情報 プロローグ 1日目 2日目 3日目 4日目 5日目 エピローグ 終了
― 夜中 ―
[がちゃん がちゃがちゃっ と大きな音が響く]
やれやれ、お隣さんにもまいったものだね
[介護病棟の自室のベッドの上で呟いた。
隣の老人は夜中に廊下に出ては、部屋に戻ろうとして間違えて隣の部屋をがちゃがちゃやるのだ。今日もまた目が覚めてしまった]
うーん
[眠れないながらもごろりと寝返りを打った。ここに入ったばかりのときは丁寧に、お隣の部屋ですよ、とドアを開けて対応したりもしたが、今はそれもしない]
…角部屋なだけ、良かったね
[この病院は、角部屋の窓が大きい。
もう一度、よいしょと寝返りをうって、窓のほうを見た。
隣の老人は、扉が空かないので諦めたのだろうか。
毎度の音に気づいた職員が連れて行ったのだろうか。
静まり返った病院に、わずかな潮騒が響いている気がする。
窓の外遠くに光る月が見えた**]
[夢を見ていた。
暗い中に、ぽっかりと明るい場所があり、その空間で老人が生い茂る草木に水をあげていた。
ああ、これもよくある夢だ。でも、いつも同じことをしてしまう]
おじいさん、おじいさん
もう私も十分生きましたよ
そろそろお迎えにきてくださいな
[老人に声をかけながらゆっくり明るい空間へ向かう。
老人が水遣りの手をとめて、こちらを見た。
そして首を振った]
― 朝 ―
[目を覚ますと、部屋に明るい光が差し込んでいた。この部屋の、朝日の当たりがとてもよいのが好きだ]
…よっこいしょ
[朝ごはんを食べに食堂へ行かないと。と洗面台に向かって身支度を始める]
豪勢な部屋だよ
トイレもあるし、鍵もかかるしね
わたしをこんなところに入れるなんて、もったいないさ
[家にいたってよかったのに。
ぱしゃぱしゃ顔を洗いながら呟いた]
さてと…
[朝食を終えるとふらりと病院棟へと足を向けた。
ここの食事は成年から見れば粗食も粗食だが、正直老いた自分にはそのそっけなさがちょうどいいくらいだった]
自分で作らなくていいなんて、豪勢だねぇ
[また呟きながらゆっくり渡り廊下を歩いていく。
昼間は介護棟でもレクリエーション的なことをやっているのだが、自分は散歩によるリハビリと称して病院棟や、庭に出るのが好きだった。
というか、レクリエーションに出るのが嫌だった]
[ここに来たばかりの頃、レクリエーションによるリハビリを職員に勧められ、目を留めたのが歌のレクリエーションだった。
これでもずっと若い頃には、満州のカフェで歌を歌ったこともあるのだ。あの頃歌ったような曲は演奏するのだろうか。
どんな人がいるのかというのもわくわくして、少し身なりを整えて会場に行き、椅子に座って開始を待った。他にも10人近くの老人が職員に連れられて集まっていた。
レクリエーションの時間になると、若い男の職員が2人やって来た。1人はギターを持っている。
『じゃーレクリエーションやりまーす。分かる人は歌ってくださーい』
やる気のない声に隣の職員がくすくす笑った。
ほかの集まった老人は、椅子に座ってぼんやりと2人を見ていた。
ギターを持った職員はその後、なにかよくわからないテンポの早い曲を弾いた。合いの手を入れるにしても早すぎてどうしようもない。
『あなにお前それ弾けんの?じゃああれ弾けねぇ?あのCMのさあ』
『お弾ける弾ける、ていうかお前もあれ好きなんだー』
[雑談しながら曲を弾きつづける2人を自分もぼうっと見ているだけだった]
ここの景色は綺麗だね…
[ふと渡り廊下から外を眺める。立つ木々は寒々しいが、ぽかぽかとした太陽が庭を照らし、遠くには漣立つ海が見えた]
― 病院棟 ―
おっとっと
[子供が走ってきたのをすっと避ける。
立ち止まってぺこりと頭を下げる子供に、いいよいいよ、と笑って声をかけた]
子供なんて見飽きるくらい見てきたのにね
[なんでやっぱり子供は可愛いのだろう。
にこにこしながらロビーのほうへ向かい、日当たりのいい場所にちょこんと腰掛けた。
雑誌がある。
ああ、虫眼鏡を借りなければ…**]
ふぅ…
[立ち上がると、近くにあった窓口の老眼鏡を少し拝借する]
ふむ、いい塩梅だよ
[試しにかけて、窓口のチラシのようなものをじっと見る。文字はまだ小さいが、何とか読めた。
眼鏡を手に取ると、もう一度同じ場所に向かい、腰掛けた。
しかし雑誌をとりに行く前に少し陽だまりの中でぼんやり一息ついていたとき、目の前に車椅子の女性が近づいてくるのが見えた]
? こんにちは
[まっすぐ自分に向かってくると見える彼女を、不思議に思いながらも挨拶をした]
…お手玉 そりゃあ作れますよう
作れるけど…、お嬢ちゃんが遊ぶの?
[何しろ散歩に出ない間は部屋で無心に縫い物をしているのだ。
最近は目が悪くなり、縫い目が粗くなったものの、まだまともにできるものと言えるだろう]
いまの若い子はあれじゃないのかね
ディーエスとか
[自分にしてみれば10代も20代も同じだ。
さっきぶつかりそうになった子もなにかそれらしき機械を持っていたし、ある程度成長した孫も遊んでいた気がする。
お手玉を求める彼女を不思議そうな顔で見た]
[あずきが入って…という言葉に、ああ…と目を閉じる]
そうだねぇ、上げるとじゃらって音がするね…
そうだねぇ、よく遊んだものだよ…
[一時、もう遥か昔、田舎の山の夕暮れが瞼の裏に浮かぶ。そしてふと目を開けた]
そうだ、はぎれが少し持ってきたのがあったね
茜色のちりめんと、紫色のがあるよ
あずきは…職員さんに買ってきてもらいましょうか
[自分でもすっかり乗り気になっていた]
うん、作れますよ
わたしの作ったのでよければ
[微笑んで頷いた。彼女は欲しいと言っただろうか。
また会える?との問いには]
わたしはここにいますよ
このあたたかーい場所がわたしの定位置なんです
[とまた少し微笑んだ]
また会いましょう
えーと、…
[名前を聞けば、呼んで、座ったまま、去る彼女に小さく手を振った]
…足が悪い子なんだね
若いのに、難儀だよ
[彼女が去った後、ポツリと呟いた。
自分より若い人々と同じ空間に居られるこの場所は介護棟よりよっぽど好きだ。
でも、みんな、どこがが悪くて辛いのだと思うと、なんだか申し訳ない気分にもなってしまう。
彼女や、さっきぶつかりそうになった子供のことを考え、静かに目を閉じた。
ぽかぽかとした陽だまりと、病院の薬品の匂いの中で、しばらくじっと目を閉じて、静かなざわめきを聞いていた**]
情報 プロローグ 1日目 2日目 3日目 4日目 5日目 エピローグ 終了