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夜 病室
[その晩、夕食の時間だと隣人に揺り起こされた田中老人は、昼と同じく膳を運ばれるを欲した。
珍しく、彼女は駄々をこねる子供のように食べたくないと言葉を零しもした。
その間中、きつく握りしめられていた人形はというと、何にも言わず、何も見ず、ただ色の薄れた眼差しをカーテンの向こうにずっと投げかけていただけだった。]
朝 病室
[昼日中に睡眠をとったせいか、彼女の睡眠はごく浅いものだった。しとしと降り出した、冷たい空気を縦に割っていく雨音に目を覚まし、カーテンに覆われた窓をじっとみることもあった。 笑わずに窓の向こうをみる彼女の顔は、それでも無数の皺が支配し、その中に埋め込まれた小さな眼差しには感情を伺えるような隙間はなかった。
それから彼女は眠った。看護士に揺り動かされるまで睡眠を貪った**]
[目が覚めて彼女が一番にしたことと言えば、深くため息をついた事だった。カーテン越しの虹を見ていたならば、それはきっと異なる意味合いの吐息となったことだろう。]
あァ――……、いいえェ、おはようね
ちょっと、……何でもなかったんだよぅ。
ほんと、何でもなかったんだよう。
[そういって彼女は看護士がカーテンを開くを見守った。]
……ううん、でも。そうだねェ実ァ
ちょっと気分がふさいじまってねえ
けども、まァた あの子の歌でも聞けりゃア元気になるさね。
そうそ、あたしね、今度あの子に会えたら
みんなで童謡歌わないかって声をかけてみるつもりなんだよ
あんまり話したことォないのに、不作法かもしンないけど
わざわざ病院に来てくれるくらいだ
もしかしたら――って。ねェ。
どうだろうね、あの子ァまた今日も中庭に来るだろうかいねェ
――――おンや?
[唇を尖がらしつつも滑らかに回っていた口は止まった。カーテンを開けたまま、握りしめ、反応のなかった看護士に視線を向ける。
窓の向こうは、晴天だった。夜明け前に流した涙が曇りを解け流したような青空の、そこに掛かっていたらしきを思わせる虹色。薄れいく存在は、かつてあった大きさを今は青色に溶け込ませている。
老婆はそっと人形をゆすりあげた。その描かれた平面的な眼にも空が映る。]
…………、
――……いィい 天気だねェ
正午 ラウンジ
[彼女がのそりと動き出したのは、虹が消えて暫くが過ぎ、もう暫くが経った後だった。右足を引きずり、のんびりと歩いて向かったのは彼女の定位置となっていたラウンジだった。もうその扉はとっくに黒枝奈緒によって開かれていたとは知らず、また彼女がそのとき一角にいたとしても狭い視界の中には見えず、歩き、定位置を通りすぎ売店まで向かった。]
……ううん、そうさねェ――何がいいかねえェ
あんただった何を持ってく?
いやいや、馬鹿言っちゃいけないよォ、
こういうのは向いてないってェの。
緑茶とかに合うやつにしておくれよ。頼むから。
[一人と一体の会話はしばし続き。]
あら、ま。
結城先生。
[商品棚からふと現れた陰に黒目がちな目を向けた。笑み皺が深くなる。]
ンふふ、それを今考えてたとこなんですよう。
緑茶に合うもの探してたら、チョコレイトをね、
推されてちまって。
先生もォ、お買い物ですかい。
[腕に抱えた人形を揺すりあげ、相手の視界に入るよう胸に抱え直す。老婆の眼は、それから、相手の持ち物を探るように動き]
[皺の中にぽつねんとあるような、老婆の眼は結城医師の笑みにそっと柔らかな眼差しを注ぐ。一回り以上、下手したら四半世紀以上も年の離れた相手に、医者としての――命を救うものとしての敬意を向けながら、同時に遠く離れた伴侶をも思い描き]
いいえェ、孫ならよかったんですがねェ……。
もォ、それこそ――はて、幾つだったかな、会えてないんですよう。
代わりにね。
この子がさっきから食べてみたいって。
[ンフフ、ともう一度くぐもるような笑いを零した。この子、と指したのは紛れもなく腕の中の。金色の化学繊維を静電気でふわりと浮きだたせたセルロイド。医師の内心にちらりとでも過ったことを知らず、心持、持ち上げた。]
ありゃ、先生、お昼ですか。
[ハムサンド、結城医師とを比べるように見]
先生、医者の不摂生てェ言葉……当てはまっちまいますよう。
人助けする大切な体なんだァ、大事にしないと。壊れっちまいますよォ。
[老婆の頬にはほんの僅か、色が差した。生白い皺の中に生じたそれは一目には見にくいものであったが、医師の笑みによって引きずり出されたものであるには明白だった。
口元を綻ばせて、人形持たない手を添える。揃えられた指先の、血の気のない白い爪先が薄い唇の半ばを隠した。]
そんなこと言っちまってると、今に倒れた時に笑われちまいますよぅ。
早いうちにお嫁さん捕まえて、毎日愛妻弁当作ってもらうのが一番さァ。
[そういってはまた、くすくすと女学生の笑う声のような――ただしそれよりも幾分か古びれた声音を震わせる。]
