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[あの後。老婆といくらか話をしただろうか。
それとも、特に話もせずに別れたろうか。
どちらにせよ、珈琲を飲み終えた私は、ルリという少女のカルテを確認してその日の勤務を終えた。
いつもの事ながら、食事はコンビニ弁当とお茶だ。
一人暮らしの雇われ医師、貧しいわけではない。
けれど、自炊する気力はないし、毎回外食も飽きてしまう。
結局、学生時代から慣れ親しんだコンビニ食に落ち着いてしまったのだった。
吐く息が白い。
指先が痛い。
冬はだんだんと、足音を大きくしていった。]
[次の日の朝、目覚ましより早く携帯電話の着信音が若者を叩き起こした。
寝ぼけ眼で電話に出ると、入院患者一人の容体が急変したという。
外科医である自分に仕事が回ってくるとも思えないが、それでも呼びだされるのが若手の辛い所だ。
それでも、外科医が一人もいないという状況は好ましくはなく。
服を着替えて、カーテンを開いた。]
良い天気、なのかな?
[晴れているとも、曇っているともいえる微妙な天気。
コートを羽織って、鞄を持って。
少し速足で、病院に向かった。]
[病院が見えてきた頃、妙に冷えてきたと思ったら、髪に何かが触れる感触があった。
なんだろう、鳥のふんでも落とされたか。
そう思って見上げると、小さな白い天使が無数に空から舞い降りて。
人の肩に降り立った後、姿を隠す。
そんな、少し早い風景を見る事が出来た。]
寒いと思ったら、雪か
[ふるり、体が震えた。
だが、今は幻想的な風景に浸る時間は無く。
速足で辿り着いた病院で、患者は既に亡くなった事をナースに告げられた。]
そうかい、残念だ
ああ、いや、朝早くとかは良いんだ
文字通り、人の人生がかかってる事だからね
僕の分も、ご遺族にお悔やみを宜しく
[結果、少し早くなってしまった出勤時間。
時間をもてあましてしまった。
どうしようかと院内を歩き出し、偶然通りかかった休憩室で昨日の男性を見かけた。
若者に手を合わせていた男性は、はしゃぐ子供達を見ながら微笑んでいる様子で。
良い事でもあったのかと、勝手に胸をなでおろした。
全員が自分の担当する患者ではない。
けれど、医師である以上は全ての患者に責任があるのだ。
真実や現実は知らずとも、表情一つで嬉しくなる事も出来る。
若者は、そういう時間が少し好きだった。]
そうだ、せっかく時間があるのだから
いろんな患者さんの顔でも見に行こうか
[本来は、患者に情が湧くような事はしない。
でないと、救えなかった時に苦しいから。
若者は、医師になってからずっとそうしてきたはずなのだけれど。
今日は、不思議とそんな感覚を覚えたのだった。]
[そうして若者は、廊下を歩く。
院内では背筋を伸ばして、堂々と。
普段は猫背で、こんな寒い日は丸まって過ごす若者であるけれど。
病院では、それではいけないと過去から学んだ。
自動販売機の前に辿り着き、今日も微糖を一つ買う。
昨日より、随分熱い気がした。]
っち
[熱くて、取り出した缶を取り落とし。
ころころと、缶は転がって。
通りがかったのだろうか、自販機に何か買いに来たのだろうか。
そんな患者さんの、足元へ転がっていった。]
[転がっていった缶を、拾い上げてくれたようで。
あはは、と繕う笑い声をあげて手を差し出す。]
ありがとう、それは私のだ
手から缶が逃げてしまってね
捕まえるのに苦労していた所なんだよ
[彼女がそれを渡すのなら、受け取るだろう。
彼女が立っていたのは、煙草の自販機の前。
煙草を買いに来たのだろうか。
せっかくだし、話を振ってみよう。]
煙草かい?
どうも捕まえるのは苦手なんだ、ありがとう
[受け取った珈琲。
少し冷めるまで、それを握っていよう。
彼女は、ハイライトとマルボロが欲しいという。
彼女に並んで、煙草の自販機の前に立った。]
マルボロは、紅い方? 白い方?
[いくつか種類のあるその銘柄。
指をさして、聞いてみる。
彼女の財布から、小銭の音がする。
お金が無いわけではないようだ。]
で、何か困りごとかい?
こいつのお礼に、お手伝いするよ
お金を?
[病室がわかれば、病気の種類がわかる。
けれど、若者は彼女の病室を知らない。
だから、彼女の病状は理解出来ていなかった。]
ああ、構わないよ
[彼女が財布を差し出すのなら、そこから小銭を取り出して。
掌に載せて、彼女に見せる。]
100円が4つと、10円が1つ
100円が4つと、10円が4つ
[そのままそれを自販機に投入し、二つの銘柄のボタンを押した。
缶よりも乾いた音がして、ぼとん、ぼとん、と二つの箱が排出される。]
君は、何号室の患者さん?
[彼女が屈んで、自販機から煙草を取り出す。
違う銘柄を二つ、という事は誰かに頼まれたのだろうか?
そんな事を思ったけれど。
病室を聞くと、首を傾げた。
確か、926号は脳外科。
認知症の病室ではなかったろうか。
認知症の患者に、お使い?]
