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――現在――
ウルフ。ウルフか。わかった。思い出したよ。
そういえばそんな名前だったっけね。
[口から出まかせ数撃ちゃ当たる、なわけもないが、欠片も思い出せてなどいない男の名前をさもはっきりと記憶にあるかのように頷く。
薄めに薄められた水割りはまともな味すらなくなっているが、それで構わなかった。あまり味の違いなどわからない。
けれど煙を飲むとは言い得て妙かもしれない。苦みか、渋み。味がするとも言い切れない、鼻から抜けるだけの、とらえどころのない味わいが喉を落ちていく。]
うん、美味い。非生誕祝いにうってつけだ。
[それは、茶会は嫌いだといった男へ傾けるためのグラス。]
[小さく軋む音を立てドアが開いた。
野暮ったいコートを着込んだ人物はするりと店内に入り、背中で押し当てるようにドアを閉める。
さっと客たちの顔を確認して、それが数刻前まで眺めていたものとは違う事を認めると、まっすぐに奥へと歩いていく。
二人掛けの席の一つに重そうな鞄を載せ、がさごそとテーブルに物を置く。それから上着を壁際にあるコートハンガーに掛けていれば、いつの間に来たのだろう、いつも通りの酒が灰皿が供されていた]
……参るなぁ。
[頼もうと思っていたものが何も言わずに出てきていることに対して、苦笑しか出ない。
それだけ自分が通い詰めているということだろうか。
日中の煩雑な人間関係から逃げたくて、此処ではいつも他を拒絶するように一人で本を読んでいたが、その在り方さえこうして築かれるものがあるのかと気付かされてしまう]
[本当に独りでいたいなら家の中にでも籠ればいい。しかし一人でいることを許容しつつ独りにしないこの店に、どこか苦く、どこか暖かく感じた]
[染み付いたような脂のにおい。
目の前の水割りと似て非なるそれに、くんと鼻をひくつかせる。
頁を捲る音が聞こえはじめたら、盃を交わしに行こうとはしない。]
ねえ、甘いもん欲しい。
砂糖ないの、砂糖。
[呆れるような溜め息をお供に、白砂糖がカウンターに。
定位置はそこだろうと、暗に示す。]
ああ、
……まあ、構いはしないさ。
何でもない日に、杯を捧げよう。
[薄い酒に甘い酒を寄せる。グラスが合わさり、氷が揺れる、涼やかな音が一つ*響いた*]
話わかる。
そういうのって大事だと思うな。
[ちん、とグラス同士の合わさる音。
カウンターに無理やり手を伸ばして砂糖が小山に盛られた皿を取れば、祝い酒のアテも充分だ。
舐めて湿した指に、白砂糖。口元に運んで、しゃりしゃりと食感を楽しんでいる**]
…じゃねえっての。
まあ、なんでもいいけどよ。
[ひとつ増えた名前も、その端から忘れた。
その日暮らしの彼にとっては、名前などそう重要なものではない。]
なんでもない日万歳、ってか。
[昔見た映画の一節だった気がする。が、それが何だったかは思い出せない。]
[ふと、ポケットの中でセルフォンが震えたような気が、した。
取り出してみたが画面には何の通知もなく、むしろ電波が届かないことを示すアイコンが小さく表示されていた。]
…マスター。この店いつから圏外になったんだ?
[記憶が正しければ、たしか先週、ここで女を口説いている最中に他の女から電話があって――]
『ずっとですよ』
[と、マスターは微笑んだ。]
ん、あれ
じゃあ、あれ夢か。だいぶ酔ってんのかな、俺
[女子供並みのアルコールの弱さを暴露しながら、カウコ―ここでは、たぶんウルフだ―は頭を掻いた。]
[ばさり。
褐色の翼はご機嫌に羽ばたいて旋回した。向かいの店の軒先に舞い降りて、重そうな扉をジイ、と見つめる。]
人を殺してみたいと思ったこと…一度や二度は、あるだろう。家族を、恋人を、友人を、その手にかけてみたい、と。
――え?そんなことはできない、だって?はは、君はいいやつだ。
それなら、見ず知らずの誰か なら?
素直になりなよ。
人は誰だって、奥底にそういう願望を秘めているものなんだ。私はそれを解き放つのを、ちょっと後押しするだけさ。
じゃ、ないの。
さっきそうだって言ったのに。変な人。
[おそらくお前に言われたくないランキング第一位だと思われるが、天高く己放り上げる棚。]
なんでもない日なんて、本当はないと思うんだけどね。
ウルフの誕生日はいつ?
[セルフォンを見たり頭を掻いていたりするウルフに、白砂糖のお裾分けを差し出しながら問う。]
[どこかで羽音みたいなものを聞いた気がした。
軽くぐるりと周りを見たけれど、飛ぶようなものはない。
ならば外だろうが、生憎窓際は女の定席だ。]
鴉かな。
いいよね、黒くて。
[羽音が聞こえるような大きめの鳥を鴉くらいしか知らないとも言う。]
誕生日?
忘れちまったなあ、そんなもん。
[小さく欠伸をしながら、答えた。祝ってもらった記憶はないし、自分の誕生日など知らなくても生きていくには困らない。]
…甘
[渡された白い顆粒を舐めて、顔をしかめた。]
誰だっけなあ。
『お砂糖と卵は人の心を優しくする』
なんてゆったの。フロイドか?
[砂糖の小皿をぼんやりと眺めながら、カウンタにべたりと頬をつけて、眠そうにゆっくりと瞬く。]
烏ゥ?
俺は嫌いだ、奴ら俺を馬鹿にしやがる
[突っ伏したままグラスを掲げ、*マスター、もう一杯*]
ふうん。
[忘れた、という言葉。別段興味はないとばかり受け流す。
話題がほしいだけだ。口を動かしているのは楽しい。]
甘いものは嫌い?
[そうでなくても砂糖をそのまま口にする人間はそういないかもしれないが。
美味しいのにな、とまた舐める。]
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