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―回想・過去の記憶―
[それはまだニルスが一桁ほどの年の頃。彼は小さな手を母にひかれながら夏至祭へと来ていた。
彼の母はこの国の出身ではない異国の民だったが、この夏至祭がとても大好きでよくニルスを連れては共に祭りを楽しんでいた。
彼もそんな母が大好きで、まるで同い年の子供のように花冠を被りはしゃぐ母の姿を笑ったり、大きなコッコを二人で眺めるこの瞬間がとても幸せだった。
その幸せな時も束の間。
祭りから帰る時、母の顔はどこか暗かった。
その理由はニルスも今なら理解出来るが、母は父――彼女の夫――から度重なる暴力を受けていたのだ]
[ニルスの父はこの国の出身で、母は彼と異国で出会い此処へ嫁いできた。それもそう、母には身寄りがなかったのだ。
そんな母は無差別に自身へ行われる暴力を誰にも相談する事が出来ず、それをニルスは閉じられたと思われていた両親の寝室のドアの隙間から、母の泣き腫らした顔を覗き知ってしまった。
助けたいと幼いながらに思ったが、その母の隣で未だ暴行を加える父の横顔は彼が普段知っている優しい顔とは全くの別人のようで、それが恐ろしくて。
自分も母のようにされるのではと怖くなり、助けることもせずその場から逃げ出した]
[母はニルスに父から暴行されている事は一切口に出さなかった。
それは母として我が子に弱音を吐かない、巻き込ませない…そんな心の現れだったのだろうか。
そんな母はやがて精神体力諸共に衰弱していき、ついには病に罹り帰らぬ人となってしまった。
それはニルスが暴行の事実を知って翌年、夏至祭が始まる頃。
まだ幼い彼には、母の死はすぐに理解出来なかった。
ただ分かるのは母は父の暴力が嫌で逃げたのだろうか、という子供の知恵を振り絞って出た結論。
そして母の葬儀が行われた日。
ニルスは死に化粧を施された母の屍体と初めて対面し、その姿を、今まで見たなかで一番綺麗なものだと感じた。
それが彼が初めて見た“命の終わりの輝き”だった]
[葬儀の最中、森から迷い込んできた一頭の揚羽蝶が宙を舞い、母の心臓がある左胸へと留まる。
そこで美しい翅をひらりと動かす様子は、まるで母の心臓の鼓動が目に見えているようで、ニルスはその光景に釘付けになった。
やがて蝶はひらりとまた宙に舞い、まるで母の魂のように森へと帰っていった。
数日後、彼の父親は妻への暴行がばれるのを恐れるかのように何処かへ逃げた。
ニルスが蝶に興味を持ち、まるで喪った母の魂を捕らえるように標本にするようになったのも。
自身の父親がこの世で一番醜く、母を助ける事が出来なかった自分もまた、醜い人間なのだと思い始めたのはその頃からだろうか。
そしてニルスが酒に一切手を出さないのは、彼の父親が母に暴行する際は決まって大量の酒に手を出していたからだった]
[母を喪い、父が蒸発した後のニルスは父方の祖父母に育てられた。
彼等はもともと身寄りのない母の事を良く思っておらず、またその母と同じ髪色と容姿を持つニルスの事も良く思っていなかった。
祖父母は渋々と幼いニルスを引き取ったが、それからの生活は幸せなどではなく。
彼はそんな環境のなかでゆっくりと歪み続け、やがて学びの才能を開花させた。
然すれば祖父母は掌を返すが如く、我が孫は誇りだと言わんばかりに彼を褒めちぎり、周囲に自慢をし始める。
そんな二人の様子を見て、幼子から少年へと育った彼は人間の醜さを再確認し、そして失望した]
[それから成人した後。
ニルスは今まで心血を注いで研究してきた蝶の知識者となり、昆虫学者の職へと就いた。
彼がこの小さな村に来たのはその数年後だっただろうか。
祖父母が次々と老衰で倒れていく際、彼は顔も二度と見たくないと病室で言い放ち、看取ることもせずに生まれ育った町を出た。
―――父の醜さと己の弱さ、そして祖父母や周りの人間の裏切りを知って成長した男は、まるで自身を傷つけまいと身を守る蛹のよう。
哀しいことに母の優しい愛で育てられたはずの彼は、人を信じ、愛する心を捨ててしまって*いた*]
―クレストの部屋へ向かう道行き―
[他人の不幸は蜜の味。
上手く言えたものだ、とニルスは緩やかな足取りで階段を上る。
昨夜死んだ、飢えた蜂のように。
心の死んだ蝶は花蜜を求め、ひらりひらりと不規則に舞う。
こつ、こつ、こつ。
全部の部屋の前を周り、僅かに聴こえた二つの男女の声をもとに歩けば、かつて司書として存在していた男の部屋に辿り着く。
昔覗き見てしまった両親の寝室のドアの向こう。
その時と同じように、ドアは誘うように僅かな隙間があって。
ゆったりとした動作でノブを握って開けば、きぃ、とドアの軋む音がする。
そしてその向こうにはまるで寄り添い合うようにその身体を抱きしめるユノラフと、黒い鱗に覆われたイェンニと思しき
――――――――化け物が居た]
―クレストの部屋―
Hyvää päivää.
