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―現在・自室―
[昨夜は何も考えず、部屋に戻るなりすぐに寝床についた。そして止まぬ雷雨の音で目を覚まし朝とも夜とも分からないまま体を起こす。
―――はて、昨日は何があった?
少し間を置けばサイドテーブルに置かれた頭巾とポーチがぼやけた視界に入る。それらを暫く見つめれば、下りた長い前髪を掻き上げて眼鏡を掛けた。
そして身支度を済ませば、大広間へと向かうべく部屋を出た]
―大広間―
[着いて中へ入った部屋は荒れたままだった。ダグの亡骸は其処にあっただろうか。無くとも、ニルスはそこに立ち尽くして辺りを見渡す]
…君の場合は、蝶というより蜂に、なるのかな。
[それは今朝も見れなかった極彩色の話。きっと彼は蜂へと魂を預けたのだろうと。その蜂の姿は、昨夜で水の底へと沈んでしまったのをニルスが知る由も*ない*]
─昨夜・浴室─
[湯で顔を洗うと、あちこちが滲みる。腫れも酷い。あの時のダグの形相がちらつき、背が冷えた]
後で、冷やしておかないとな…
[未だ手の中に残る、サーバーフォークで貫いた感触を誤魔化すかのように呟いた]
─昨夜・廊下─
[湯を浴び、着替えると言っても、纏えそうなものはバスローブくらいしかない。
今まで身につけていたものを浴室で洗い、バスローブを羽織って2階に戻ると、マティアスとイェンニが待っていてくれた。
男がいない間、2人の間にどんな会話がなされたのかは、その表情から伺い知ることは出来ず。
イェンニと別れ、マティアスの手を引いて部屋へと戻る]
[マティアスを送り、床に落ちていた白杖を手の届く所に立てかけて、男は厨房へと向かった。
傷を冷やすためにタオルを水に浸し、ビャクダへの土産に卵をふたつ失敬した帰り――
…馬小屋から、嘶きが聞こえた。
すまない。
すまない。
胸の内で謝りながら、足早に部屋へと戻った]
─昨夜・自室─
[二つの卵を、嬉しそうに丸呑みするビャクダを眺めながら、玄関先で蜂を沈めていたイェンニの姿を思い出す]
…なんでだよ。
[何であんな、寂しそうに。
独りで。
…濡れたタオルを顔に押し当てる。ひんやりとした布が、腫れた患部を心地よく冷やし。
しかし目の回りだけは、じわりと温かく――]
―翌朝―
[ふと、男は目を覚ます。
ここ数日ろくに眠れていなかったせいだろうか、いつの間にか眠っていたらしい。傍らでは、とぐろを巻いたビャクダが、寄り添うようにして眠っていた]
…大丈夫だって、俺は。
[ああ、ほんとうに、賢い蛇だ。
ひんやりと冷たい皮膚を、ひと撫でして。男は身支度を整える。昨夜洗った服はまだ湿気ているが、着ていればそのうち乾くだろう]
[イェンニがナッキである事は、もう間違いない。
しかし、いざ本当に『そう』となると、覚悟>>4:92が鈍る。どうするべきなのかが、考えるほど、分からなくなってくる]
…あの時のクレストの気持ちは
分かるようで、やっぱり、俺には分からないな。
[あの日、ナッキと――ミハイルと共に命を絶ったであろう白い司書を思い出して、ぽつりと呟く。
誰にも殺させない、という気持ちは理解できでも、彼のように共に死を選ぶ事は、男には出来そうにないから。
『マティアスさんを取るわよ』というイェンニの言葉>>3:154の意味が、漸く分かった。
意味は分かった、だけど――…]
[ぐしゃぐしゃと頭を掻き毟り、部屋を出る。
マティアスを裏切る事は有り得ない。だからと言って、イェンニをみすみす死なせる事など出来るはずもない。
――いっそ、村を捨てて3人で逃げるか?
無理だ。
この暴風雨の中、動けるわけがない。仮に村を出られたとしても、どこかで、増水や落盤に巻き込まれるだけだ]
くそ…。
[男は思考の迷路に、迷い込んでいた]
[ふと、大部屋に誰かが入ってきた。
声のする方をゆるりと見ればそこにはユノラフの姿。
なんだ、君か。と淡白に反応を見せれば彼はどうして昨日ダグを止めたのか、と聞いてきた…が、どういう風の吹きまわしか礼を言われた]
…奇妙な事があるものだ。
まさか君に礼を言われるなんてね。
先に言っておくが僕は君やイェンニを助けようとして止めた訳じゃない。
…“彼女”を殺すにはまだ早いと思ったからだ。
[態とらしく彼女、と強調させる。
そう言えば彼は気付くだろうか。
それともまるで殺す予定があったかのような言動にまた棘を覗かせるだろうか。
ユノラフの不器用な礼は虚しく散る]
…それでも、お前のお陰で死なずに済んだのは違いねぇだろ。
[ニルスの言葉に、ち、と舌を打ち、苦々しく、ぶっきらぼうに呟き…
真っ直ぐに、彼の目を見据える。ぴりぴりとした、棘を纏わせて]
…イェンニを殺す気か。
[それは答えの分かり切った、問いかけ]
[これはこれで面白いものが見れた、とニルスは舌打ちをしながらも礼を否定しないユノラフを流し見る。
それでも言葉の意味には気付いたようで。こちらを見据える瞳を跳ね除けるように冷たく彼を見返し言う]
ああ、勿論。
君も既に知っているんじゃないか?
