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朝
[切るような寒さの中、出勤してきた野木はコートから着替える最中、同僚の噂話を聞いた。
患者のことだったり、医師や看護師のことだったり。
聞くともなく耳にはいるそれは[人形師 ボタン]と――]
[それは立て続けに起こった不幸な出来事だった。
長期入院患者だった後藤の容態が悪化し、院内に慌しさが駆け抜けた。
その後、早朝から始まった黒枝の手術も――失敗に終わる。
己はそれらとは異なる急患の処置に追われ、一足先に仮眠室で睡眠薬に頼る眠りへ誘われていたところだった。
数年振りに、夢を見た。
それはとても、幸福な夢、だった―――…**]
ラウンジ
[話し相手の消えたラウンジで、彼女はそっと、周囲の話声に耳を傾けた。同じようなことが、違った声色で、宙を漂っていた。
彼女は不意に息苦しさを覚え、喉をさする。さまざまな言葉が蔓延するその場で酸素を失ったようにしながら彼女は人形を抱きすくめた。]
[その日、彼女は昔の夢を見た。]
[彼女の夫も、娘も、それから孫たちもいる夢だった。
彼女らは楽しげに海辺を歩いていた。
孫の手に合ったのは だった。
彼らはそれを美味しそうに食べていた。
それだけだった。
足元に寄せる波はきらきらと反射し、夢の情景に輝きを添えていた。]
朝 病室
[彼女は一人で起きて、寝台の上に座っていた。
先日の我儘など思い起こさせないような素振りで、礼儀正しく看護士に対し食事もきちんと、とった。]
……今日はァ、いい天気かねェ
[窓の向こうを見ながら、彼女はぽつりとつぶやいた]
[老人は年寄り特有の動作で重そうに体を起こした。
人形と、裁縫道具と、それから先日買い求めた菓子の詰まった袋を持ち、彼女は病室を後にする。]
午前 ラウンジ
[彼女はやはりそこにいた。
いつもの定位置で、膝の上には人形のスカートを広げて、自身の脇にはセルロイドの金髪人形を座らせて、そうして彼女はそこにいた。時折視線を持ち上げて、その場に入ってくる人間へと向ける。そして、しわくちゃの顔になんとも形容しがたい表情を浮かべてから視線を戻すのだ。
それ以外、彼女は自身の制作に手を付けるでもなく、窓の向こう、遠くに見える海原の欠片にじっと視線を向けていた**]
ゆめ
[○月×日、晴れ。
今日は、わたしと、おとうさんと、おかあさんと、おとうとのハルちゃんで、海に行きました。
海へ向かう列車の中、わたしとハルちゃんは一緒に歌をうたって、よく晴れた空には虹がかかっていて、窓の外には満開の桜並木が見えて、おとうさんもおかあさんも、楽しそうに「 」いました。
ああ、こんな日が、いつかまたやってきますように。]
朝・314号室
……寒いなあ…。
[このところ毎日のように繰り返しているその言葉を、今朝もまた、呟いた。
暖房がかかっていても、どこかひんやりした空気が感じられる。
最近はずいぶん調子が良いから、千夏乃は病室でじっとはしていない。昨日も、つい中庭に長居してしまって、帰るころにはせすじがぞくぞくして、くしゃみが出た。
いま体調を悪くしてしまったら、お正月の外泊が出来なくなってしまう。それはとんでもないことだ、と考えて、今日は部屋の中か、せいぜい三階で過ごすことにした。]
『チカノちゃん、朝ごはんですよう』
[新米看護師の"おねえさん"が、プラスチックのトレイを片手に、やって来た。]
おねえさんは、いつも元気だね。
[チカノが言うと、おねえさんは深くうなずき、力こぶをつくる真似をして]
『みんなの病気を吹き飛ばしちゃえるようにね、元気でいなきゃ。』
[その様子に、千夏乃は「おおー。」と言いながら拍手をして。]
『私も、頑張るから。
チカノちゃんも頑張って、早く病気治そうね』
[おねえさんは千夏乃のおでこに、自分の額をくっつけて、言った。泣いているみたいな声だな、と思ったが、千夏乃は何も言わないことにした。]
[千夏乃の家や学校では、めったにない悲しい出来事が、病院では時々起こる。
いや、本当は時々ではなく、ほとんど毎日のことなのだけれど。
千夏乃たちの目に悲しい出来事が映らないように、大人たちは努力している。それがわかるくらいには、千夏乃は大人に近づいていたし、きっと今日もそうなのだろう、と、思った。]
[夢に最初に現れたのは、父と母だった。
大学合格を心から喜んでいた父は、家族三人での食事会の途中で、薄らと涙を溜めていた。
『どうしたの?』と聞くと『酒のせいだ』と言っていた。
母もまた、そんな夫と息子を、目を赤くして見つめていた。
二人目は平家だった。桜の木の下、散りゆく桃色の花弁を纏うまま、凛とした立ち姿で煙草を楽しむ姿だった。
三人目は後藤だった。大人びた眼差しで珈琲に関する知識を話していた。
四人目は黒枝だった。明るい表情が一変し、哀しい眼差しでこちらを見ていた。
五人目は音羽だった。澄んだ声で歌を歌っていた。
六人目の顔が、誰なのかわからない。
線の細い、消え入りそうな声音でただひとこと、]
[薬の副作用に依る気怠さに引かれるように、その朝目覚めた。
とても幸福な夢の最後に、妙に現実に引き戻される夢、を見た気がした。
その後、支度を終えて医局へ向かい、後藤と黒枝の訃報を聞く。軽い眩暈を覚える。
また、何もできなかった、と――
死はゆっくりと、けれど確実に己の足許へ忍び寄っている。]
はは、ははは……、
[笑い声を上げても、笑みは歪みを増すばかりで。
ふと脳裏へ、夢に見た言葉が甦る。]
『笑うな』
[柏木が恐れていたものを、知りたかった。
否、知るべきだと思いながら、彼を思い出す事を意図的に伏していたのかもしれない。
それは何故か。]
――僕が、殺したも同然、……だからだ。
[ぽつりと呟き、5階へと向かった**]
ー夜ー
やだ、やだ
[頭の中で絶望の文字が駆け巡る。
どうすれば戻れる?いや、もしかしたら薄々分かっていたのでは?
