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ああ。
もう夕焼けですね。
緑から、橙へ。クリーム色から、焦げ茶へ。
[変わりゆく空を、それにより共に移ろっていく周囲の様子を、一望して頷いた。冷たさを増した風に、カーディガンの開いた前を少し狭める。
途中、結城に教え示されて、上階を、其処にいる姿を見上げた。歌い手たる女。日々この病院に通う彼女の歌は、それだけによく耳にした。柔らかな色が重ねられた、良い歌声だと思っていた。
彼女に向け、男もひらりと手を振って]
有難う御座いました。
また。
[やがて病室まで送り届けられれば、去っていく結城に散歩の礼を言い、その姿を見送った。それから男は病室へと戻り――筆を取って、キャンバスに向かった]
優男みたいな、……
ちょっぴり爺さんの若かったころに似てる先生なら
きっと良いって言ってくれる はず
あらやだ
浮気じゃないってば
[一人と一体で今後の話をしながら、散らばってしまった布を集め、抱え直した。]
[救急車のけたたましいサイレンが聞こえてきたのは、男の耳に歌が届いたのとどちらが先だったか。
ああ、まただ。
"また"なんて言葉は本当にろくでもない。
そのうちきっと、息せききって駆け込んでくる人がいるのだろう。そうして記入された名前に男は二度三度、瞬くことになる。
「音羽」―――ああ、またか、と*]
[キャンバスに筆を走らせる]
[緑が駆ける。
赤が叫ぶ。
青が引き裂く]
[柔らかな色が、響く]
…… 、
[ふと。先程聞いたばかりの歌声が、また聞こえたような気がした。またその色が見えたような気がした。筆を浮かせ、男は暫し、閉ざされた窓を見つめていた]
こんにちはー
今度は中庭聞きに行きますね
[届いてなくてもいい。ただ笑顔でオトハに挨拶をした。その後の検査は、まああまり気持ちのいいものではないけれど、もう慣れっこだった。
病室に戻って、パジャマに着替えた。
入院着は嫌いだから、パジャマを数点持ち込んで、元気なうちは洗濯もしていた。今日は真っ青な地に白の水玉がとんでいるものだ]
さって、本でも…読もうかな
[枕元の電気をつけて行儀悪く寝転がった。夕飯前のざわめきも、心地いいBGMだ。ああ、誰か歌っている。ふ、と笑みを零すと眼鏡を外し枕に顔を埋めた。
入院初日にしては、上々だ。
あまりおいしくないご飯を食べて、二重丸くらいの一日をまたひとつ、やりすごした*]
病室
[割り当てられていたのは、個室ではなく4人部屋、その窓際の寝台が老人のスペースだった。
ゆっくりと身を沈め、セルロイドの古い人形を簡易棚に戻す。その場所には他にも人形が数体、鎮座していた。セルロイドではなく、手作り人形作家の手に掛かったにふさわしい風体をして、座り込んだままでいた。]
おや、まあ。
[窓の外は橙色が支配し始めていた。それももうじき、藍に変わる。
微かに見える、煌めく赤い海。日の光を反射して、木々の緑を染め上げ、病院の壁に色を投げる。]
もう こんな時間だったねェ
潮風が、――……
――――……?
