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[からん、と氷が鳴った。]
『……どうしたの、ぼんやりしちゃってさ。』
[顔をあげると、マダムがカウンタに肘をついて、男(名は、なんといったか)を見つめていた。不意に視界に入った紫のルージュに、不覚にもどきりとして]
……髭生えてますよ、オネエサン。
[照れ隠しに軽口を叩くとマダムはすっと目を細め、テノールの声をバリトンまで、落とした。]
『誰の、何だって?え?』
[男は慌てて背筋を伸ばす。]
いーえ、なんでも。
[カウンタの奥ではボーイが黙々とグラスを磨いている。
いつもの店、いつもの酒。通い始めてもう何年だっけ。]
『……雨、やまないわね』
[マダムがぽつりと呟いて、入り口を見やる。
そこには空色の傘が立てかけられていた。晴れた空の鮮やかな色も今は重く濡れ、床には小さな水溜りができている。]
……あーあ、シャツ干しっ放しだぜ。
雨になるなんて思わなかったしよう。
[半分ほど残っていた水割りをぐいと呷る。
一緒に暮らしていた女にはひと月前に放り出されたばかり。仕方なく、一人で部屋を借りて暮らしていた。意外な事に無駄に育ちの良いこの男、家事の類は一通りこなせてはいる。
気づくと、今着ているシャツも、肩がじんわりと滲んでいた。ぽたりと髪から雫が垂れる。音もなく近づいてきたボーイが、どうぞ、とタオルを差し出す。有難く受け取って、髪を拭き肩に羽織る形で引っ掛けた。]
『ゆっくり飲んでいきなさいな。
時間はたくさん、あるでしょう?』
[滑らかな仕草でマドラーを回しながら、マダムは言う。]]
うるせえ、どーせ無職のゴロツキですよ。
[冗談混じりにいじけてみせた男に、マダムは一瞬だけ、少し悲しげな表情を見せた。が、すぐにいつもの微笑みで、次のグラスを男の目の前に置いた。]
『……どうぞ、これはあたしの奢り』
[男は海の香りのするグラスを手にして彼を待つびしょ濡れのシャツを思い、しかしもう、忘れることにした。ほんの少し軽くなった心ごと、お気に入りの水割りに浸る。そうして、静かに夜は更けていく。]
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