─ 高校の音楽室 ─
[ヴァイオリンの弓をおろして大きく息を吐く。
集中が途切れると、セミの鳴き声が気になった。
アブラゼミだ。
夕刻時や夜間に鳴くことでも有名なこのセミの声が、
初音は嫌いだった。
あの事件を思い出させるから。]
――……。
[窓辺へと近づくと、初音はカーテンを引く。
窓を閉めたままでもこの音量だ。
開ければさぞ五月蠅いだろう。]
[明るいチャイムの音とともに下校を促すアナウンスが流れる。
思わずスピーカーと壁の時計を仰ぎ見た。
外の明るさに惑わされるが、アブラゼミの大合唱を考えれば、
とっくにそういう時刻なのだ。
初音は手早く弦と弓を緩め、ヴァイオリンケースに仕舞う。
忘れ物がないことを確認すると、音楽室を出て鍵をかけた。
毎日放課後に練習して2年半。
音楽教諭もいちいち確認したりはしない。]
─ 校舎→校門前 ─
[校舎の外へ出ると、ねっとりした熱気に包まれた。
海の近くの町なのに、暑さが和らいでいる実感はない。
ヴァイオリンケースと学生鞄を提げた初音は目を細め、
急ぎ足で校門を目指す。
校門前の桜の木も、この季節にはただの広葉樹にしか見えない。
足元の葉影に気を取られていたせいか、
門から一歩足を踏み出した瞬間、
波が目の前に迫っていた。]
えっ…………?
[反射的に後ずさる。
と、肩が門柱にぶつかった。]
[振り返ると、いつもの学校だった。
2年と数か月通い慣れ、見慣れた門柱と、門扉と、桜の木。
視線を戻すと、海岸も波もどこにもなかった。
目の前にあるのは、舗装された普通の通学路だ。]
……え……ええ?
[ヴァイオリンケースを抱きかかえ、初音は視線をさまよわせる。
暮れゆく空を眺め、校舎を振り返り、通学路と周囲の景色を見比べて、
足を運ぶ。
茫然と数歩進んで気づいた。
波の音がしなかった、と。]