情報 プロローグ 1日目 2日目 3日目 4日目 5日目 エピローグ 終了
女神に、……なった?
[結城が零した言葉に、僅かに首を傾けるようにして、疑問符の形の復唱を零した。単に絵や彼女の人となりについての感想とは、何処か違う色を感じて。
彼女に何かあったのだろうか。何か――思案し想像したが、それを口に出す事はしなかった]
そうですね。
そう。とても、色取り取りに……
見えます。
そして、…… いえ。見えます。
[代わりに続く問いかけに答える。そして。そう言った時には、視線はキャンバスの中央、シルエットの人間に向いたようだったか。続け様、周囲に点在するイーゼルを、壁の紙達を、見やり]
[ふと結城が口にした、前日の話に続く言葉に、男は其方へ顔を向けた。帽子をほんの僅かだけ上げ]
……
怖いものから、逃れる、方法。
それは、一体?
[先を促すように、問いかけた]
……、何も感じなければ。
灰色の世界で。
何にも執着する事なく。
[結城が紡ぐ言葉を復唱するように呟く。目の前の人物は、何を恐れているのか。その恐れは、己の恐れとどれ程重なるものなのかと、考えながら]
……そう出来たら。
そうですね。
それはきっと、救われるのでしょうね。
[何も感じないようになれたのなら。
執着を失えたのなら。
そうして、]
……
[一たび沈黙し、結城を一層見据える。立体視でもするかのように焦点を揺らし、それ以上に、意識を撓めていく。努めてそうすると、ふと、結城が色を――鮮やかなそれを失ったかのように、見えた。
周囲と共に灰色になったかのように、見えた。
そして、]
――っ、
[息を、呑んだ。
その面が歪み、笑う唇が、赤く染まったように、見えて。いつも描く人間のように。笑みが歪んだかのように、見えて]
ち、がう。
違うと、思っていたのに。違う?
違わない、んですか。
やっぱり、貴方だって、……
[男は、掠れた声で、唐突な、支離滅裂なような言葉を零した。がたり。背凭れの付いた椅子が揺れる。椅子から滑り落ちるように、男は床に尻をついた。傍らに椅子が倒れ、大きな音を立て]
……貴方だって、あいつらと同じで……
貴方だって、あいつらで。
やっぱり、皆、あいつらなのかもしれない。
皆、そうなのかもしれない。
[ぶつぶつと呟きながら、両手で帽子の唾を押さえ込むように掴み握る。背中を支える手を離そうとするように、身を捩り、片方しか動かない足で後退ろうとし]
……やめろ。
来るな。
俺を、見るな。
[震える声で零し、俯きながら顔を覆った。男は明らかに平常ではない、極度の興奮状態にあった]
[――「笑うな」
そう紡いだ言葉は――音にはならず]
[頬を叩かれれば、男は一たび動きを止め、眼前の姿を見据えるようにした。少しくずれ傾いたサングラスを、震える指先で押し上げ]
―― ……俺、は。
私は……
[ぽつり、ぽつり、呟いて]
……、
何、でも……何でも、ないんです。
何でもないから。気が付かなかったから。
私は、気が付いていませんから。
気が付かなければ。平穏なんです。
あいつらは思い込むのを看過するくらいはしてくれる。
[呟きながら少しく床を這い、ベッドに這い上がろうとした。結城がそれを助力しようとしたなら、再度拒みはしなかっただろう。
彼の事を恐れるような気配を残してはいながらも]
[ベッドの上に登り、男は改めて結城の方に顔を向けた。すみません、とも、有難う、とも、それらの言葉が頭を過ぎってはいても、口にする事までは出来ず]
…… 空が。
空が綺麗な日だったら……
今度こそ、大丈夫な気が、するんです。……
[代わりに、そう、二言三言の言葉を紡いだ。外に出ようとするのを、引き止めはせず]
[また。その響きを脳髄に巡らせながら、結城の背を見送った。それから男は夕食の時間が来るまでただベッドに座り続けていた。夕食は半分も食べずに終えられた。消灯より早く、男はシーツに潜り]
…… げ、ないと、……
[呟き、震えながら――
やがて、眠りへと落ちていった]
[朝が来て、大きな虹が出ても。常にカーテンを閉めた部屋からでは、それを目にする事はなく。ただ、朝食を運んだ看護師が話題に出したのを耳にした]
『今日は、いい天気ですよ』
[看護師は、そう言って*笑っていた*]
[朝食から少々の時が経って。男は徐にカーテンを開いた。男が自ずからこの部屋のカーテンを開くのは、初めてと言ってもいい程、珍しい事だった。その時には、虹はもう浮かんでいなかったが]
……
[青い、何処までも青く澄み渡った空に。
男はサングラスの下で目を細めた]
……?
