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[薬の副作用に依る気怠さに引かれるように、その朝目覚めた。
とても幸福な夢の最後に、妙に現実に引き戻される夢、を見た気がした。
その後、支度を終えて医局へ向かい、後藤と黒枝の訃報を聞く。軽い眩暈を覚える。
また、何もできなかった、と――
死はゆっくりと、けれど確実に己の足許へ忍び寄っている。]
はは、ははは……、
[笑い声を上げても、笑みは歪みを増すばかりで。
ふと脳裏へ、夢に見た言葉が甦る。]
『笑うな』
[柏木が恐れていたものを、知りたかった。
否、知るべきだと思いながら、彼を思い出す事を意図的に伏していたのかもしれない。
それは何故か。]
――僕が、殺したも同然、……だからだ。
[ぽつりと呟き、5階へと向かった**]
ー夜ー
やだ、やだ
[頭の中で絶望の文字が駆け巡る。
どうすれば戻れる?いや、もしかしたら薄々分かっていたのでは?
終わりなき自問自答を繰り返して、その度に絶望に彩られていく。]
いや、だ
[戻れないなんて、嫌だ。**]
[五階に辿り付き、柏木の部屋にまだ絵は残されているのかと看護師に尋ねる。どうやらまだ遺族が遺品の引き取りに来ないらしく、施錠したままだという事だった。
柏木の絵を、もう一度観たかった。看護師に頼み込んで鍵を借りる。
主の居ないその部屋の扉を開くと、あの時と寸分変わらぬ絵の具の香が、鼻腔を擽った。]
[そして数々の絵も、以前訪れた時と変わらず室内に残されていた。
否、絵自体は以前と異なり、筆が足されていたようだった。
人のかたちが、消されている。
確か以前は、口角の上がった唇だけが其処に描かれていた気がした。
『笑うな』
ふと、夢の中に出てきた言葉が、過ぎる。]
……柏木さん、は…、これに、殺された……、
いや、……これを殺しに行った、のかもな……
[漠然と、そう感じる。その真意は解らないし、不安定だった精神状態に皹を入れてしまったのは自分かもしれない、という気持ちが消えた訳ではなかったけれど。]
[部屋中に貼られた絵のひとつひとつを見つめる。
処分せず逝ったということは、誰かに観て欲しかったのだろう、とも思った。
絵以外の日用品は余り無かったから、サイドテーブルに残されたハンカチと、その上の腕時計だけがやけに目について]
―――…っ、……なんで、ここ、に……、
[その腕時計は、間違いなく父の遺品――自分が屋上から投げ捨てたものだ。
割れた硝子板や文字板を、細かく修復し、破片の抜けた部分に色が足されていた。
こんな直し方が出来るのは、絵を描く人物、だろう。
横に添えられたメモを摘み上げる。
『――「誰か」に渡して下さい――』
持ち主が解らず、柏木が修理したという事か。
柏木が中庭へひとり向かい、拾ったとは考え難かった。]
[修復された腕時計を壊れぬよう、けれど強く、握り締める。
時計はしっかりと、時を刻んでいる。
壊れたものは治らない、治せない……、
投げやりだった自分を、恥じた。]
――ありが、とう……、
[拾ってくれた、人に。
直してくれた、柏木に。
俯いたままの頬に、一筋の涙が伝い*零れた*]
―朝―
[気分は昨日よりも優れない。…正直、生きたいなんて思わない。]
もう、出来ないんだ
[そっかあ、と自嘲気味に呟いて。
もう、この部屋には用が無いな、と。
寄せ書き入りのバレーボールを持って、飛び出していた。]
[逃げるように走る。まだ誰にも気が付かれていない筈だ。
走って、走って。]
中庭…中庭に…!
[おばあちゃんから聞いた、中庭を目指してひたすら、走る。]
[それから、幾何の時が過ぎたのか老婆には判らなかった。
ただ、確かなのは、孫のように思い、接していた彼女はここには来ないらしい――ということだった。
老人は窓の向こうの景色を見、思い返す]
少し前 ラウンジ
「田中さん、ご飯食べました?
