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――ああ、でも。
そんなサービスぁ、婆ちゃんじゃなくて
かっこいいお兄ちゃんにしてあげなきゃあね
[んふふ、と鼻にかかった笑い声をさせながら、指先に携えた針をふるって捲れたスカートを指す。覗いた縫い痕は年頃の少女が背負うには、その痛ましさが重いよう。]
[食器を下げに来た看護師に頼んで、カーテンは開けたままにしてもらった。冷たい風は窓を鳴らし、遠くに見える海は時折白波を立てる。]
…お母さん、今日はこれないんだって。
[羊の縫いぐるみを抱きしめて、千夏乃は独りごちた。]
[マフラーに覆われた口元は、サングラスに覆われた瞳と共に、その表情を遮り隠す。笑い声が零れる事もなく、男はただ惑った結城に顔を向けていて]
宜しくお願いします。
[それから、ナースセンターに行くその姿を見送った。彼が戻ってくるまでの間、男は黙って窓の外を眺めていた。結城が戻れば手に持った松葉杖を渡し、小柄な身を任せて、車椅子に腰を下ろし]
仕方ないよね。ヒャッカテンは、ハンボウキだもの。
[千夏乃の母親は、都心にある百貨店で働いていて、特にこの時期は大忙し。覚えている限り、クリスマスにも正月にも、母と共に過ごしたことはない。
ハンボウキ、というのはどんな字を書くんだっけ、と、しばし首を傾げる。残念ながら思い出せなかったが、ボウ、というのは忙しい、という字だったような、気がする。]
そのかわり、明後日にはお父さんが、ハルちゃんと一緒に来てくれる、って。
[千夏乃の家族は両親と、ハルカという名の、九つ年下の小さな弟。
父親も平日休日の区別のない美容関係の仕事をしているから、なかなか全員揃って過ごすことはできなかった。慣れているとはいえ、やはり少し寂しいと、千夏乃は思うのであった。
それでも、千夏乃が入院してからは両親が時々平日に休みを揃えて、家族で過ごす時間を作ってくれるようになった。それが、何よりの楽しみだった。]
そうだよ、一緒に長生きしよ!
[ほおづえをついて、にこり、と首を傾げて見せた。けれど、ぼたんにスカートを示されれば、顔をあげ慌てて裾をなでつけた]
や…やだな、おばあちゃん
サービスはおばあちゃんだからだよ…
[へへ、と眉を下げて笑い声をあげる。
立ち上がり、上着の裾も撫で付けながら]
新しい子、作ってるの?
つまんないな、今日は。
[ふわふわの毛の中に、顔をうずめる。
個室の並ぶ東病棟は、しんと静まり返っていて、時々、廊下を歩く見舞い客や看護師たちの足音が響くだけ。]
中庭
[思わず聞き返してしまった言葉への反応は無かったけれど、気に留める事も無く車椅子を借りに出た。
松葉杖を受け取り車椅子に彼を乗せると、ゆっくりと椅子を押しながら廊下の中央を進んでいく。
時折、顔見知りの患者や看護師に声を掛けられ幾許かの言葉を交わした。ありきたりな、挨拶程度に。
通用口から中庭へ、スロープを伝いそっと降りていけば、澄んだ空気と木々のせせらぎ、やわらかな陽光が迎えてくれる。
直接日光に触れるのは、負担が掛かるかもしれない。
木陰まで車椅子を押し、軽く身を屈めて柏木のサングラスを窺った。]
……疲れてませんか?柏木さん。
普段、余り外には出られてませんよね?