終わりなき自問自答を繰り返して、その度に絶望に彩られていく。]
いや、だ
[戻れないなんて、嫌だ。**]
[五階に辿り付き、柏木の部屋にまだ絵は残されているのかと看護師に尋ねる。どうやらまだ遺族が遺品の引き取りに来ないらしく、施錠したままだという事だった。
柏木の絵を、もう一度観たかった。看護師に頼み込んで鍵を借りる。
主の居ないその部屋の扉を開くと、あの時と寸分変わらぬ絵の具の香が、鼻腔を擽った。]
[そして数々の絵も、以前訪れた時と変わらず室内に残されていた。
否、絵自体は以前と異なり、筆が足されていたようだった。
人のかたちが、消されている。
確か以前は、口角の上がった唇だけが其処に描かれていた気がした。
『笑うな』
ふと、夢の中に出てきた言葉が、過ぎる。]
……柏木さん、は…、これに、殺された……、
いや、……これを殺しに行った、のかもな……
[漠然と、そう感じる。その真意は解らないし、不安定だった精神状態に皹を入れてしまったのは自分かもしれない、という気持ちが消えた訳ではなかったけれど。]
[部屋中に貼られた絵のひとつひとつを見つめる。
処分せず逝ったということは、誰かに観て欲しかったのだろう、とも思った。
絵以外の日用品は余り無かったから、サイドテーブルに残されたハンカチと、その上の腕時計だけがやけに目について]
―――…っ、……なんで、ここ、に……、
[その腕時計は、間違いなく父の遺品――自分が屋上から投げ捨てたものだ。
割れた硝子板や文字板を、細かく修復し、破片の抜けた部分に色が足されていた。
こんな直し方が出来るのは、絵を描く人物、だろう。
横に添えられたメモを摘み上げる。
『――「誰か」に渡して下さい――』
持ち主が解らず、柏木が修理したという事か。
柏木が中庭へひとり向かい、拾ったとは考え難かった。]
[修復された腕時計を壊れぬよう、けれど強く、握り締める。
時計はしっかりと、時を刻んでいる。
壊れたものは治らない、治せない……、
投げやりだった自分を、恥じた。]
――ありが、とう……、
[拾ってくれた、人に。
直してくれた、柏木に。
俯いたままの頬に、一筋の涙が伝い*零れた*]
―朝―
[気分は昨日よりも優れない。…正直、生きたいなんて思わない。]
もう、出来ないんだ
[そっかあ、と自嘲気味に呟いて。
もう、この部屋には用が無いな、と。
寄せ書き入りのバレーボールを持って、飛び出していた。]
[逃げるように走る。まだ誰にも気が付かれていない筈だ。
走って、走って。]
中庭…中庭に…!
[おばあちゃんから聞いた、中庭を目指してひたすら、走る。]
[それから、幾何の時が過ぎたのか老婆には判らなかった。
ただ、確かなのは、孫のように思い、接していた彼女はここには来ないらしい――ということだった。
老人は窓の向こうの景色を見、思い返す]
少し前 ラウンジ
「田中さん、ご飯食べました?
