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501号室
[内科病室内、しわくちゃの老女の手をそっと掴む男は
うん、うん、と老女へ相槌を返し
時折、目を細めて笑った。]
おお。嘘じゃねえよ。
今やってる仕事が上手くいけばよ
あいつら迎えに行くからよ
そんな心配すんじゃねえ 母ちゃん
じゃあな、また来っからよ
それまでに身体治せよ、母ちゃん
[皺の多い、苦労の後の残る指先を
老女の腹部へと添え、
男は病室を後にした。
蔵作の母は末期の癌である。
御年80をとうに越えた彼女は痴呆も入り
息子の声に少しばかり、頷いて反応を返すのみだった。]
あー…、煙草…
[病院の、淀んだ空気が嫌いだった。
それでも、なんとなく母の元へ足を運ぶ。
いつ逢えなくなるのかわからないから。
いつ喪うのかわからないから。
なくしたものは二度と取り戻せないと
この歳になって、漸く気づいてしまったから。]
屋上
[病院の屋上で、冷えた空気に身を晒す。
外仕事に慣れている所為か、さほど寒気を感じない。
取り出したセブンスターの本数を数える。
残りは5本。大事に吸おう。
ぼんやり思案し、先端に火を*点けた*]
あのころ
[女房と出会ったのは飲み屋だった。
とある離島から集団就職で上京した兄に呼ばれ
母と妹、弟と慣れ親しんだ島を離れたのは
中学を卒業する前だった。
もちろん、学校へ通う金などなく
兄の塗装の仕事を渋々手伝って成人を迎えた。
飲み屋で出会った女は、人妻だった。]
[結婚した瞬間に、父親になった。
三歳になる女の子は俺を「お兄ちゃん」と呼んだ。
「パパのところにかえりたい」と言うので
「パパはお仕事だから、
お兄ちゃんが「お父さん」になってあげるよ」と言ったら
にこにこと喜んで飛び跳ねていた。
実際、「パパ」は仕事と女遊びで
家庭を顧みなかった男らしい。
娘はすぐに懐いて「お父さん」と呼んでくれた。
女房は「ママ」のままだった。]
[それから二年後、血の繋がった娘ができた。
赤ん坊を抱いた瞬間の幸福感を
忘れることはないだろう。
兄と仲違いし、塗装屋を独立させたのもこの頃だ。
家族を養うことの喜びに溢れていた。
それと同じくらい家族に触れ
絵を描くのが好きだった。
だから一件塗り替えの仕事を終えると
その金が無くなるまで、仕事をしないサイクルだった。
生まれたばかりの赤ん坊と女房を、写真へ収める。
現像した写真を見ながら、油絵を描くためだ。
「お父さん、あたしも撮って」と
駆け寄る義娘が煩わしくなって
蹴り飛ばした。
血の繋がりが、愛おしい頃だった。]
[時は流れて、義娘の下に三人の娘ができていた。
家族が増えても、仕事のサイクルは
相変わらずだった。
金がなくなると、女房を夜の仕事へ出させた。
絵を描き、娘達と遊ぶ時間だけが楽しみだった。
此方の表情を窺う義娘がかわいそうで
時折、学校の宿題を見てやったりした。
けれど、夜居ない女房の代わりに
家事が出来ていないと、義娘に手を挙げた。
口答えする女房を、何度も殴った。
仕事をしなければ。
けれど、俺がやりたいのはこんな仕事じゃない。
ジレンマで増殖するフラストレーションを
家族へぶつける日々が、続いた。]
白に溶け行く 白
[緩慢に吐き出した薄煙が
白い吐息と混ざって天を目指す。
戻ることのない記憶の残滓が
最近頻繁に起こるかすみ目と頭痛によって途切れた。]
……ああ、頭いてェな…
[帽子の上から、蟀谷をがり、と搔いた。
随分と短くなったセブンスターを摘み、
最後に一口吸ってから、灰皿へと落とした]
[キィ、と小さな音が響いて
そちらへと視線を向ける。
かわいらしい女の子の姿に気づき
冷えた頬がやんわりと緩んだ。]
嬢ちゃん、入院患者かい?
ここは寒いぞー。
[彼女が喫煙に訪れたのだと気づけずに
そもそも、成人しているようにも見えておらず。
娘達と離れて幾年月。
少しばかり、懐かしそうな視線を*向けてしまう*]
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