あたしったら。
あんまり浮かれすぎてたみたいだねえ。
でもこれじゃあ、童謡歌おうの会を提案するしかないさね。
[ンン、と鼻歌のできそこないで主旋律を追うように短くハミング零し
そうして老婆は残りの日常を咀嚼していく。
日常に一風、潮の香ではなく歌を運ぶであろう微風を脳裏に描きながら*]
[やがて、その絵は完成した]
[中庭の印象を根本とした、極彩色が溢れる混沌。中央には、両手を空に捧げるように高く掲げた人間の姿が一つ。シルエットのそれには、目はなく、ただ笑った赤い口ばかりがあった。
シルエットは、青みに寄ったパステルカラーの彩りで描かれ浮かび上がっていた]
[その絵はイーゼルに置かれたまま、部屋の中央、尤も目立つ位置――男は一番新しい作品を此処に配置するのだった――動かされ。
高く高く、その手を掲げ*続けていた*]
朝:中庭
[老人の朝は早い。五時ごろには既に目が冴えていて、頃合と見たら朝食前に散歩に出かけてしまう。とはいっても、その散歩は病院の敷地外まで繰り出す類のものではなく、せいぜい中庭をぐるりと回るぐらいの、病人にふさわしいような散歩だった。
彼女が他の病人と違う点は一つ、その身はいつもセルロイドの人形と共にあった。今も、セルロイドの人形はウェーブの取れかかった金髪を申し訳程度風にそよがせて]
あんた、今度家に帰れたらそのパーマかけ直したげる
もう。あっという間に癖が取れちゃうんだから。
あたしの癖毛もあんたのを見習ってくれるといいんだけどねェ
[中庭のベンチに座り込み、
人形に話しかける行為は続く]
あたしゃ婆になっちまったから、もういいんだけどね。
ああ、そうそう。
今日は看護士さんでも先生でもお話して……
それから、お許しが出たら海に行きたいねェ――
子供誘って貝殻拾うのさァ、貝殻やら……わかめやら……
そんで拾ったらァ……また……、……
[途切れ途切れていく会話を拾う相手は、今はまだ、セルロイド**]
院内
[診察室に戻り、幾許かの書類作成を終えてから、検査室へ篭って数人の患者の検査立会いを行った。
長い期間当直医が続いていた。当直室に入ってすぐ、緊急搬送の一報を受けて救急救命室へと急いだ。
顔など、確認する猶予はなかった。『救わねば』その使命で頭は一杯だった。
ただ、看護師が繰り返す『音羽沙良さん、わかりますか、オトハさん』というその名に驚愕する。
患者は元歌手のオトハで、この病院からの帰りに事故に遭ったのだとの説明は、右から左へ流れていった。
先程、ほんの数時間前に見た、あの姿――]
――オトハさん、……頑張ってください、
……っ!
[聴覚が弱い事は知っていた。故に、頬を擦って触覚を与える。
救急医療は忙しなく続いていた。けれど、医療機器は無常な結果を音として伝うだけ。
彼女は遂に一度も、意識を取り戻すこと無く還らぬ人となった。]
――ご臨終、…です。
[形式的に瞳孔を確認し、死亡時刻を音と成す。
紡いだ響きは僅かばかり、震えを帯びていた。
全ての処置を終えて当直室に戻る刹那、あの澄んだ美しい歌声が鼓膜を掠める。
激しくかぶりを振り、聴き馴染んだ歌声から耳を塞いだ。
父の形見の腕時計を、それを付けた左手首を、必死な形相で握り締めて]
僕の、せいじゃない……、
壊れたら治せばいいだけじゃないか……、
ねえ、そうでしょう、父さん……
[壊れた時計を掴みながら、虚ろな瞳を泳がせた。
漂う死のかおりに、息が詰まりそうだった。]
[そのままぼうっとしていたところ、再び何となく歌が聞こえてきたような気がしてふと我に帰る]
…あれ。気のせいかな?