[慌てた仕草で居住まいを正す奈緒を、やはりくぐもったような声で笑った。笑うたび、声を発するたび、幾層もの皺の奥から揺れるような、表情はそんな綻び方をした。
孫に対するような口調は、実質、彼女自身がそう思っていたからに他ならない。]
ふふ、うふふ
奈緒ちゃんったら。
[誤魔化すような彼女を揶揄する声音で呟き、話題に合わせてセルロイドの人形を膝上に招く。問いかけには緩やかに首を振った。
関節の自由に動くことのない古びた人形は、るりんとした眼を奈緒にそっと向け]
この子は 一番のお姉さんさ。婆ちゃんみたいに年取った、ちいちゃな女の子さよ。
ずうっと昔から この子を持ってるからねえ。
新しいお召し物用意してあげなきゃ、そろそろ怒り出しそうなんだ。
あたしより後に生まれた子供の方が、ずっと可愛い服を着てる――ってぇ、
この子ったら 最近へそを曲げててねえ。まったく困っちまうよ。
[笑みの名残で震う声のまま、随分長くそばに置いてきた人形の髪を撫でつけた。]
んー…
[誤魔化しから出た真。ぼたんが抱える人形をじい、と見つめた]
そう、だね。女の子はいつでも可愛くいたいしね
[そうっと人形の頭へ手を伸ばす。ぼたんの手に触れないように、髪の先を撫でようと。
もし触れたならば
ぴく、と手が震えたのが、伝わってしまうかもしれない。
家族よりも屈託ない笑みを向ける相手でも、老いは、死は
身近ゆえに少女にとって恐ろしいものだった**]
[すれ違う人々には会釈や短い挨拶を向けながら、廊下を通り、中庭へと運ばれていく。肘掛けに乗せた手は、時折サングラスを押し上げ、マフラーの端を弄り。
目的地に着き、木陰まで来ると、緑と白の色と気配に満ちた周囲を仰ぎ見るように一望し]
……、いえ。
[結城に覗き込まれれば、ふと帽子の鍔を――元々深いそれを――引き下げるようにして]
大丈夫です。
あまり外に出ないのは、元からでしたし。
体力がないのも、元からですが。
……いい天気ですね。
[答えて後、頭上で揺れる葉と枝を見上げ]
(…歌…?)
[一二三は開いた窓から流れ込む歌声に耳を傾ける。誰のものかは分からない。でもどこか心に染みる、優しい歌声であった。]
(…良い…声じゃないか…ふふっ…)
[出歩くことが自由とはいえ、彼女に許された範囲は病院という檻の中のみであった。
直ぐに興味という興味は消費し尽くされてしまう。
変わりのない日々に、しかし緩やかに死に向かいつつある日々に、一二三はうんざりしていた。]
そうだ、お散歩、しようか。
[普段はあまり部屋から出ることもない千夏乃であったが、比較的体調の良い今日、縫いぐるみしか話し相手がいないのではやはり退屈だ。
ベッドから注意深く降りて、厚手のタイツを履き、黒いカーディガンの上から、母からお下がりにもらった茜色のオーバーを羽織った。少し大人っぽく見えるから、千夏乃はこのオーバーがお気に入りだった。
それから、羊を胸に抱いて、そっと病室の扉を開ける。]
見つかったら、おこられちゃうかな。
[口うるさい看護師たちには気づかれないようそっと足音を忍ばせて、千夏乃はエレベータ・ホールへと向かう。
その途中、中庭の方から歌が聞こえたような*気がした*。]
[何気ない所作だった。
背後から彼の顔を覗き込むように窺い見たのは、表情を、というよりも顔色を窺おうとした動作だったかも知れない。
けれど、それを拒絶するようにより目深く鍔を下げる柏木に気づき、自己の失態に気づく。]
ああ、すみません。つい、癖で……、
[眼元や頭部を隠している患者も少なくは無い。それは、病状により見せたくないという理由があるからだと悟っている。
しかも柏木は著名人だ。配慮が欠けていた事を、今更ながらに詫びて]
体力は食事やリハビリでも作れますけど、心の洗濯、っていうのかな……、そういうのって、屋外じゃないと出来ないような気も、するんですよね。
医者の言うセリフじゃ無いですけど、はは。
[視線を交える事無く、そう告げて頭を掻いた。]
[伸ばされた奈緒の手が化学繊維の髪に触れる。
人形の髪を上下に梳るように撫でていた指先が、水分を失い、針だこができ、
そして年月を蓄積してきた指先が、瑞々しい十代の女の子に触れた。]
[おや――。と、声に出さぬまま、皺に埋もれる眼が僅か大きくなった。
条件反射のような、怯えのような、触れるを厭うような若い震えを看過することはなかった。しかし、それを幾重にも刻まれた歳月の中に隠す術を――奈緒が厭うたものによって隠す方法を、老いたからこそ知っていた。]
……そうさねェ。
だから、婆ちゃんも可愛い女の子でいたいのさ。
だから
今度、外出できたら、
くれぇぷ を食べにいこうって、思ってるんだよ。
うふふ。 内緒だよ。
甘いものはやめときなさいって言われちまったからね。
[わざとらしく周囲を見渡す素振りを付け加え
老婆――田中ぼたんは、笑い声を漏らした。それは彼女が思っていた以上に、一音一音のはっきりした*笑声だった*]
いえ、気にしないで下さい。
いいんです。貴方は違いますから。
違う。多分。……、いいんです。
[結城が謝罪するのを聞けば、其方に顔を向ける事はなくも、代わりに緩く頭を横に振って。零した言葉は、半ば独りごちるよう]
心の、……
先生。
[続けられた話に、ふと一際はっきりと呼びかけ]
先生は、人の心は何色だと思いますか?
