[ルリは自分の心臓がどっくんどっくん鳴るのを聞いていました。徒競走のときよりもドキドキして、顔も熱いくらいなのに、そのくせ飴玉を握った手は少し冷めているようでした。
だからでしょうか、お姉さんがもらってもいいの、と聞いた時に、ルリはうまく答えることが出来ません。耳の中でドキドキしている心臓がうるさくて、なんて言えばいいのかルリには分からなかったのです。
お姉さんは驚いた顔をしていました。もしかして、もしかしてやっぱり、ご挨拶としては飴玉はダメなのでしょうか。でもルリは果物は持っていないのです。]
[お姉さんの視線がいったりきたりする間に、ルリの目線も少しずつ下がってきてしまいました。あらやだ、鼻がツンとします。お寿司を食べた時のようです。
けれど、しぱっと、ルリが瞬きしたら、眼の中の海は薄れました。
綺麗 ですって?]
[ルリはきちんと目を上げます。そうして、指さされた飴玉とお姉さんとを見て――さっきのお姉さんの真似っこみたいでした――、それから、ウン、と頷きました。]
あの あのね、これ、
ルリのお気に入りのアメ、です、ドウゾ!
[やった。やりました。
今度は言えました。ドウゾ。たった三文字です。なんでこれがさっき出てこなかったのでしょう。勢い込んで言ったせいか、少し早口でしたけれど、とにかくルリは言えたのです。御挨拶を言えたのです。]
[ルリはあんまりにも一生懸命でした。御挨拶をする使命に突き動かされていたものですから、参考にした『果物の大人』の正体に、気づけていませんでした。よくよくその人を見ていたら、きっとルリは今度こそ完璧に動きを止めてしまっていたでしょう。
けれどルリは、一つ御挨拶ができたものですから、あの怖い人にもご挨拶だって出来るかもしれないわ、とむくっと自信を育てたものですから。正体に気付く機会をひとつ、逃してしまっていました。]
[ルリが成功体験にひとつ気分が大きくなっていました、が、やはりお姉さんが綺麗に笑うと、少しどぎまぎしました。にっこり。花がひらくみたいに、お姉さんは笑います。ルリの知ってるお友達とは、少し笑い方が違うのです。なんて言えばいいのでしょうか、きっと、お姉さんはこういうふうに笑うことに馴れているんじゃないかな、なんてルリが思うほど、自然にきれいに、ルリを安心させるみたいに笑うのです。]
[お姉さんが「お返し」と言うと、ルリは瞬きしました。
ルリは用意のいい子ですが、「お返し」に関してなにも考えてはいませんでした。そう言えばそうですね、御挨拶というのは相手からも返してもらえるものでした。おはようと言ったらおはようって、ありがとうって言ったらどういたしましてって。ルリはそういうところは思い当たらなかったのです。]
[なので、ルリは勢いよく、首を左右にふりました。結んだ髪の毛がぴょんぴょん跳ねて、くっついたリボンがふわふわ踊ります。
これで「お返し」はいいのだと、お姉さんにも伝わるでしょう。]
[でもその代り、ルリの目はお姉さんの隣に向かいます。
大きなケース。いったいなんなのでしょう。ランドセル? ルリの知らないものです。
ルリは差出していた手を体の前で揃えて、それからお辞儀しました。『引っ越しのご挨拶』の最後とおんなじです。
そうして、少し慌てて、パタパタと。あっ車内は走っちゃいけませんでした。早足で自分のリュックサックのところへ戻ると、椅子には座らずにリュックサックに抱き着きました。やったよお婆ちゃん、ルリひとりでもあいさつできたよ――お婆ちゃんには届かない、ルリの無言の祝杯です**]