行かなきゃだめですよ。」
……さっき食べたよう。だからもう、食べたかァないんです。
あたしァ、ここに居たいンです。
待ってるって言っちまったからにァ
あの子ァね、検査だって言ってたんですよぅ
なんだかね――気のせいならいンですけども、
怖そうに見えたからね、そんなら、
……あたしには出来ることなんてないですけども、
せめて、せめてェ待つぐらいはァ、つって……
「でも、田中さん、
きっとね、検査はご家族の方がついてらっしゃいますよ。」
――――……
「ね、そんなに不安がってたならきっと、
ご家族の方を呼んで、きっともう、心配なく検査受けてますよ。
だから田中さんは、その子が戻ってきたときに元気に迎えてあげましょう。」
[押し黙る老婆の隣に座り、根気強く言葉をかけていた看護士は、老婆が微かに頷いたらしきを目に入れて満足そうに頷いて去っていった。]
現在 ラウンジ
[老婆の手の中で、黒い天鵞絨の洋服が揺れた。
常に似合わず、力強く握りしめ、黒い布地に折り目が入る。数滴、滴が零れ落ち、布を湿らせた。]
あたしァ、――……
そうだよう、家族じゃないよォ
…………知ってたもん。
……――知ってるもん。
[聞く者のいない独り言が人形の平面の瞳に落ちていく。
老婆はふと、頭に手を添えて体制を崩した。ほんの数十秒のことだった。]
[身を起し、彼女は頭をふるった。
皺だらけの顔面に二つある、黒い眼をゆっくりと開けて、周囲を見渡す。おどおどしく辺りを窺うと、彼女は立ち上がった。]
……、……。
[胸元の衣服を握りしめ、彼女は椅子に縋るようにしつつ立ち上がった。金髪の人形が彼女の膝から滑り落ちる。
周囲を探る眼差しはそのままに、そして、人形を見ることもなく、彼女は歩み、それから小走りに去った]
[メモと腕時計を白衣のポケットへそっとしまい、涙が乾く頃部屋を後にした。
塞いでいる暇なんて、なかった筈だ。
5階の廊下。奥手には無菌室が存在する。
先日、”バレーボールが出来なくなるかも”と告げた後、表情を失った少女の事を思い出した。
彼女がそこまで部活動に心血を注いでいたとは露知らず、出来なくなった後も別の趣味を見つけてくれれば、という独りよがりな思考を露呈し、そのままになっていた。
あの子は、どうしているだろう。
思い立ち、無菌室へ足を運んだ。]
[ノートだけ広げて、ベッドの上で、ぼんやりと過ごす。こんな日も、悪くない。
千夏乃のノートは全科目共用だ。
あるページには数式が並んだかと思うと、次のページには詩が、その次は植物のスケッチ、といった具合に、思いついたことを思いついた時にやるものだから、いつの間にかひどく賑やかなページが出来上がっていた。
ベッドの上だと、談話室のテーブルでやるよりも眠たくなってしまう。ほとんど条件反射だ。外はゆるやかに高度を下げていく太陽が、遠慮がちに光を投げかけていた。
フリーハンドで比例のグラフを描きながら、千夏乃はまた少し、*うとうと*。]
1F 廊下
[彼女は上着もはおらず、手にもの持たず、歩いた。
建物内をうろりと歩き回り、何かを必死に探すような眼差しで周囲を見渡す。
そこにちらりとでも、無菌室にいるべき姿を見つけたら、
もしくは中庭に向かう姿を見つけたら、動きは止まったことだろう。
けれど今の彼女に何か建設的なことが言えたのかは別の話だ。]
建物外
[ようやく、目当ての場所が見つかった彼女はそこから建物外へ出た。
老婆の日課であった散歩を知っているものならば、
病院の敷地内を歩む彼女を止めることはなかった。
老婆は、時折、意図の不明な駄々をこねたが
おおむね大人しかった。
老婆の我儘が増えたのはここ数日のことだった。]
寒い……。
……、……おうち、帰らないとォ
無菌室
[病室の外側に付けられた小窓から、無菌室の中をそっと覗く。
鎌田の姿はそこには無く、扉を開いて中へと一歩、踏み出した。
室内へ視線を巡らせると、先日置いてあった筈のバレーボールが、無い。
考え過ぎだろうか……、過ぎる嫌な予感が、あった。
丁度5階だったからかもしれない。