先生には、怖いものはありますか?
[そう、二つの問いを紡いだ。マフラーの端を摘み、その辺りに視線を落とすようにしながら]
……、……違う、……?
――なに、と……?
[「気にするな」という言葉よりも、「違いますから」という言葉への違和感に、表情を曇らせた。
「違う」という事は、何かと比較されたのだろうけれど、その比較対象が、わからない。
真意を知りたくて思わず腰を屈めた瞬間、今度ははっきりとした意志で紡がれる言葉に、引き寄せられる。]
人の心の、色……、怖い、もの。
[変化球のような問いだった。確かめるように紡ぐ響きは次第に、医師としての自分の声音とは異なり、素の低さが混じってしまっていたかも知れずに]
人のこころは無色透明だって、昔読んだなにかの本に書いてあった気が、しますね。
相対するこころの色を汲み取って、赤になったり、青になったり変化する、という。
怖いもの、は……、うーん、……ありますね。
[後者へは言葉を濁してしまうものの、努めて平静を保った声音にはなったか。かすかに俯いたまま]
[視界の端、お下げ髪の小児科患者の姿を見止めれば、軽く手を振り挨拶するだけの余裕はまだ、存在している。]
……人の心は。
極彩色なんだと、思います。
この世界のように。この世界の言葉のように。
[結城の返答を聞くと、一度頷いてからぽつりと零した。
男には、本来無色なる音も、匂いも、色付いたように感じられる。男には世界は酷く鮮やかに見えていた。今はサングラス越しであれ]
そうですか。……そうですね。
私も、怖いものはあります。
怖いものがあります。どうしようもなく。
それは此処まで来ても、逃げられていないんです。
[もう一つの返答には、両手を肘掛けに戻しながら。詳細を質す事はなく、言葉を重ねた]
このまま足がなくなっても、きっと変わらない。
足には何も関係がない事ですから。
[結城が現れた少女に挨拶をすれば、男もその気配に気付き、其方を向いて会釈をした]
今日は。
303号室
[孝治は窓をみつめていた。景色ではなく、窓を。
そして徐に視線を戻し、一人呟く]
…あと、何日だろうな。
[自分にとっては普通のことだと思っていた。
ただ、…はもう。
自分は駄目なのだろうな、となんとなく思っていた。]
ああ、確かに。
無色でぱっと色がつく、っていうよりも、元々どんな色も持っている、っていう解釈の方が、しっくりきます。
[「世界」「言語」、その喩えは心の奥にストンと降り、彼の言葉に酷く共感できた。と同時に、自分と柏木では、世界の見え方が異なるのかも知れない、とも感じていた。]
柏木さんは画家さんだから、……より美しく、感じ取れるのかもしれませんね。
[色彩感覚豊かな彼にもまた、怖いものが存在する。
追われているイメージを、何処と無く察した。
軽く伏した視線の奥に、柏木の足を映し出す。切断の予定がある事を院内で知らぬ医師は、居ないだろう。
足を失う事が怖いのだろうか、とも一瞬考えたけれど…物理的なもの、ではない、何かに柏木は追われているようだった。]
僕のも、……柏木さんと似たようなものですよ。
……内容を口にしたら、笑われそうですけれど。
どうしたら、……『それ』を、怖いと思わなくなれますかね…?
[彼と自分、全く異なるものに追われているのかもしれないけれど。
ぽつり、抑揚の無い音階で最後の言葉を*呟いた*]
むしろ、逆、ですよ。
私は……私には、世界はとても鮮やかに見えたから。
その世界を、描き表したいと思ったんです。
自分の見る世界を、人に伝えたいと思ったんです。
[感じ取れる、という話には、少しだけ帽子の鍔を上げ、一たび結城の方を見上げるようにしながら]
それが、どれだけ叶っているかは……
別ですが。……
……それでも、切欠はそうだったんです。
[故に男の絵は、世に出る以前から極彩色を基本としたものだった。現在の「共通点」を持つ絵を描くようになったのは、ある時期を境にして後の事だったが]
どうしたら。……どうしたら、いいんでしょうね。
何処まで行ってもそれは追ってくる。
[呟きには、やはり呟きらしく]
……いっそ自分が消えたら?
