、ではない、何かに柏木は追われているようだった。]
僕のも、……柏木さんと似たようなものですよ。
……内容を口にしたら、笑われそうですけれど。
どうしたら、……『それ』を、怖いと思わなくなれますかね…?
[彼と自分、全く異なるものに追われているのかもしれないけれど。
ぽつり、抑揚の無い音階で最後の言葉を*呟いた*]
それが、柏木さんの『才能』なんでしょうね。
……羨ましいなあ。
[才能があるから、極彩色に彩られた世界に見える。それはとても特別で、幸福なことに思えた。
尤も、今の柏木が幸福かと言えば……、否、であろう。故にそれは言葉には出さず、此方を見遣るかの様子へ微笑みを送り]
柏木さんの絵、今度見せてください。
僕、芸術センスは無いんですけど……、
[笑み混じりに告げた言葉は、「消える」という単語の前では覇気を失う。圧を込めて車椅子のハンドルを、握った。]
消えたくは、ない、……なあ。
結局、ずっと戦っていくしか、選択肢は無いんでしょうね。
[ひらり、地へと舞い落ちた緑の葉を視界の端へと捉える。
風が強くなってきたか。空のご機嫌を伺うよう、緩く空を仰いで]
[ぬいぐるみを片手に中庭へ訪れた少女の丁寧な挨拶へ、会釈を送る。
最近、何度か見かけた事のある入院患者だ。
ひとりで外へ出歩く事を許可されているとは思えなかったけれど、叱るのは自分の仕事では無い。代わりに、ここに居る間は目を離さずにおこうと判断し]
そうだよ、いい天気だからね。
歌い手さんが居たらもっと良かったけれど。
[天気の良い日には、中庭で歌手の女性が歌を歌っている。生憎、今日はすれちがいになってしまったけれど、残念そうに呟く。
少女が病室に戻ると言えば、「気をつけて」とお決まりの文句と笑顔でその小さな背を*見送った*]
[柏木の呟きは肯定とも否定ともつかぬ、確認のような響きだったけれど、「ええ」と深く頷いた。自分に無いものを持っている彼に対し「羨ましい」と、そう感じたのは嘘偽りの無い素直な感想で。
病室で描かれているというその絵画に対しても、仄かな興味があった。
「是非に」と、微かな喜色を滲ませる様子へ返答を送る。]
どうしようもない、……か。
[「時が解決してくれるかもしれない」期待を込めてそう告げようかと開いた唇を、引き結ぶ。柏木にとっても自分にとってもそれは、気休めでしかない言葉なのだと感じていた。
持ち上げた視線の先、傾きかけた陽光が空を橙色に染め始める。
今、何時なのだろうと腕時計を確認すると、時計は止まっていた。父の遺品だった。]
…と、すみません。時計止まってました。
そろそろ、戻りましょうか。
[長話に付き合わせてしまった事を詫び、制止されねばそのまま、来た道を辿り柏木を病室へ送り届ける。
引き返す途中、院内の窓辺に佇む女性の姿を見止める。歌い手の女性だ。
ファン、という程でも無いのだけれど、彼女の歌声が好きでCDを入手した事もある。
柏木へ「歌手さんいますよ」と上階を示し、その姿へ手を振った。
部屋にあるという絵画を見せて貰いたかったけれど、診察に戻らねばならない己は「また、顔出しますね」と残し、空の車椅子と共に慌しく*去った*]
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