[ドアが開けば唄うように紡がれたこの国の言葉。貴族が使うような気品溢れる丁寧な挨拶も、今の二人には狂気に思えるか。
黒い鱗に覆われた女を冷めた目で一瞥し、ユノラフに問う]
こんな化け物でも、まだ庇うのか?
[呆れたように聞けば、彼からは予想通りの返答がくるだろうか。ジャケットの胸ポケットから少し覗いていた、折り畳み式の細身のナイフを取り出せばパチンと開いてみせる。銀色の刃が稲光と共に光った]
…その化け物を、殺す。
[痛いほどの鋭い視線は黒い鱗を持つ者に。女が声をあげたとしても、ユノラフが止めにかかったとしても。ニルスの殺意は変わらない。
―――こつり、こつり。
硬い靴音が二人に近付く]
[案の定、返ってきたのは滑稽な言葉>>73。化け物は化け物で変わりないというのに、何が違うというのだろうか。
女を後ろに隠すユノラフを笑って見ていれば、何かを投げつけられる]
なん…ッ!?
[咄嗟に上げた腕でそれを被ることは防げたが、気を逸らされた次の瞬間には足に衝撃が走り床に転がっていた。
馬乗りになった彼が顔に一発の拳をぶつけ、じわり、頬に痛みが広がる。
少しの耳鳴りの中、逃げろと叫ぶユノラフの声で我にかえれば。
彼は女に声をかけ気が逸れている。今だ。
片手に構えたナイフの柄を強く握り、それを大きく振り翳して馬乗りになっているユノラフの肩へと力強く刺した]
[一思いに刺したユノラフの肩からどろり、まるで蜂蜜のように血が垂れ流れるのを見つめる。泣き喚くばかりの女の声>>82が煩わしい。早く、黙らさねば。
ユノラフが床に倒れ込んだ隙に立ち上がる。女が駆け寄ってきたが気にせずに、一度はナイフを引き抜いた傷口とは別に、ぐり、切っ先を僅かに沈め抉って抜いた。
倒れているユノラフを静かに見下ろし、歪んだ笑みを見せれば視線は女へ]
…君は僕と同じだと思った。
独りで、何かの為に生きる事も出来ず、妬み、憎み、恨み…寂しい人間。
[ゆっくりと女のもとへと近付く。手には、ユノラフの血で塗れた銀のナイフ]
[逃げようとはしない女と健気なユノラフの姿に、ほう、と感心する素振りを見せる。そして私はずっと独りだ、と言うその鱗に覆われた顔にずいっと顔を近付けると、ニルスの乱れた前髪が女の鼻先に触れるほどの距離になる]
…そうだ。君はずっと独りだ。
今までも、今も、これから先も。
[女を洗脳するかのような言葉。
それはまるで自身にも向けられているようで。
ニルスは腰を屈めたまま、女をユノラフの隣に突き飛ばし馬乗りになった。
そしてナイフを持っていない左の手で、女の細い手首を片方だけ床に押さえつける]
君は、僕と同じだ…だからこそ腹が立つ…見たくもない自分の醜態を、曝されているようで…っ!!
