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896号室から、屋上へ
[屋上へ出るには部屋着じゃ寒すぎるから
コートを羽織ってマフラーを巻いた。
海と空が混じる所まで
ちゃんと見渡せると良いのだけど。
どうかしら?と
窓硝子の私と首を傾げて顔を見合わせて。
私は静かに部屋を出た。
エレベーターを使って登った屋上では、
控えめな量の洗濯物たちが風に揺れていて。
冷たい風が、海の匂いを運んできた。
海の歌も少し明瞭に聴こえる。**]
[私と同じくらいの年頃に見える女性は、
風に遊ぶ煙草の煙の中に居て。
笑う顔が少し現実離れして見えた。
からりと車輪を回し車椅子を進めて、
彼女の方へと距離を詰める。]
…こんにちは。
その煙は、美味しいもの?
[喫煙の経験は無いけれど、
彼女が持っていると煙草の煙は
甘いものかのように見えたから。
訊ねてみる。]
…かみさま。神様?
…神様は、あなたを救ってくれる?
[私を救う神様は居なかった。
信仰は太陽にしか
向けたことは無いのだけれど。
煙草の煙を追って空へと向けた目を細め、
再び見つめるのは彼女の顔。]
…素敵だね。
私の前にも現れれば良いのに。
神様とか、天使とか。
[非現実的な存在感の彼女が言う神様が
何者なのかを私が知る由もなく。
ただ、何かを信じる心は羨ましい。
少しだけ微笑んで、
マフラーに顎先まで埋めてしまう。]
…いつもキミの中に居るから
神様と呼ぶのではないの?
離れていても傍に居るというやつ。
でも、寂しいね。
置いて行かれるのは。
[煙草の煙は何を満たすのだろう。
喫煙は緩やかな自殺だと誰の言葉だっけ。
彼女は何を見上げているのだろう。
儚げな彼女の傍へ。
もう少しだけ近付いて。
私は、巻いていたマフラーを外して、
煙草の火を避けて
彼女に巻きつけようとする。
少し、屈んでくれないかな?]
…あげる。
[珊瑚朱色のマフラーは、
彼女によく似合っていると思う。]
…私は神様にはなれないけど、
寒そうな首筋にマフラーは巻けるの。
どう、すごいでしょう。
[手紙だって書けるし、
お手玉だって上手に投げられるの。
少し前向きな気持ちになれたから、
首を傾ぐ彼女の顔を見上げて。
もう一度、微笑んで。
車椅子を動かして、屋内に引き返そうと。]
…手紙を書くの。宿題も待たなくちゃ。
だから、行くね。
また会おうね。キミ。
…ロッカ。
私、アネモネが好きよ。
キミの中の6つの花に、
アネモネはあるかな。
私はクルミ。
[名前を交換して、私は屋内へ。
寒さは気にならない。
海を見られたし、ロッカにも会えた。
楽しく温かい気持ちになれた。
病室へ戻ろうとエレベーターを待つ。
なかなか来ないエレベーターを。]
[階段を駆け下りられたら良いのに。
車椅子の車輪を撫でて、吐息を零す。
エレベーターはまだ来ない。
持て余した暇にまかせて、
階段に少し、近付いてみる。
からから。乾いた音で車輪が回る。
よく磨かれた踊り場を進む。
エレベーターはまだ来ない。
少し、振り向いて表示パネルを確かめた。
車輪が何かを踏んだ。
それは、誰かが落としたハンカチだった。]
[車輪が、滑って。
車椅子がぐらりと傾く。
踊り場が途切れた先の階段に向かい。
私の身体も、一緒に。
瞬く間も無く。]
…、
[声を上げる間もなく。
私は、階下へと投げ出された。*]
[車輪が空回る音を聞きながら
私は天井を見上げている。
壊れた車椅子の部品と
私の身体から流れ出す生温い血が、
清潔に保たれていた廊下を汚す。
派手な音を聞きつけた看護師が
慌てて誰かを呼んでいるようだけれど、
私の意識は春先の雪のようなもので。
溶けて、流れて、失われつつある。]
…部屋 とどいて、る かも
おてだま と、
わ たし、の、嬉しい もの…
[絶え絶えの声は、誰かの耳に届いたかな。]
…あの ね、
…ユウキ 先生 。 、 呼んで、て
…、
[看護師が傍に居るのかどうか、
確かめないまま、呟いて。
私は目を閉じる。
そしてそのまま、深い所へ、
沈んでいく。*]
最期の意識
[誰かが、私の名前を呼ぶ、声。
沈んだ闇の縁から。
とても遠くから。
暗闇は深く重く
混濁した意識の浮上を阻む。]
………、 、 。
[それでも応えるように、
瞼が微かに震え、
唇の隙間から、声にならない言葉が、
細く微かに零れた。]
[触覚は既に失われている。
体中が、役立たずな両足の仲間になって、
何の感覚も得ずに屍のように横たわる。
瞼を伏せているせいというより、
視覚そのものも、失せていて。
血の匂いを感じ取る嗅覚も死に。
それでも鼓膜が震えれば
言葉は脳の奥に染み入る。
桜並木、砂浜、紅葉、雪景色、未来。
見たいな…と、思った。]
[空想の世界が私を手招く。
四季折々の美しい光景の中を、
健全に機能する両足で歩く空想。
けれど、私はそこへ飛び込むのを拒む。
車椅子での不自由なままでも、
明日は来ると、未来があると、
語りかけてくれる声が在るから。]
…、 ぁ 、
り が、 と ぅ 。 、
[最期に、未来を見せてくれて。]
[手術室へと辿り着く前に。
私の身体からは
生命が抜け落ちてしまう。
手紙のお返事や、お手玉の約束、
写真もこの目で見たかった。
叶わなかった事は幾つかあるけれど。
そういった生への未練が在ることが、
この上なく嬉しかった。
未来は、あったのね。近くに。
私にも。
それを教えてくれた、
とても素敵で嬉しい言葉を贈ってくれた
先生への感謝の言葉が最期の言葉。
脱力して緩んだ口元は
ほんの微かに笑った時と同じ形に成り。]
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