…確かに、あの声だったのだと思ったのだけど…
[取り敢えず、ずっと此処に居ても仕方ないかと思い、…は一旦自分の病室へ。]
303号室
[自分の病室へと戻ってきた。
前に入院した時はまだ相方となる人が居たから良かったのだけど。
今回はこの部屋には自分一人しかいない。]
話せる相手が居ないってだけでも、結構暇になっちまうな…
[自分と同年代で入院している様な人もこの病院にはそう多くは無い。
見舞いに行こうか、なんて考えが頭を過ぎるものの、自己満足になるだけだろうと思い直し、ベットに潜り込んだ]
朝:603号室の前
[仮眠は全く取れなかったけれど、朝は静かにやってくる。
朝食も録に喉を通りはしなかったけれど、ビタミン剤と栄養剤の注射を打った。
それから、父の形見の腕時計を一番近くの時計屋へ修理に出した。
古い舶来品故に部品が上手く噛み合わないかもしれないとの返答に眉根を寄せたが、夕刻までに結果が解るとの反応に、ほっと安堵の息をつく。
院に戻ると書類作成や引継ぎを終え、回診へ。
603号室の担当医は公休の為代理だ。
昨日、様子を見に来れなかった事もあり、自ら進んでこの部屋を訪れた。]
黒枝さーん、入るよー。
[思春期の少女の病室は、特に注意して扉を開くことにしている。
返答が無ければ最後にしようと、今はその手前で*佇んで*]
[冬のはじめ、午前6時。風は今日も強い。
ガタゴトと鳴る窓の外には低い雲が垂れ込め、海の色はわずかに深く。
カーテンの中、千夏乃は夢うつつでどこかから聞こえる歌を聞いていた。透き通った、どこか懐かしい歌声。あれは誰の声であったか。思い出せない。
不意にがたん、と一際大きく窓が鳴って、千夏乃の意識は急速に微睡みから引き戻される。
辺りは白、白、白。
ここはどこだっけ、と、一瞬*考えて*]
…そっか、わたし、入院したんだっけ。
朝
[眠りに落ちる刹那、ああ、オトハの声だ、と気づいた。病院で聞いたよりも、CDで聞いたよりも。ずっと美しい妙なる調べ―――]
ん、………ふぁああ
おあようございます…
[朝。大きな口をあけて看護師に挨拶をした。何度目でも、入院最初の朝は慣れない。家にいる時の生活リズムが抜けきらない。
熱を測って、血を調べて。今日の検査予定をぼんやりと聞いて。朝食までの空いた時間、ベッドに横になってうとうとしていた、が]
………ん?
結城せんせ…、ちょぉぉっと待って!!
[飛び上がるようにして靴を履き、ベッドを適当に誤魔化した。髪を撫で付けて、入室を促す。さっきは寝ぼけ眼で顔を洗ったから、後ろ髪がハネているが気づいていない]
3階・314号室→談話室へ
[なんだか喉がかわく。辺りはもう、冬の空気だ。
千夏乃はそっとベッドを抜けて、羊を抱えて忙しそうなナースステーションを横目に見ながら談話室へと向かう。見咎めた看護師には、お水飲むだけ、と答え。]
3階・談話室
[誰もいない談話室。誰かが消し忘れたのか、薄暗い部屋の中、テレビだけがチカチカ光っていた。
千夏乃は明かりを点けてマグカップに湯を注ぎ、いつもの窓際の席に座る。]
[ミュートされたテレビの音量を少し上げる。
流れていたのは全国チェーンのスーパーのコマーシャル。もうずっと前に亡くなった歌手の、オーボエの音色のような耳に残る歌声。
夢の中で聞いた歌を思い出そうとしてみたが、なんだか頭にもやがかかったようで、思い出せなかった。冬の朝の空気のような透明度だけが記憶に残っている。]
"ききたいな あなたのうたを"
"冷え切った心 あたためるミルク"
[口ずさむのは、母の大好きな歌の一節。
そうしながら、羊の縫いぐるみを抱きしめて、顔を*うずめた*。]
[午前の院内は人々の活気を肌で感じ取れる。
カルテを手にした左手の手首を一度軽く握り、603号室へノックと挨拶を送った。
聞こえてきた元気な少女の声、慌てふためいた様子は扉を開く前から目に浮かぶようで、沈んだ心に生気を与えてくれるようだった。]
もういいかな、入るよ。
[促され、静かに扉を開いて「おはよう」と微笑んだ。少女の顔色は悪くない、後ろ髪がはねているなんて、患者ならば常の事、寧ろかわいいアクセントに映った。
もしかすると少女は出迎えてくれたのだろうか。寝台近くに佇んでいるのなら、そっと肩へ触れて寝台を示し]
横になってて良いんだよ?