[ぎしりと軋む骨の音。
その時のニルスの顔はどれほど険しかっただろうか。
それはどこか憂いを帯びているようにも見えただろうか。
彼は自分自身こそがこの世で一番醜い人間だと知っていた。
そして似たようなイェンニが、自分が手に入れられなかった愛や信じる心を享受しようとする姿が、羨ましくも憎かった。
やがて右手に構えていたナイフが振り翳され、押さえつけられていた女の手のひらにどすりと、まるで蝶の標本にされるかのように突き刺された。
致命傷ではない、その痛みと様子に女は、ユノラフはどんな声をあげるだろうか]
[部屋の外から騒々しい足音>>91が聞こえ始めたのはこれぐらいの頃だろうか。
きっと悲鳴に気付いたマティアスが来たのだろう。
それでも気にせず、ニルスは冷静で狂気じみた殺意を女に向ける。
刺した手のひらからはナイフに付着していたユノラフの血と混ざり、はて、化け物からはどんな色の血が溢れるか。
懇願するような声>>94を聴き、虚しくも届かなかった男の手>>95を一瞥したらニルスはナイフを刺したまま、まだ薄っすらと人の色をした肌が覗く女の首に両の手をかけて、蝶を殺すように圧迫させた]
………るさい………うるさい、うるさい、煩いッ!!!!!!!!
[やめろ。
僕の前でそんな綺麗なものを見せるな。
ニルスは音も目の前の光景も全て掻き消すように、全ての力を込めて女の首を圧迫する。ぎりぎりと締められていく首、女の口からは苦しげな呼吸音が漏れる。
―――女が息絶えたのは、それからどれ程後のことだろうか]
[首を締めている途中、苦しげに動く彼女の左手がニルスの手の甲に傷を作る。それは彼女が生きた証を残すかのように。
やがて呼吸音も絶え絶えになってきた頃、不意に伸ばされたイェンニの手にびくりと肩を揺らす。
その時の顔が、まるであの優しかった母のようで。
ニルスはそれを拒絶するかのように、最後の力で首を一際強く締めた。
そして伸ばされた手はするりと落ち、皮肉にもあの時に届かなかったユノラフの手へと触れていた]
はぁっ…はぁ、っ…。
[いつの間にか乱れていたニルスの呼吸も次第に落ち着き、ゆっくりと両の手がイェンニの首から離れていく。
その薄っすらと人肌の残る場所には、赤い、蝶のような締め痕。
周囲の音は何も聴こえない。
ノイズのような音だけが頭に響き、視界の端にある窓の外から極彩色がひらり、ひらりと舞ってきた。
それがニルスだけに見えるものかどうかは知らない。
その極彩色の翅を持つ者は、たった今死んで逝った彼女の心臓へと留まり、鼓動するように翅を動かせばやがてまた外へと飛んでいった]
…僕は……また…
[飛んでいった極彩色を見送り、ぽつりと零れた言葉は最後まで言われず。
彼の脳裏に浮かぶは死んだ母の顔。
静かに頬を伝って流れた涙の粒は、黒い鱗に覆われたイェンニの頬へとそのまま落ちていった]
[窓の外ではやがて雷雨がおさまり始め、待ち望んでいた太陽が顔を覗かせ始める。
暫く呆然としていたニルスは、イェンニの上から退いて部屋を出て行った。
きっと近くに居たマティアスの肩にぶつかっても、何も言わずに行っただろう]
―自室―
[クレストの部屋から出た後、ふらふらとした足取りで自室へと戻った。
部屋から見える外の景色は明るく、まるで時間を夏至祭の日へと巻き戻したかのような快晴となっている]
…………。
[ベッドへと腰を下ろせば、ぎしりと音を立て沈む。
―――何もかもが終わった。
生きるか、死ぬかの、ゲームが。
たったそれだけの事なのに、この失望感は何だ。もうこの世界には失望しきっていたんじゃないのか]
[ニルスは最後まで気付けなかった。
自身がまだこの世界を、人間を、誰かが手を差し伸ばしてくれることを信じ、望んでいたことを。
そして、それを自らの手で振り払っていたことを]
[彼の頬に残る乾いた涙の痕が濡れることは、もう*無かった*]
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