[ふと聞こえたノックの音と声に、扉の方に顔を向けた]
どうぞ。
[そして室内へ誘う言葉をかけた。扉が開き、少女が姿を見せたなら、男は瞬いた。無論、その顔の動きは相手には見えないのだったが。
奈緒というその少女と、男は以前話した事があった。いつだったか、退院したと話に聞いていたが]
今日は。
[ともあれ、そう挨拶し]
[何かしら困った風の奈緒の様子に、どうかしたのかと訊ねようとした、が、それよりも彼女がそれを取り出す方が早かった。
それに反射した日光が、男の顔を照らす。男を見据えていたのなら、サングラスの下、切れ長な目が一瞬だけ窺えたかもしれない。
男はすぐに帽子の鍔をより深く下げ]
……
時計?
壊れたのかい。……
[改めてそれを、壊れた腕時計を見やった。ベッドの縁に腰掛けたまま、掌を伸ばし]
[落ちていた、と語る少女。その口振りから、時計が彼女自身の物ではないらしい事が知れた。ならば誰の物なのか、それを確認する事はなく]
……そうだね、……
[近付いてきた奈緒に、その手に持たれた時計を眺め]
完全には、無理だけど。
そこそこに、くらいなら。
[そうぽつりと返事をした。自信がある、という程の術は持たないが、この手の物を弄った事は何度かあった]
痛そう。
そうだね。痛いのかもしれない。
痛いのかな。……そうかもしれない。
[呟くように言いつつ、更に手を伸ばす。ハンカチごと腕時計を差し出されれば、す、とそれを受け取り]
……じゃあ。
そうだな、……
また、夕方にでも。来てくれたら。
いや。明日でも、いいけれどね。
ちゃんと、置いておくから。
[考える気配を挟みつつ、そう続けた]
誰かは。
気にしているんじゃないかな。
[誰か、とは、落とした人物を指して。
受け取った時計を改めて見る。問いかけられれば、顔を上げて其方に向け]
いや。見ていないよ。
出た、と。
話には、聞いたけど…… 見ては、いない。
[窓の外の青を一瞥しつつ、首を振り]
虹。
虹は、綺麗だね。不安になるくらい綺麗だ。
私も、長い間見ていないよ。
[一片は独り言のように言ってから、続く言葉に頷き]
うん。じゃあ。
さようなら。
[また、と言う代わりにそう挨拶を返し――
小さく手を振って、奈緒が去っていくのを見送った。
その姿が見えなくなれば、時計を*見据え*]
[割れた文字盤、其処に生じた皹に、表面が剥げた部分に、細筆でそっと色を乗せていく。そうして乾かせば、瑕疵はほとんど目立たなくなった。
それからピンセットと接着剤とで、一つ一つ、砕けた硝子の欠片を嵌め合わせていく。パズルを解くかのように、少しずつ。
硝子は色で補うというわけにはいかず、そもそも失われてしまっていた欠片もあり、小さな穴や皹がはっきりと残る事になったが、ともあれ形にはなった]
……
[作業を終えた頃には、昼下がりになっていた。おやつどき程の時間だったが、特別菓子などを食べたい気分ではなく。男はキャンバスに向かった]
[男はキャンバスに色を乗せていった。
幾つも幾つも、いつものように極彩色に。
これもいつものように、目のない笑った人間を、白の絵の具で中央に描き――]
[――黒色で、塗り潰した]
[人型の内を埋めるわけでもなく。筆記具でそのの書き損じを葬るように、ぐしゃぐしゃと]
…… もう、 好きにはさせない。
消して、……
消えて、やる。
