情報 プロローグ 1日目 2日目 3日目 4日目 エピローグ 終了
[男はたくさんの名を持っていた。
現在のところ、この街ではカウコと呼ばれていることが多いから、まあそれが彼の名、ということにしておこう。
はいよ、という声とともにかすかに煙の香りのする水割りがトン、とカウンタに置かれた。
いつもの銘柄、モルト仲間にはせっかくの個性をそんなに薄めるなんて、という苦笑いをされるほどの比率。しかしこれが彼にとっての完璧な水割りだ。]
……旨い。
[しみじみと呟いて、薄い水割りを一杯だけ、ちびちびと飲む。これが彼の日課だった。]
[彼は気がついていない。
いつもの酒を飲むそのカウンタが、いつものあの場所ではない事に。
マスターも、常連たちも、彼の知らない、誰か。
ただ海の香りのする水割りだけが、いつもと変わらずそこにはあった。]
んだよそれ。
[並べ立てられた名前らしきもの。
そもそも彼は誰だっけ。記憶を探る。が、途中で面倒になった。]
ああ、そうだな。
んじゃウルフでいいわ。
[答えて、ほらよ、と三分の二ほど残ったグラスを差し出した。
また名前が増えてしまったわけだが、そんなこと、彼は全然気にしない。]
旨いだろ?
[自慢げに言うが、好みを選ぶ酒だ。思い切り薄めてあるとはいえ、何しろ殆ど煙を飲んでいるような香りなのだ。]
…じゃねえっての。
まあ、なんでもいいけどよ。
[ひとつ増えた名前も、その端から忘れた。
その日暮らしの彼にとっては、名前などそう重要なものではない。]
なんでもない日万歳、ってか。
[昔見た映画の一節だった気がする。が、それが何だったかは思い出せない。]
[ふと、ポケットの中でセルフォンが震えたような気が、した。
取り出してみたが画面には何の通知もなく、むしろ電波が届かないことを示すアイコンが小さく表示されていた。]
…マスター。この店いつから圏外になったんだ?
[記憶が正しければ、たしか先週、ここで女を口説いている最中に他の女から電話があって――]
『ずっとですよ』
[と、マスターは微笑んだ。]
ん、あれ
じゃあ、あれ夢か。だいぶ酔ってんのかな、俺
[女子供並みのアルコールの弱さを暴露しながら、カウコ―ここでは、たぶんウルフだ―は頭を掻いた。]
誕生日?
忘れちまったなあ、そんなもん。
[小さく欠伸をしながら、答えた。祝ってもらった記憶はないし、自分の誕生日など知らなくても生きていくには困らない。]
…甘
[渡された白い顆粒を舐めて、顔をしかめた。]
誰だっけなあ。
『お砂糖と卵は人の心を優しくする』
なんてゆったの。フロイドか?
[砂糖の小皿をぼんやりと眺めながら、カウンタにべたりと頬をつけて、眠そうにゆっくりと瞬く。]
烏ゥ?
俺は嫌いだ、奴ら俺を馬鹿にしやがる
[突っ伏したままグラスを掲げ、*マスター、もう一杯*]
うるせえぞ、このタコ。
誰が烏より下だ、だァれが。
[既に発音が怪しくなり始めている。
新たな客の訪れには視線だけを投げかけたが、もう瞼は重く]
やけ酒は良くねえぞ、良くねえな。
酒が可哀想だろォ…?
[最後のほうは何かもごもごとした音になって、そのままうつらうつらと微睡みの中へ。]
情報 プロローグ 1日目 2日目 3日目 4日目 エピローグ 終了