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朝
随分、寒くなりましたねぇ…
[連続勤務何日目か、考えないようにして、今日も野木は受付に入る。内線の電波が医者同士の連絡を拾った。
[内科医 ユウキ]と――]
[少しずつ人が減っていく。
けれど同じだけ、人が増えていく。
逝った老婆の想いは、死に向かう誰かの救いになるだろうか。
少しずつ力を失っていった少女の想いは、いつか――そう、彼女にとってはすぐかもしれない――確実に叶えられる]
朝
[師走の百貨店は朝から忙しい。
開店まであと15分、沢渡は大急ぎで納品された品物をチェックしていた。
入院中の娘のために、可能な限り勤務時間を調整してもらってはいたが、ここ数日突発的に部署内で流行しはじめた感染性の胃腸炎のため、売り場は他の部署からの応援でも足りないほど、火のついたような忙しさになっていた。
一昨日は急遽夫が休みを取って面会に行くことができたが、ここ二日はそれもかなわなかった。幸い、休んでいた従業員の一人は明日から出社できるということだったので、病み上がりに申し訳ない、とは思ったが、入れ替わりで一日休みを取らせてもらうことになっていた。
娘はしっかり者だが、あれで意外と寂しがりやなのだ。
入院が長引いて不安がっている。できる限り、一緒にいてやりたかった。]
『沢渡さん、外線ですってー。4番お願いしまあす』
[キャッシャーで作業をしていた同僚から声がかかった。沢渡は手を止めてはあい、と返事をし、納品書のバインダをダンボールの上に置く。
レジカウンタの中にある年季の入った電話機は、保留を示す赤いランプが点滅している。こんな時間に一体なんだろう、息子の通う幼稚園からだろうか、それとも…一瞬よぎった不安を振り払うように、一度小さくかぶりを振ってから受話器を取り、保留を解除した。]
はい、沢渡でございま、
[言い終わらないうちに、電話の向こうの相手は、早口で話し始めた。沢渡は一瞬きょとんとした顔をしたが、やがてみるみる青ざめて]
――そん、な
[思わず、ふらりとカウンタにもたれかかる。力の抜けた掌から、がらんと大きな音を立てて、受話器が床に*落ちた*。]
早朝:海辺
[声は、届くことはなかった。
或いは、届いたところで何かが変わるわけでは無かった。
鎌田に続いて行方不明になっていた田中の死亡が朝、確認される。
或いは、もう一人…、確定は出来ずとも、命の灯火が吹き消されようとする患者があった。
ぐらりと、足許が揺れる。よろけながら砂浜を、歩んでいく。
誰も、救えない。
誰も、治せない。
誰かを、追い詰めるだけの、存在。]
僕の、……せいじゃない……、
[責任転嫁思考、だった。
尤も、自分ひとりの力の所為で救えなかったのだと自惚れる程の能力もなかった。
けれど、柏木と鎌田を追い詰めたという自覚は存在していた。]
……助けたかった ?
……違う、……死んでほしくなかった、だけだ。
[何故?
『怖いから』だ。]
[『死』が怖い。
あたたかな血が通い、そこに存在する『生』が、ただの無機物になってしまうのが怖かった。
『壊れたものを治せなくなる』ことが、怖かった。
永遠の孤独を迎えるものを、見るのが、怖かった。]
[自分は、医者になるべき人間ではなかったのだ。]
―――…医者? はは、死神だろう、僕は。
[波音が、呟きを掻き消していく。]
[ふらふらと酩酊するかのような足取りで、波打ち際へと近づいた。
ふと前方を見つめると海の中で、白いものが浮いていた。衣服が濡れる事も気に留めずそれへと近づき、手を差し伸べる。]
……、あ、……、
[それは、田中がいつも抱いていた人形だった。
岩場に打ち付けられたのか頬は傷だらけで、服は砂と泥で重みを増していた。金色の髪に絡まる藻を、指先で取り除いていく。]
チョコ、食べたんですか……?
