[彼女は三人きょうだいの真ん中である。
上に兄、下に妹を持つ、長女。
妹がこの世に生を受けた時点で、決まっていることがあった。
ひとつは名前。
もうひとつは姉とは違い少々放任主義的に育てること。
気がつけば、妹の面倒を見るのが自分の役目のようになっていた、
そんな、遠い、記憶を、はじめに思い浮かべる]
[少女の視線の真っ直ぐさだけは、
まだ自分のあとをあどけなくついていってた頃の妹を、
自然と思い起こさせた。
この子と妹に似ているところはあんまりないというのに]
[「もうお兄ちゃんになったんだから、
お兄ちゃんらしくしてね」
そう言われたときを思い出す。
腹部が膨らんでいくだけの母は入院し、
次に見たときにはよく分からない生き物を抱きかかえていた。]
なんだよ、これ。
[「らしく」という意味が分からない。
妹が生まれてきたことが分からない。
意味も、必要性も、どこにあるのか。]
[しかし、これから男が出会うのはそういった場。
気持ちが悪かった。
帰りたかった。
しかし、帰るところがない。
帰るところに新しく異物が加わる、それだけなのだ。
なんであいつは、妊娠なんかしたんだ。]
[当たり前に、当たり前な子供が生まれるのだと思っていた。
それが「普通」だから。
しかし普通とは何だろうか。
何の感慨もなく結婚して、
今日にでも父親になろうとしているのに
全く実感は湧かないでいた。
妻の陣痛が酷くなったと聞かされたのは今朝のこと。
男はなにも持たず、財布と携帯とだけを持って家を出た。
面倒なものは妻の実家にあるはずで、
男が持って行くべきものなどなにもなかったのだ。
そこにまた、小さな疎外感。
家族とは何だろうか。
自分は家族ではなかったのか。
自分と妻の子供が生まれようとしているのに、
「家族」から自分だけ抜け落ちたような感覚。]
[どうも、おかしい
女学生からくる視線が好奇や奇異の視線とはまた異質なものに思える
彼女が何を考えているのか。気になりこそすれ、強く追求しようとも思わない
返事がないならばそれはそれで、勘違いだったということもあるだろう]
(こういうのって「当たって砕けろー」ってやつだよねぇ)
[とりとめなく思う。
例えば――家族のことにしろ、
未だ掴み損ねたままの件の男子学生との“この前”のことにしろ。
家族はまあ、家にいれば会えるとして。
男子学生が電車を降りるのは確か、
自分より先ではなかったか。
友人と一緒に談笑しつつ降りる姿は、
目だけでなく、耳にも残るものだ。それなりに]
(「当たって砕けろー」ってのが肝心……)
[もっとも、話したことがなければその逆、
話しかけられたこともない相手――
…………。
うん、そうだ。
“この電車内では”話しかけられたことのない相手、
で間違いはなさそうだ]
(――うまく、笑えているかな)
[ナオは心の中でつぶやく。
ぎこちなくはないだろうか。
「イケメンさん」に向ける笑顔は、できれば自然なものでありたいと願った。
普段は、静かに読書をして過ごす車内。
ばくばく、と緊張で心臓が跳ね上がっていた]
[そういやいつだったか、
男の妹が家出騒動を起こしたことがあった。
妹が中学生にもならなかった頃か。
確か、軽率な妹は手提げ鞄にリコーダーなんかを
入れっぱなしにしたまま出て行った。
筆箱やいらないプリントや、
その夜さえ越せそうにない出で立ちで。
結局は、駅前でうろついて
途方に暮れているのを男が確保した。
ぐずる妹に、半ば無理矢理のように
自販機で買ってやった粒入りオレンジジュースが
魅力的に見えて、自分でも飲みたくなった覚えがある。]
(―――俺か?)
[そう考えれば辻褄が合うような気がする
ただ夏目漱石という共通点で行けば、女学生が共通項のある人間に興味を示す傾向があることは頷ける
だが、それだけでは先程のポルテとの件が不可解だ
あの時に席を移っても良さそうなものを。とズイハラは考えていた]
[好きかどうか。そう問われて思考を巡らせる
"坊ちゃん"は一度、最後まで読んだ事がある。主人公が最後に赤シャツ等に天誅を加えるのを、何故かよく憶えていた
きっとこういった痛快な展開を何処かで望んでいるのだろう。話の主人公とは違って、こっちの世界では首と引き換えにはなるが
そんなことを巡らせながらどうまとめたものかと頭を回転させる。
女学生と同じタイミングになっているのは偶然として面白い、とも感じていた]
かわいーじゃん
[起こさないように酷く小さく呟いた。
視線の先には、アメリカンコミックスーパーマンさながらの
カラーリングをした、プラスティックの熊が笑う。
この細かな作業を、相手を
――しかも見知らぬ相手だ!
途中でばれてしまったらどうするつもりだったのか――
起こさずやりきった自分へ拍手したい気持ちでいっぱいだった。]
[何だっただろうか、思わせぶりな女の話。
よく知っているものとは違ったはずの、女の言い方。
「迷える子――解って?」
そうだ、ストレイシープ。]
[苛立ちの原因のひとつに、思い至る。
……あのときの、駅前での妹の顔。
そこに浮かんだ、不安そうな色。
それが、先に見た少女にもあったのだ。
だから、男は自分も不安を煽られたのだ。]
(ああ、もう)
[目がぐるぐると回る。顔が熱い。
声が上ずってしまったことに、「イケメンさん」は気付いただろうか。
もっと自然に差し出すつもりだったのに。
どうして自分は]
(「なにかの縁」って、なによ。ばかばか)
[もっと良い言い回しがあっただろうに。
日常のはずの電車内での、ちょっとした非日常。
今日の自分はどうしてしまったというのだろう。
心臓は今にも爆発しそうで]
(「お色気さん」が! 悪い!)
[あんな挑発をされなければ。
いつもどおりに読書して。いつもどおりに通学する。
ただそれだけだったはずなのに。
どうして自分は、メールアドレスが書かれた紙を握って、こんなに震えているのだろう]
[見ている。見られている。
教室に、僕だけが一人立っている。
みんな座ったまま僕を見ている。
先生も座って、僕を見ている。
何を言うべきだっけ。
何が正解だっけ。
見ている。見られている。
僕もひたすら、自分を見ている]
[こんなん、持ってたっけ。
覚えてない。
兎は覚えている。
でも、熊は。
覚えてなくても、持ってたかも。
捨てられなくて困って……違う]