そうかい
私は外科医のユウキと言うんだ
今度、お見舞いさせて貰うね
[病室を聞いた手前、聞いた理由を作らなくてはならなくて。
一度、本当に見舞いにいこうと思った。]
困る事も多いでしょう
ロッカさん
六つの花で、六花さん
[うん、と頷いてみせた。
最近頭がぼぅっとするから、しっかり覚えておかないといけない。
若者も、彼女と同じように呟いた。]
ひろくんに、ぜろくんですか
優しい人が周りに多くて、羨ましい
ほら、窓の外をご覧なさい
今日は貴女の名、六つの花が咲いています
冷たい世界を、優しい光で包みこむ
そんな花が、咲いていますよ
[掌で、窓の外をさして見せる。
今日は、雪が降っているから。]
六つの花とは、雪の結晶の事
なんとも、美しい花だね
[儚さも象徴する雪であるけれど。
それは、言わない事にしよう。]
少し、触れてみるかい?
冷たいけれど、何故か嬉しい気持ちになれる
何故だろうね、見ているだけ、触れているだけ
それでも、雪は心を染め変えてくれる
まるで、誰かの願いが乗ったかのように
[彼女が頷くのを確認して、少し外に出てみる事にした。
外と行っても、中庭のようなスペースで。
リハビリをする方達が、散歩コースにするような場所であるけれど。
病院の外に連れ出すわけにも、いかないし。]
じゃ、こっちだ
[彼女を促しつつ、中庭の方へ歩いて行く。
少し歩けば、そこに辿り着くだろう。
流石に、寒いかもしれない。
彼女が寒がるようであれば、白衣でも貸そう。
無いよりは、きっとマシだろうから。]
[雪を手に受けている彼女は、何やらそれに夢中のようで。
若者は、とても楽しそうだと思った。
白い息が、ゆっくりと拡散して行く。
白い粉が、ゆっくりと降り注ぐ。
触れれば溶けて、触れれば消える。
繰り返していく内に、積み重なって。
気がつけば、世界を白に変えて行く。
何もかも、ゆっくりと、真っ白に。
認知症も同じだと思ってしまえば、少し悲しくはなったけれど。
それは、考えないようにと首を振った。]
寒くないかい、大丈夫?
[温かい珈琲を握り、そう問う。]
そうかい、それは羨ましい
[寒いのは、嫌いじゃない。
そう言う彼女に、若者は笑った。
若者は、寒いのが苦手だ。
貧血で冷え性な若者は、寒いとどうしても指が痛くて嫌なのだ。]
楽しんでくれているようで、よかったよ
[何故彼女が、寒いのが好きなのか。
そんな事を聞くのは、野暮のような気もして。
楽しそうなのだから、それでいいかと。
自分で納得していた。]
私は寒いのが苦手でね
珈琲、買っておいて良かった
そうだね、ぎゅっとすればいいのかもね
でもそれは、自分を想う人がいて
初めて成り立つ温かさなんだよ
ロッカさんには、そうしてくれる人がいる
それは、とても羨ましい事だよ
[戻ろう、と促されれば頷いて。
満足したなら、それでいいと思うから。
認知症は、過去の記憶を蝕んでいくから。
今を幸せに生きる事が、一番良い事だと若者は想う。
失う物の価値に比べれば、まったく足りないものなのだろうけれど。
ほんの一欠片でも、何かを残す事が出来たなら。]
私は医者だから
患者の為になるのなら、何でもするよ
その為に、私はいるのだから
[そうして、小さく笑ってみせた。]
煙草?
[病院に戻る途中、問われた言葉に首を傾げる。
何か、意図のある質問なのだろうか?
といって、偽る意味も特にない。
若者は、素直に答える事にした。]
ああ
院内は基本禁煙だし、家にいる時に咥える程度だけれどね
患者さんには、煙草を嫌う人もいるから
本当は秘密なんだ、内緒にしておいてね
ん…―――
[差し出された、さっき買ったばかりの煙草。
二つ買った事に、何か意味があったのではなかったのだろうか。
貰ってしまって、良いのだろうか。
だが、断るのも無粋と言うものだろう。
若者は、素直に受け取る事にした。]
ありがとう、頂くよ
ロッカさんは物知りだ
覚えておく事にするよ
[自分の銘柄とは違うけれど。
それでも、彼女の願いを受け取る事にして。]
そうかい、ぜろくんが
[誰かは知らないが、笑顔で頷いて。
彼女の振る手に、こちらも手を振った。]
ああ、また
何かあったら、ナースに言っておくれ
私を探す時は、そっちの方が早いから
[そう言って、彼女を見送った。
さて、これから何をしようか。
彼女の姿が見えなくなってから、私はまた歩き出す。
珈琲を、何処かで飲みたい。]
[いくらか歩いた後、結局ロビーにやってきた。
理由があるとはいえ早く着てしまった分、次の予定まで大きく時間がある。
ああ、売店でサンドイッチでも買えばよかった。
朝食がまだだった。]
お洒落な気がする普通の朝食を取り損ねた
[小さくぼやくと、珈琲の缶を開けた。
微糖はまだ少し熱かったけれど、外に出て冷えた体を温めるには十分だ。]
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