[その残骸たる黒を睨み付けるように見据え、呟いた。筆を水入れに付け、そのまま手を離す。筆は一度僅かに沈んでから其処に浮いた。筆先から滲み出す黒が、水の色彩を呑み込んでいき]
[そのキャンバスとイーゼルを中央に配置してから、男は窓際に寄った。珍しくカーテンを開き放していた、その窓をがらりといっぱいに開く。
吹き込んできたそよ風が、壁に貼られた絵の端をひらひらと揺らした。
それから、男は修理した時計を手に取った。ベッドのサイドテーブルに丁寧に畳んだハンカチと並べてそれを置き、一枚のメモを書いて脇に添えた]
[そのメモには、
――「誰か」に渡して下さい――
そう一文だけが書かれていて]
[その後、男は部屋を後にした]
[かつり。ぺたり。
松葉杖を伴う足音を響かせながら、男は廊下を歩いていった。そして、廊下の端、周囲に部屋もない行き止まりで、人通りの少ない場所で足を止め]
……、
[窓際に立ち、硝子の向こうに広がる空を、橙が混じりつつある、鮮やかな、綺麗な空を、*眺めた*]
[己が見えるところまで来た結城の存在に、すぐに気が付く事はなく。僅かにふら付きながらも、男は松葉杖を持った片手で窓を開け放った。夕方の冷えた風が吹き込み、帽子から漏れた髪を揺らす]
……
[落ちるような青。焼けるような橙。散りばめられた白。重なって浮かぶのは、淡い緑に、銀混じりの紫に。奈落のような、暗い藍に]
……、
[あの時とは違う、と思った。
此処に入院する要因が作られた、時。
あの日は、空は暗く曇っていた。
冷たい雨が降っていた]
[男は高所からの落下事故により此処に入院する事になった。そうして生じた複雑骨折は片足を失わせるまでのものだったが、それ以外に重大な怪我はなかった。落下した箇所が自転車置き場のテントの上だったのが良かったのだという話だった。
落下事故。割合と知られた画家である男の不幸は、けして大きな扱われ方ではなかったが、メディアにも取り上げられた]
[事故。
それは、本当は事故などではなかった。
男は、その日――自殺を試みた、のだった]
[男は幼い頃から絵を描く事が好きだった。本来色のない物に色を、あるいは物に本来とは違った色を見る――共感覚と呼ばれる能力の一種を、男は生まれながらにして具えていた。男の瞳に移る世界はとても鮮やかで綺麗で素晴らしかった。だが周囲の人間に幾らそれを伝えようとしても、同じ感覚を持たない者達には、正しくは伝わってくれなかった。故に、その世界を、出来る限り伝えたいと、男は絵に熱を注ぎ出したのだった。
そして二十代の始め、前衛寄りの風景画家として世に出た。その色彩感覚は。鮮やか過ぎる程の色彩と対照的な精密な描写は、それが合わさった独特の画風は、相応の評価を受けた。
一部には、過去の天才達の再来だとまで、言われた。男は、満足していた。誉めそやされる事ではなく、己の世界が伝わった事に。
評価する人々はその世界に魅せられてくれたのだと。信じていた]
[――柏木さん。
そう呼ぶ声が聞こえて、男ははっと其方を見た。其処には、目がない笑った人間が――否。結城、が、立っていた]
…… 結城、先生。
[散歩に、という誘いには答えず、ただその名前を口にした。結城は、笑っていた。笑っているように、男には見えた。それも、嘲笑うそれを、浮かべているように。
――全ては、妄想だった]
[世に出てから数年経って、男はより人気を得た。それから更に数年経って、男は、――落ちた。