咄嗟に思い至ったのは屋上だった。
外に出たとすれば、一望し捜索も叶う場所でもある。
看護師に声を掛けるでもなく、屋上へと足早に向かった**]
[何処を通ってきたか分からないけど、中庭についた。
看護師が追ってきてるかもしれないけどそんな事はどうでもいい。
持ってきたバレーボールを見て苦笑する。
『がんばれ!』だとか、『負けるな!』だとか。
ごめんね。私は、未来に絶望してしまいました。]
ゆうぐれ・314号室
「くしゅん。」
[くしゃみと同時に、目が覚めた。
外はゆうぐれ。沈んでいく太陽が、空にわずかばかりのオレンジ色を残している。
ベッドから降りて、厚いカーテンに触れたとき。
ふと、言いようのないさびしさを覚えた。
まるで、世界に自分だけが取り残されているような。
おかしな話だ。
父や弟と会って話したのは、つい昨日のことだというのに。
家族だけではない。看護師や、医師や、ほかの入院患者たちとだって、たくさん話をしたではないか。]
[遠くで何か、いきものの鳴く声がした。
鳥か、けものか、なんだかよくわからないけれど、悲しげな声。]
――っ、
[千夏乃はとっさに、カーテンを強く引いて夕闇に飲まれていく景色を視界から閉ざした。
「さみしい。」
「こわい。」
そんな言葉が、頭をよぎる。
その場から駆け出してしまいたくなるような気持ちをこらえ、カーテンに背を向けてぎゅっと拳を握り締めた。
そうして、千夏乃はしばらくの間青い顔で*うつむいていた*。]
[柔らかく皺の寄っていた彼女の顔は、いまや風の寒さにゆがみ、暗がりでがさつく森の茂みに怯え、紙をまるめたかのように皺くちゃになっていた。
よろめく彼女の足取りを支えていたのはなんだったのか、知ることは難しい。けれど、彼女はただ必死に、その足を動かしていたことは事実だった。転び、衣服に泥をつけ、それでも立ち上がった彼女の歩みは、森が開けたころに、止まった]
海
[田中ぼたんは、海辺にいた。
明かりは遠く。病院の上階の、カーテン越しの明かりや談話室から漏れた光が、おぼろげながらに見えた。彼女はそれを遠く仰ぐようにしながら、波打ち際近くまで進み、しゃがみ込んだ。
皺だらけの手を二つ、ぎゅっと握りしめる。寒さのせいか、その手はかすかに震え、関節は真白に染まっていた。]
……おっとさん……ルリちゃァん……
あたし、来たよォ……!
一緒に帰れるよう。出といで ……
おっとさァん……
[声は小さく、潮風にかき消される。
彼女は立ち上がり、波打ち際をゆっくり歩いた。
その横には誰もいない。
彼女の後ろに続くのは一人分の足跡のみ、それもすぐ波が消した。
黒く色づく海に反射するのは、微かな、遠くの病院の明かりだった。]
あぁ、そっかァ――夢かァ
ありゃァ……そうだよねェ、お布団の上で見た夢だねェ
なんだか、……いるような気がしたんだけどォ
……――夢ならしょうがないねェ
[暗い波は老婆の足元をはるか通り過ぎ、老人の衣服を濡らした。
老人は重たげな足取りのまま進んでいく。
彼女の足跡はもう、砂地につかなかった。
岩場を見つけると、服をもう濡らさないようにとそこに上りこんだ。]
もォお、あの子らァ、一緒に海で泳ごうなんて約束
守るのァ無理だろうしよォ……
あたしの家族ァ、もう、
お人形さんだけかねェ――
お見舞いに来なくとも、いっつも一緒にいてくれるのァ
あの子らだけなのかいねェ
……家族じゃなくとも、傍にいたいと思ったのは
駄目だったのかねェ……
家族じゃなけりゃ、駄目だったの、かねェ
あたしにゃ元気づけることも無理だったし、
むしろォ、元気をもらってばかりだったけどよう。
そんでもぉ……居たいって思っちゃいけなかったんかねィ
夕刻:屋上
[荒い呼吸を繰り返しながら屋上へと辿り着く。
傾き掛けた太陽が、やけに大きく空を染める。
屋上の端から端まで目を凝らすものの、そこに鎌田の姿は無かった。
半ば呆然とよろけながら、中庭寄りの柵へ身を預けて階下へ視線を巡らせると、ボールを抱いた少女の姿が確かに見えた。]
――…さん、……鎌田さん!