[レジに向かうその背に隠れるように、ねェと腕の中の人形と目を合わせていた老婆に、差し出されるのはビニル袋。と、その中の、小さな四角だった。]
――あんらァ……、
[小さな目を精一杯開き、その中身と医師とに視線を走らせた後、そっと手を伸ばした。]
こんな婆ちゃんたちに。
あらあらあら、あらァ……。いやァね、男前の先生ったら、やることも男前じゃあ
本当、うちの爺さんの立つ瀬がないよォ
[にこにこと何処か生娘のような恥じらいを頬に浮かべながら受け取った]
いつかお返しちまわなきゃァねェ、ふふ。ふふふ。
[優男と評したその顔に影が差すのを、老婆の眼が認めた。老婆の顔面に刻まれた皺は笑みの形に目元に、口元に集まる姿を崩さぬまま、その眼の色合いだけをわずかに変えた。]
おやまァ、死に掛けの婆さんでよけりゃ喜んで、ねェ。
男前に声かけられた なんて知られちまったら
おおこわ、嫉妬が怖いですよう。
[遊びのような言葉に返すのは同じような温度の、けれど頬の赤味は添えたまま。]
ありがとう、ありがとうねェ……
午後からもお勤めいってらっしゃい……
[手の中のビニル袋、手を振ればかさかさと鳴いた。その音を添えながら医師の背を見送り]
[それから。
緑茶に合うだろうものを見繕い、いくつかレジにおいて、また他のお菓子の大袋をカウンターに追加し。店員がいぶかしむような目を向けても、にこり、と皺を一層寄せた顔を見せていた。]
[小さな、お菓子一つしか入っていないビニル袋を人形と同じように胸元に抱え、さまざまな菓子類――それこそチョコレートや和菓子など雑多に入っていた――のビニル袋を手から下げ、老婆はエレベーターに乗り込んだ。
彼女の最終目的地は、空が見えるところであった。けれど。]
あァ……、 あたしったら。
緑茶持っていこうと、持っていこうと思ってたってのに。
お菓子だけ持っていくつもりだったのかねえ馬鹿なことをしちまって。
あ、ちょい、ちょいと……止まっておくれよぅほら。
ほい止まった。よしよしいい子だ。降りるから動くんじゃないよォ。
[途中下車を選んだ老婆の姿は、3階に転がるように躍り出た。
談話室の緑茶を、買っていこうという魂胆だった。]
3階 談話室
[重くはないが嵩張りうるさく鳴る袋を談話室の一角、椅子の上に置くと、老婆は足を引きずりリズムのずれた歩行で自販機の緑茶を買い求めた。流石にすぐに動くことはせずに、袋の隣に仲良く腰を下ろす。
TVではどこかのアナウンサーが口早に若すぎた死を嘆いていた。その口上を眺める老婆の眼差しは焦点が微かにずれていた。
談話室内に知った顔があれば、もしくは話しかけられれば。いつもの老婆の顔を、皺にまみれた笑みを浮かべ、それこそいつも通りに会話するのだが。
午後のいまだ早い時間、そこにいる人物の把握までは老婆の思考は追いつかなかった**]
おや…………
[老婆は一度、ゆっくりとした瞬きをした。学生ほどの女の子が近づき、声をかけてきたのだ。そちらへ眼差しを、顔を向けると、口端を持ち上げた。]
んふふふ、お見舞いさんぐらい元気に見えるんなら嬉しいねェ
でも残念ながら、婆ちゃんは長ァく、ここにいる患者なのさ。
嬢ちゃんはァ――
[抱えた羊を、彼女が来た方向をたどり、広げられたノートを見]
お仲間さんかねェ……
可愛いお人形さん連れてる患者仲間ってやつかいね
おやまァ、それならさぞかし大事なお人形さんだァ
その子もお嬢ちゃんのこと大分好きなんだろうねェ
[誕生日にもらったと紹介される羊は掲げられ、姿勢が伸び、心なしか胸を張っているかのようだった。老婆の腕に抱かれた人形は、その鼻先に自身の鼻を触れ合わせるように――そう、老婆の腕が動いた。セルロイドの顔面に描かれた瞳に白がいっぱいに映る。]
ンフフ、この子ァね。
ずぅいぶん長く眠ってたから自分の名前も忘れっちまってェ……
御船での旅はネェ 昔ァそれはそれは長かったから……笑わないでやっておくれよぅ
もしかしたァら、
羊さんの名前をきけりゃあ思い出すかも
[くしゃくしゃと顔を縮めるようにしながら笑い、言葉にするのは相手の見た目の年齢よりも聊か下の子を相手にするような人形遊び。]
[ふと、老婆は談話室の窓から外を見た。そこにはもう、虹の欠片さえもない青空が広がるばかりだった。]
奈緒ちゃんやァ、小春ちゃんも、
見たのかねェ……
そうそ、お嬢ちゃん、小春ちゃんってェ知ってるかい。
お嬢ちゃんよりかァちょいと御嬢さんだけどね、
その子ァ病院で退屈してそうなのさ
[皺の中にある黒目はゆっくり戻り、羊と、それから持ち主の女の子を見る。彼女が小春のことを知っているならばそれ以上言及はせずににこりと笑うくらいなのだが、もし、知らなかったとしたら。お友達誘っていってみるといいよ などと唇をすぼませながら言った。]
[それは田中老人特有のお節介でしかなかった。
小春が同年代ほどの女学生が見舞いに訪れて喜ぶか――というのは、まだ数十分しか過ごしていない彼女には計り知れるところではなく。]
御嬢さんよりかぁ、御嬢さん ……ありゃァ何か違う……?