[田中に問いかけるように、そっと呟いた。
潤んだ目尻を落とし、眩しそうに人形を見つめる。]
今、治してあげますからね……、
[人の病気を治せず、心を病ませるだけの死神。
人形ならば、治せそうな気がして。
人形を手にしたまま、院内へと戻っていった]
[そこからは、ほとんど機械的な作業だった。
マネージャに報告し、早退させてほしいと伝え、夫の職場と息子の幼稚園にも連絡を入れた。近くに住む義理の姉にも連絡を取り、息子は暫く預かってもらえることになった。
それから、制服のままコートだけを羽織り、とるものもとりあえずタクシーに飛び乗る。
病院の名を正しく伝えたかどうかは、覚えていない。途中、運転手が何度も道順を確認してきた。それでもどうにか、病院までたどり着いた。
病院の入り口で、白衣の若い医師と、追い越しざまにぶつかりそうになり]
あ…
す、すみません、大丈夫ですか、申し訳ありません
[転んだわけではないし、多分、大丈夫だろう。
深く一礼して、しかしすぐさま背を向けて、沢渡は駆けていった。]
当直室
[ほんの少し砂浜を歩いただけだと言うのに、息切れしていた。
動悸が酷い。けれど今は、手の中の人形を綺麗に直すことで頭がいっぱいだった。
だから、入口でぶつかった女性の焦燥の理由にまだ、気づけていなかった。
人気のない当直室に戻り、給湯室で人形を洗い清める。
顔の汚れを丁寧に拭うと、セルロイドの肌が綺麗に甦った。
服を乾かし、化学繊維でできた髪を整えると、田中が抱いていた時と変わらぬ輝きが、戻ったような気がした。
田中が、逢えぬ孫と同じくらい大切にしていた人形。
肌地に描かれたその瞳を暫し見つめ、軽く瞼を伏せる。
僕が持っていてはいけない――
自分が持っていたら、人形を、田中の希望を穢してしまうような気が、していた。
誰に委ねるべきか。思案しながら、病棟へと向かった]
[朝、病室を訪れた看護師が千夏乃の様子がおかしいことに気がついた。毛布の中で小さく縮こまって、ぐったりと動かない。その身体は異様に冷たくなっていた。
両親だけが知らされていたことだが、千夏乃の身体はもう、仮に手術をして成功も成人を迎えられる可能性は低い、というところまで来ていた。しかも、手術をすることで、彼女は今までの『千夏乃』でなくなってしまう可能性も、あった。
急に態度を変えては勘の鋭い娘のことだ、何かがおかしい、と気づいてしまうだろう。十四歳の子供に知らせるには、あまりに残酷な話だ。だから、両親は極力普段どおりに接していた。
悩んだ末、両親は千夏乃に手術を受けさせることにした。今は状態を見ながら、いつ行うかの最終調整の段階だった。
そんな折の急変だった。]
314号室
千夏乃。聞こえる?
ねえ、お願い。目を覚まして。
[原因は不明。ここ数日は本人の体調不良の訴えもなく、事実各種検査の数値も非常に安定していたはずだった。
ひょっとしたら、このまま快方に向かってくれるなんてことはないだろうか。三日前、面会に行ってきた夫と、そんな話もしていた。
いくつかの機材が運び込まれ、娘の身体に繋がれていく。母はそれを祈る思いで*見つめていた*。]
[あてもなく、人形を託すべき人間を探す為にエレベーターではなく階段を使用した。
動悸がやけに酷い。落ち着ける為、幾度か手摺に捕まり呼吸を正す。
その間、廊下の奥手から看護師の会話が聞こえて来た。
『小児科の、チカちゃん』
『そう、元気だったようだけれど、昨夜急に……』
三つ編みの似合う少女の顔を思い描く。
今まさに、生死を彷徨っているところだと、鼓膜へ伝う。
人形を手にしたまま、背筋を伸ばした。
田中と沢渡に接点があったのかは解らなかった。けれど、彼女ならばきっと、田中がそうしていたようにこの人形を大切にしてくれるだろうと、咄嗟に感じた]
[314号室には医師や看護師が集まっていた。医療機器を運ぶ技師達の不思議そうな視線をよそに、母親らしき人物へと近づく。先程、擦れ違った人物だった。]
沢渡、さん……
[寝台に横たわる沢渡の頬には血の気が感じられず、まるで精巧な人形のようにも思えた。
胸の奥に、ちり、と痛みが走る。]
沢渡千夏乃さんの、お母さんですか…?
もし、良かったら……、この人形を、……彼女に託しても、良いでしょうか…、
[努めて平静を装うも、息切れて掠れた声音で女性にそう*告げた*]
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