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896号室の朝
[海に雪が落ちる様子が見たくて。
髪に櫛を通す間は、目を閉じて、
頭の内に冬の海岸を思い描いた。]
…手紙は来るかな?
お手玉は出来るかな?
[看護師に検温してもらいながら、
少し細めた目で足の先を見つめる。
昨日塗ったばかりのペディキュアは
今日もそのままに鮮やかな林檎色。
この部屋での生活が始まってから
化粧をする習慣は無くなっていたけど、
たまの気分転換に色を得るのは好き。]
[日記帳を開いて、私は綴る。
一昨日の海辺の散歩の次の頁には、
友達と買い物に出掛けた事を記す。
芥子色のコートの下には
灰桜色のニットワンピースを着て。
ブーツの踵を鳴らして雪の街を歩く。
クリスマスの贈り物を考えながら。
目に止まった雑貨店で
白磁色に銀線が走る便箋を見つけて。
揃いの封筒と一緒に…――
そこまで書いて、ペンを置く。
本当の未来を書いているはずの日記に、
偽物の毎日が混じるのは駄目。]
…便箋と封筒が必要なのは、
キミでしょう?
[窓に映る私に話しかける。
日記の中の私は携帯電話を介して
たくさんの人と繋がっていて寂しくない。
大学を卒業して
雑誌を編集する仕事をはじめて、
文芸誌への憧れを捨て切れないまま
編み物の雑誌を作っている。
手紙を書く時間も、待つ時間も、
持っているのはこの部屋の居る私。
お手玉で手慰みをしたいのも私。]
[日記帳の一番うしろの頁を切り離し、
そこに短い手紙を書いて
ベッドの上に。
「 郵便屋さんへ。
手紙は、私を探して届けてください。
そう遠くへは行けないから。
お願いね。 」
そして、時間をかけて車椅子に移り。
雪がちらつく窓際を離れ、部屋を出て。
ロビーの陽だまりへ行こうと。*]
ロビーの窓際
[雪は静かに降り続いている。
灰青の雲に覆われた空からの陽射しは
とても弱くて頼りなかった。
それでも私は窓際を選んだ。
誰かのお見舞いに訪れたのだろう
同年代の女性の頬に乗ったチークや、
若い看護師の健康的な足を眺めて。
ぼんやりと。
車椅子の車輪を撫でながら。
少し、俯く。]
[弱々しい陽射しを跳ね返す、白。
白衣を纏った若い医師の姿が見えた。
少し離れた位置から
医師へと向ける目は傍観の色。
私が過ごす世界とは違う世界に居る人を
硝子越しに見つめるような。]
…外の匂いがするなって。思って。
[不躾に投げつけていた視線はそのままに
すこしだけ首を横に振って見せる。
病院でよく見かける患者とは違い、
看護師や医者からは外の匂いがする。
この建物の外に、
自分が生きる世界を持っている匂い。
私はそれが少し苦手。
羨ましいから。]
…。
…。
…、
[言葉を失くしてしまった。
外へ行きたい。歩きたい。走りたい。
素敵な靴を履いて未来へ行きたい。
それが叶わないと解っているから
とても惨めな気持ちになってしまう。
医師を見つめる視線を落として。
彼の足を見る。]
…出たいと言ったら、
その足を私にくれる?
…そういう事では無いよ。先生。
少しの散歩の時間を与えて貰えても、
私はその先へは行けないの。
散歩は嬉しいけど。
[少し、世界に触れたら、
きっともっと先へ行きたくなって。
でもそれは
また誰かの手を煩わせる事になって。
そういう事の連続で繋がる散歩道で、
私は笑っていられる自信は無い。]
…いいの。此処は良い所だから。
…希望もなく、夢もなく、
ただ。耐えるという事。
先へ行けない…というのは。
[あっさりと、何でもないふうに、
的確に突き刺さる言葉を放つ人だと
医師の顔を見上げて目を瞬かせる。
不器用だと自分で言うのだから
きっとそのせいなのだろうと思う。
右の手を差し出して。]
…なら、握手しよう。
[彼に出来る、私のして欲しい事。
良い所…という言葉に曖昧に頷きながら、
頼んでみる。]
[手を握る。
生きている誰かの体温を感じるのは、
とても久しぶりで、少し落ち着く。
短い握手の時間はすぐに解いて。]
…宿題を持って帰って。
次は、先生が考えて。
私が嬉しくなるような事を。
できる?
[顔を見上げて、小首を傾げて。
もしかすると、手紙かお手玉が、
届いているかもしれないから
部屋に戻ると言う前に。]
…896号室。
クルミというのが私の名前。
楽しみにしてる。ユウキ先生。
[待つものがひとつ増えて、
本当はそれだけで随分と嬉しい。
綻ぶ口元で医師に笑いかけて。
私は、車椅子の車輪を軋ませて、
病室に戻る事にした。
お手玉と、手紙と、宿題を、
お昼ごはんを食べながら待つつもり。
「待ってるね」と言い残して。**]
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