何も描けなくなったというわけではない。絵自体が変わったわけでもない。人気が全てなくなったわけでもない。だが、少なからず、評されるようになった。画家「レン」は、終わったと。所詮インパクトだけに過ぎないような、流行のような、天才もどき、凡庸な創作者に過ぎなかったのだと]
[男は、思った。
何故なのか、と。
自分は名誉など欲しいわけではないのに。自分に才能があるとすら思っていないのに。自分は、ただ、この素晴らしい世界を、他の人にもわかって欲しかった、見て欲しかった、だけなのに。
その想いは果たされたと、思っていたのに]
[そうして、男は病んでいった。男の描く絵は、段々と暗い物になっていった。
男は少しずつ思うようになった。周囲の人間は、自分の世界を本当に見ても、素晴らしいなどとは思わないのではないか。綺麗だ、などとは。もしかしたら、鮮やかだ、とすらも。だから彼らは自分をくだらないとわらう]
[笑う。わらう。わらう、……]
[皆、笑っている。
皆、自分を笑っている。
皆、自分の世界を、笑っている]
[男は、そう考えるようになった]
[男は、妄想に、狂気に、取り憑かれた。その頃から、男の描く絵は変わった。男はサングラスと帽子とマフラーを欠かさないようになった。
笑う目を見ないように。笑うあいつらは色に閉じ込めて。笑わない、恐れる目を、見られないように。口を見られないように。笑わない、それすらも、笑われる、それを、避けるように]
[妄想を恐れ続け、
妄想に追われ続け、
男は、その日、己の住むマンションのベランダから、飛び降りた。あいつらが、消せないのなら。自分が、消えてしまえば。助かるのではないかと。もう苦しむ必要もないのではないかと]
[だが、それで男が死ぬ事はなかった]
[打った体、砕けた左足、それらの痛みは、感じもしなかった。雨に濡れながら、男は暗い空を仰いだ。刹那、唯一愛し続けていた色彩にすら、見放されたかのような気持ちになった]
[「また」など、「明日」など、訪れはしない。訪れてはならない。そう考えながらも声にはせず、男はユウキの姿を見送った]
[そして、窓枠に、両の手をかけた。ぐらつく体に、窓の縁に一旦肩を預ける。窓の外に広がる空を仰ぐ。先よりも橙を増した空は、綺麗だった。何処までも何処までも、綺麗だった]
[――ぐしゃり。
穏やかならざる音が響く]
[かつて落ちた時と違い、痛みを感じた。今度は失敗ではない故なのだろうと、考えた]
[地面に仰向けた男の右腕は左足と共にあらぬ方向に曲がっていた。落ちていた瓦礫の上にあたった左の脇腹は、その先端に抉られ貫かれていた。何より、男の頭は、割れていた]
[傍らに落ちた帽子の濃緑を、首に巻き付いたままのマフラーの薄緑を、地面を、鮮やかな赤が染めていく。広がった黒い髪、そのちらほらと混じった白い部分も、赤く染められ]
――……、
[サングラスはブリッジで二つに割れながら少し離れた場所に飛んだ。切れ長の、黒い瞳が、無彩な代わりに全ての色彩を歪みなく映し出す瞳が、空を、鮮やかな空を、虚ろに見据える。男は薄く唇を開き]
…… ああ。
綺麗、 だ。 ……
[ぽつりと、掠れた声で、満足げに、呟いて。やはり満足げに、男は笑った。
そして、男は目を閉じた。
最後に鮮やかな色を残して。最後に鮮やかな色を見て。色彩の夢に、*沈んでいった*]
情報 プロローグ 1日目 2日目 3日目 4日目 5日目 エピローグ 終了