戻りなさい、……外になんて出たら、 …………ッ!!
[免疫力が著しく低下している筈だった。特に、少しでもつまづいて怪我でもしては命に関わる、と……、伝えようとした言葉は若しかすると、更に彼女を追い詰めるだけになってしまうかもしれなかった。
けれど、それを考慮するだけの余裕も、今の自分には存在しなかった。
冷たい柵を握り締め、聞こえるかすら解らぬ言葉をただ、叫ぶ]
……はぁ、やだやだ、クサクサしちまって。
顔までしょっぱくなったら、婆ちゃんどうすりゃいいんだい。
奈緒ちゃんの検査終わって、元気になったら
くれぇぷ食べに行くって約束したじゃないかい。
しょっぱい顔で甘いもん食べても幸せになれないよォ!
[ぱしん、と乾いた音を立て、老婆は両頬を叩いた。]
よっし、あたしァあたしなんだからしょうがないじゃない。
奈緒ちゃんもご家族の方と一緒の方が
検査怖くなくなってたのさ、うん。
……孝治くんや、あの羊の子も、
ご家族と会いたいんだろうねェ。
羊の子……千夏乃ちゃん……だっけかね、
会えてたみたいだけど……
孝治くんは、どうなんだろうね。
うん、明日ァ 奈緒ちゃんの体調聞きに言ったら
二人のところォ行ってみようねェ
小春ちゃんの所行ったか聞いてみたり、 ああ、またお菓子広げたり……
今度ォ、中庭とかでピクニックするのも楽しいだろうねェ
体が足りないね……あたしがもう二人でもいたら完璧なんだけどさ……
あんたもお話しするだけじゃなくて――――あら?
[腕の中にあるはずの人形がない。
そう思った時には、足を滑らせて彼女は水の中だった。夜の海は暗く、冷たい。
けれど、彼女が滑り落ちたのは岩場であり、浅瀬の方だった。助かる可能性はまだあった。岩場の隙間に、足を挟まなければ、助かる可能性の方が高かった。]
[彼女が感じるままに口にしていた思いや考えは、いまや水に阻まれ、何一つ言葉になることはない。
皺だらけの、水分を失い干からびた手が何度も、黒の海を突き破り海面を掻いたが、それが意味をなすことはなかった。その手に、彼女の家族である人形が触れることもなかった。
「あんたもお話だけじゃなく、動けたらいいのにね」
老婆が言いかけた言葉が現実になったとしても、家族と老婆の距離は縮まることがないゆえに、老女の死は依然として孤独なものだっただろう。けれど言いかけた言葉は、言いかけのまま。言わない言葉は無いも同然のものだ。]
あンら……
いえね、……夢ェ見てたみたいだよぅ
やだねえ婆ちゃんになるとすぐ寝ちまって。
体調は大丈夫かい。
そんなら今日は 届出だすよォ……
かわいい女の子になりに行きますってさァ。
おすすめのお店、案内してくれよう。
海
[夜の海に浮かんだ泡沫と飛沫は、すぐに収まった。
水の跳ねるような音が消えた後は、
ささやかな波音が、それまでと同じように繰り返す、穏やかな時間が到来した**]
真夜中・314号室
……寒い。
[目が覚めたのは、夜中のことだった。
病室にはしっかり暖房がかかっている。それなのに、酷く寒い。体が凍りつきそうだった。
千夏乃は毛布を頭まで被って、震えていた。
風邪をひいてしまったのだろうか。夜眠る前までは、なんともなかった。今日は一日おとなしくしていて、食事もいつもどおり食べたし、薬もちゃんと飲んだ。それなのに、まるで冷たい水の中にいるように、体が冷たい。]
だれか、よばなきゃ
[何かあったら押すように、と言われていたナースコールのボタンに手を伸ばしたが、冷えて感覚のない指先ではなかなかボタンを探り当てられない。やっと見つけて、しかし押したかどうかわからないうちに今度は酷い睡魔に襲われて、千夏乃は深い深い眠りの底に引きずり込まれるのだった。]
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