行かなきゃだめですよ。」
……さっき食べたよう。だからもう、食べたかァないんです。
あたしァ、ここに居たいンです。
待ってるって言っちまったからにァ
あの子ァね、検査だって言ってたんですよぅ
なんだかね――気のせいならいンですけども、
怖そうに見えたからね、そんなら、
……あたしには出来ることなんてないですけども、
せめて、せめてェ待つぐらいはァ、つって……
「でも、田中さん、
きっとね、検査はご家族の方がついてらっしゃいますよ。」
――――……
「ね、そんなに不安がってたならきっと、
ご家族の方を呼んで、きっともう、心配なく検査受けてますよ。
だから田中さんは、その子が戻ってきたときに元気に迎えてあげましょう。」
[押し黙る老婆の隣に座り、根気強く言葉をかけていた看護士は、老婆が微かに頷いたらしきを目に入れて満足そうに頷いて去っていった。]
現在 ラウンジ
[老婆の手の中で、黒い天鵞絨の洋服が揺れた。
常に似合わず、力強く握りしめ、黒い布地に折り目が入る。数滴、滴が零れ落ち、布を湿らせた。]
あたしァ、――……
そうだよう、家族じゃないよォ
…………知ってたもん。
……――知ってるもん。
[聞く者のいない独り言が人形の平面の瞳に落ちていく。
老婆はふと、頭に手を添えて体制を崩した。ほんの数十秒のことだった。]
[身を起し、彼女は頭をふるった。
皺だらけの顔面に二つある、黒い眼をゆっくりと開けて、周囲を見渡す。おどおどしく辺りを窺うと、彼女は立ち上がった。]
……、……。
[胸元の衣服を握りしめ、彼女は椅子に縋るようにしつつ立ち上がった。金髪の人形が彼女の膝から滑り落ちる。
周囲を探る眼差しはそのままに、そして、人形を見ることもなく、彼女は歩み、それから小走りに去った]
[メモと腕時計を白衣のポケットへそっとしまい、涙が乾く頃部屋を後にした。
塞いでいる暇なんて、なかった筈だ。
5階の廊下。奥手には無菌室が存在する。
先日、”バレーボールが出来なくなるかも”と告げた後、表情を失った少女の事を思い出した。
彼女がそこまで部活動に心血を注いでいたとは露知らず、出来なくなった後も別の趣味を見つけてくれれば、という独りよがりな思考を露呈し、そのままになっていた。
あの子は、どうしているだろう。
思い立ち、無菌室へ足を運んだ。]
[ノートだけ広げて、ベッドの上で、ぼんやりと過ごす。こんな日も、悪くない。
千夏乃のノートは全科目共用だ。
あるページには数式が並んだかと思うと、次のページには詩が、その次は植物のスケッチ、といった具合に、思いついたことを思いついた時にやるものだから、いつの間にかひどく賑やかなページが出来上がっていた。
ベッドの上だと、談話室のテーブルでやるよりも眠たくなってしまう。ほとんど条件反射だ。外はゆるやかに高度を下げていく太陽が、遠慮がちに光を投げかけていた。
フリーハンドで比例のグラフを描きながら、千夏乃はまた少し、*うとうと*。]
1F 廊下
[彼女は上着もはおらず、手にもの持たず、歩いた。
建物内をうろりと歩き回り、何かを必死に探すような眼差しで周囲を見渡す。
そこにちらりとでも、無菌室にいるべき姿を見つけたら、
もしくは中庭に向かう姿を見つけたら、動きは止まったことだろう。
けれど今の彼女に何か建設的なことが言えたのかは別の話だ。]
建物外
[ようやく、目当ての場所が見つかった彼女はそこから建物外へ出た。
老婆の日課であった散歩を知っているものならば、
病院の敷地内を歩む彼女を止めることはなかった。
老婆は、時折、意図の不明な駄々をこねたが
おおむね大人しかった。
老婆の我儘が増えたのはここ数日のことだった。]
寒い……。
……、……おうち、帰らないとォ
無菌室
[病室の外側に付けられた小窓から、無菌室の中をそっと覗く。
鎌田の姿はそこには無く、扉を開いて中へと一歩、踏み出した。
室内へ視線を巡らせると、先日置いてあった筈のバレーボールが、無い。
考え過ぎだろうか……、過ぎる嫌な予感が、あった。
丁度5階だったからかもしれない。
咄嗟に思い至ったのは屋上だった。
外に出たとすれば、一望し捜索も叶う場所でもある。
看護師に声を掛けるでもなく、屋上へと足早に向かった**]
[何処を通ってきたか分からないけど、中庭についた。
看護師が追ってきてるかもしれないけどそんな事はどうでもいい。
持ってきたバレーボールを見て苦笑する。
『がんばれ!』だとか、『負けるな!』だとか。
ごめんね。私は、未来に絶望してしまいました。]
ゆうぐれ・314号室
「くしゅん。」
[くしゃみと同時に、目が覚めた。
外はゆうぐれ。沈んでいく太陽が、空にわずかばかりのオレンジ色を残している。
ベッドから降りて、厚いカーテンに触れたとき。
ふと、言いようのないさびしさを覚えた。
まるで、世界に自分だけが取り残されているような。
おかしな話だ。
父や弟と会って話したのは、つい昨日のことだというのに。
家族だけではない。看護師や、医師や、ほかの入院患者たちとだって、たくさん話をしたではないか。]
[遠くで何か、いきものの鳴く声がした。
鳥か、けものか、なんだかよくわからないけれど、悲しげな声。]
――っ、
[千夏乃はとっさに、カーテンを強く引いて夕闇に飲まれていく景色を視界から閉ざした。
「さみしい。」
「こわい。」
そんな言葉が、頭をよぎる。
その場から駆け出してしまいたくなるような気持ちをこらえ、カーテンに背を向けてぎゅっと拳を握り締めた。
そうして、千夏乃はしばらくの間青い顔で*うつむいていた*。]
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