お姉さんよりか御嬢さん これでもなくて、えェとぅ――
あらァ。孝治くんじゃないの。
こんにちは。……あら、もしかして。二人はお友達?
[現れた後藤と、羊連れた女の子との間で視線は泳ぐ。
彼と話したことは幾度もあった。彼の話ぶりにも、また、彼の読む本にも、頭が良いんだねェと孫に向けるような視線と共に褒め言葉を向けることも。]
[うんうん、と首の皺を深めたり薄めたりしながら頷いた。
話題の転換のように人形に話が及ぶと、ンフフ、ともったいぶったような、娘のような声色で笑い]
あらま、流石の孝治くんだ。
女の子の服装変わってるのに気づくたァ粋な男だねぇ。
そうなんだよ、今日の朝、びろうどのスカート縫い上げてね
さっそく新調してきたのさァ……
ふふ、ほォら、気づいてもらって嬉しそうだこった
>>110
[内心を悟ったか、言葉にし直されたものに大げさに胸をなでおろした。
化学繊維の金色が巻き込まれ、微かに広がる。]
――あァ……そうだったのかい。
ちょいと驚いちまったよぅ……
もしかするとォ、――嬢ちゃんと孝治くんの間にねェ……
青春の一ページみたいなものが繰り広げられ、破り取られた後だったかしらん
だなんて。ふふ、婆ちゃん一人でドびっくりしちまった。
[質問にふむぅと唸るような言葉を喉奥から零し、
ふと思い出したように売店で購入した菓子を広げだす。]
そうさねェ、大丈夫だと思うよう。
でも、入る前に看護士さんにでも声かけて、
お見舞いしていいか聞くと尚、いいかもねえ。
ほォら、無菌室っつうと……あれだろう。なんか大変な病気が多いんだろう。
>>116
[老婆は頬を緩ませた。
孫のような年齢の子供に囲まれて午後の一瞬を過ごすことに、幸福を見出して。けれど、人形を抱える腕に力がこもる、彼女は知っていた。老婆は、彼らにとっての“家族”ではない。
孝治の言葉に悪戯気に口端を持ち上げる。円らな瞳は半ばほど閉じられた。後藤の内心を察するほどの鋭さが、老婆には圧倒的に足りなかった。後藤も、羊の子も、圧倒的に若く――そして、老婆にとっては孫ほどの、年齢だったから。]
なァにを言ってるのさ。
女の子ってェのはね、細やかな男に弱いんだよう。
さっき服のことにぱっと気づいてた孝治くんはァ、
女の子に見初められる才能があるってェのさ。
顔もカッコいいし、将来引っ張りだこだよう、ねえ嬢ちゃん。
婆ちゃんが太鼓判押しちまう。
……おや。バレーに興味があったのかい?
少し前の話
>>117>>
[ぽーちゃん、と紹介された羊に老婆は軽く頭を下げて見せ、
それから次いだ好奇心をそのまま嵌め込んだような目に、んふふ、と笑った。
もったいぶったように背もたれに背を預け>>101話題の転換をさしはさみつつも
さてどういったように話してみようか と言うことが老婆の内心を占め
かつ、そのことが彼女の心を浮きだたせていたのは傍目にも明確なほどだった。
けれどその話も、彼女の>>103ちょっとした言い間違いの中に霧消してしまった。そうして田中老人は心躍らせていたことをするりと飲み込んでしまって、
今の話をに――主に、孝治がモテるだろうという話に――夢中になっていた。]
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