それとも、寝てるのももう、飽きたのかな?
―朝―
[気が付けば朝だ。外から歌が聞こえてきた気がした。
一人の部屋は寂しい。無菌室という場所だから、仕方がないのだけど。]
誰かお見舞いとか来てくれるといいんだけどなあ
[窓の外の海を見ながら、そう呟いた。5階の窓から見える景色はなかなか綺麗なのだけど。]
明るいうちに寝ちゃうと後が大変だもん
[肩に触れた手を、まだ目覚めきっていない瞳でぼんやりと見て呟き、慌てたように一歩後ろに下がった。
扉の前まで来ていたから、ベッドに足がぶつかることもなく]
あ、えぇと…
座ったほうがいい?
[軽く診察されるのか、と窺うように見上げた]
[回診が終われば、カーテンの開け放たれた窓の向こうを見やった。中庭は反対側。そこからの音は、きっとあまり届かない]
オトハ…さん、今日も来るかな?
[結城も確か好きだったはず。世間話のひとつみたいに軽く、口に出した]
そりゃごもっとも、だ。
昨日はどう、よく眠れたかな?
[そっと寝台へ導き、自分はその前へと立つ。
手許のファイルの内容を確認した。ざっと目で追うが、朝の検温等では別段変化は見受けられなかった、かもしれない。]
うん、そうだね。
どうかな、体調は。
[簡単な診察を行うだけなので、緊張しないように会話を続ける。
黒枝が寝台に腰を下ろせば、指先を頬へと滑らせ顎をほんの少し上向かせて喉奥を確認しようと。
心音や脈拍を測り終える頃、何気なく呟いた彼女のひとことに、ぴく、と動きが停止した]
―――…、……。
[無垢な瞳を、凝視する。
伝えるべきか、否かを計算していた。少なくともオトハに何かがあった事は、伝わってしまうか。]
なに …どうしたの、先生?
[とくん、と努めて平静を保っていた鼓動が大きく跳ねた気がした。嫌な予感がする。嫌な、空気が
穏やかだった朝の病室を一瞬にして塗り替えてしまった]
オトハさん、どうかしたの?
[視線を逸らすように伏せられた睫毛は僅かに震え、問いが終わると同時に持ち上げられ
偽りを許さない、というように結城の瞳をひたと見据える]
[追われている。あれらが、追ってくる。追ってくる。追ってくるそれらから、自分はひたすらに逃げる。逃げても、逃げても、距離は変わらず、それらは消えず]
……っ、……
…… あ、
[飛び起きた男の顔には、薄らと汗が滲んでいた。サイドテーブルのサングラスを取ってかけ、深呼吸をして、ようやく落ち着きを得る。
肩に届くか届かないか程度の白髪混じりの髪を指で梳き]
[身体が凍りついたように動かない。
残像が、フラッシュバックのように視界で跳ねた。
これまで目の当たりにしてきたいくつもの死が、その冷たさが背後から迫ってくるようで]
……オトハさんは、……
オトハさんは、亡くなったよ、昨日。
[無垢な瞳の前で、上手に嘘をつくなんて出来なかった。真実を告げる事で彼女を傷付けることになると、解ってはいたけれど。
責められているような錯覚を覚えてしまい、斜め下方へと緩く視線を落とした姿で、簡潔に告げる]
―――――…そ、っか
[なんで、とか。どうして、とか。
ぽつりぽつりと胸にはてなは浮かんできたけれど、結城の表情から予想していたことだったから。驚きはなかった。
昨日は元気だった。
けれど――死はいつだって突然だ。
そしてもう、終わったことなのだ]
……先生、ありがと
教えてくれて
[逸らされた視線に、薄く微笑む。パジャマのボタンを閉じて、ゆっくりと立ち上がった]
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