それの勝利になるのかもしれない。
それでも。いっそ。
……、ああ。
でも、消える事も難しいんです。
そう私にはわかっている。
どうしたら、いいんでしょうね。
[再び鍔を下げ直し、ふ、と、溜息には届かない微かで短い吐息を零した]
消せたなら。
何も問題はないんですがね。
[かさり。
一枚風に吹かれて落ちた緑の葉を*眺め*]
寒いねえ。
[風が少し強い。
千夏乃はオーバーの襟をぴったり合わせて、小さな体をさらに小さくしながら、歩いた。]
"寒いね"と話しかければ"寒いね"と
答えるひとのいる温かさ
[教科書に載っていた歌を思い出す。ぎゅっと抱きしめた羊は柔らかな圧力を返す、が、何も答えてはくれなかった。
もっと小さな頃なら空想で補えていたのに、大人になるとはこういうことなのだろうか、と、小さな哲学者は思う。]
こんにちは。
[手を振る白衣の医師の姿が目に入って、千夏乃は歩み寄りぺこりと頭を下げた。ここで何度か会ったことのある、確か内科だったか、外科だったかの医師だ。
千夏乃が普段検査や診察で訪れるのはもっと長くて難しい名前の部署だったから、彼を病棟で見かけたことは、なかったが。]
…こんにち、は?
[帽子にマフラーにサングラス、といういでたちの男の人には、少したじろぎながら。]
お散歩ですか?
――結城先生。
[ちらりと名札を確認して、その名を呼ぶ。
交わされたのは、きっと他愛もない言葉。彼らと別れた後も、千夏乃は暫くの間中庭を散策するだろう。そして、再びこっそり病室に戻る頃には、目を三角にした師長が待ち受けているのだ。
これがいまの彼女の、*日常*。]
ラウンジ
おばあちゃんは可愛いよ?
私もおばあちゃんみたいに、なれたら……
[止まっていた手で、最後にもう一度人形の髪を撫で、腕をひいた]
クレープ、食べるの大変だけど好きだよ
甘くて、ふわふわで……幸せの味がするよね
お薦めのお店あるから、案内するね
[約束だよ、と少女は笑う。
ぼたんの笑い声に重なるように、目を細めて歯を見せた]
…歌、だな。
[階下の方から、歌が聞こえる。
今日もか、なんとも思うのだけれど、
その声は澄んでいて。]
俺は、ここで…か。
[記憶を思い返してみても、思い出すのは学校よりも病院の記憶。
なんせ1年を連続して学校に行けた試しがない。
小児科の人にはお世話になった。
今もこうやって、お世話になっているし
。]
まあいいや…どっか行くか。
[特に当てもないけど、と呟きつつベットから起き上がる。]
『黒枝様、黒枝奈緒様―………』
[呼び出しのアナウンスが、二人の笑い声に被さった]
……忘れてた、そろそろ検査だった
おばあちゃん、また明日ね!
[ばいばい、と手を振り背を向ける。風に巻かれた葉っぱが一枚、少女の髪に*舞い降りた*]
3階・廊下
[部屋を出て、特に意図もなくただ歩く。
部屋の外出は一応許可されていたので、それが…の日課になっていた。]
とは言ってもなぁ…話す相手が居るわけでもないんだし。
[そう呟いてから、窓の方を向いた長椅子に腰掛けて。
部屋から持って来た本を読み始める。
小説も好きなのだけど、もう読みきってしまったし。
日本のこれからの発電として有力なのは地熱発電でしょう。現在推定されている資源量は2054万キロワットとなっており、世界3位となっています…
]
…こんなこと知っていてもな。
[今までなら読み続けていたのだろうけど。今の…にとってはもう、どうでもいいことだった。
直ぐに本を閉じ、空を窓から仰ぎ見る。**]
3階・廊下
[まるで踊るようなふわふわとした足取りで、廊下を歩く。
途中、すれ違った人には軽い挨拶を交わした。
自分の耳の事を知っている人は手を振るだけで返してくれたり、分かりやすいよう大きく口を開けて短く返事を返してくれたり、そんなちょっとした事が何と無く楽しい。
もちろん返事を返してくれない人も居るけど、だからといって挨拶を止める理由にはならない。
そんな時、椅子に座る少年の姿を見かけ、それまでと同じように声をかけた。]
こんにちは。
今から本を読む所かな?
[視線は閉じられた本へ、そして少年の視線を追いかけるように窓へと移動する。
レンズ越しに、自分の歩いてきた道が遠くに見えた。]
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