…彼女がナッキだと。
[ニルスがそれを考えたのは、この雷雨が始まり出した頃。昨日で言おうとしていたことを、今呟いた]
知っている。
だが…イェンニは殺させない。
[彼女がナッキだと分かった今でも、その思いだけは揺らぐことはなく]
もし、イェンニに何かしたら、俺がお前を殺す。
[抑揚もなく、静かに告げて。
どうするべきなのか、答えは出ないまま――否、すべき事を認めることが出来ないまま、男は大部屋を後にした]
[これは驚いた。ナッキと知っていながら殺さないとは、この男は何を考えている?
ニルスはふと口元を緩ませ、馬鹿にするように態とらしく振る舞う]
おお恐い、恐い。
ナッキを放っておいて人間を殺すとは、滑稽なものだな。
[本当に、人間とは馬鹿な生き物だ。
自身を殺すと宣言したユノラフが部屋を出て行こうとする間際、少しばかりの言葉をかける]
イェンニはどう思うかな?
彼女が死にたがっているようなら、僕は喜んで彼女の心臓を止めてやろう。
…さて、マティアスとイェンニ。
君がその天秤をどちらに傾けるか、楽しませて貰おうか。
[そして雷雨に混じり、馬の少しばかり弱った嘶きが聞こえれば]
それと君が殺したダグへの罪償いをしたいと思うなら、あの馬に餌でもやったらどうだ?
[まるで自分は面倒だからとでも言いたげなように、付け足して後ろ姿が小さくなっていくダグの背中に*言った*]
─昨夜─
[そっと離れる体温を見送り、ユノラフの言付けを
伝えるためにマティアスの元へと向かう。
2階ではマティアスが一人、友が戻るのを待っていただろうか。]
ユノラフさん、シャワーを浴びに行かれましたよ。
[彼は頷いてそこで待つと言っただろうか。
…も、用が終わったので下に戻っても良かったが、
ふと、気になった事を口にする]
あの……失礼でしたらごめんなさい。
何も見えないというのは、どんな感じでしょう?
[盲目の世界とはどんなところだろう。
昏い、水底のような、そんな世界かしら。*]
─クレストが使っていた部屋─
[誰もいないがらんどう。
鍵がかけられていなかったのだろうか、
窓がキィキィと風に揺られて音を立てている。
降る雨がベッドを濡らしているから、
この部屋ではもう寝られないだろう。
部屋の隅に、ひとつ、置き去りの上着>>3:240。
ポケットから覗く紙を手に取ればそれは写真だった。]
ミハイルさんの、
[>>3:71今と寸分たがわぬミハイルの顔。
古い、旧い、とても昔の写真。
違うのは着ているものと、今よりも少し柔らかい表情だろうか。
もう一人映っている少年は、彼と共に逝った
青年にどこか似ているような。]
[必要が無いから置いていったのだろう写真を、
…は上着に戻す。
そして、もう一枚、写真とは違う紙が無造作に
押し込められていた。
その紙を取り出して何が書かれているのかを、見た]
『
Rusalkaがしあわせになれますように Vodyanoi.
』
[瞬間。
目の前が、真っ赤に染まる。]
[なんて言葉、なんて残酷、そして絶望、慟哭。]
私には、あなたのようにはなれない、
愛してくれる人も、愛した人もいないのに!!
[クレストと二人、幸せそうだった2人を思い出す。
ミハイルは仲間である…よりも、ただの人間を取った。
妬ましい、羨ましい。
自分には訪れることの無いだろう幸福。
それを二人に預けて、諦観したのに。]
いまさらこんな、ひどい、ひどいひどいひどい!!
[ぐしゃりと紙片を握って、その場にしゃがみこめば、
呼応するように雨音と風が一層強まり、空は悲鳴を上げる。
…の声は、ざぁ、と降る雨がそれを掻き消しただろうか]
おいていかないで ひとりにしないで
[苦しい、哀しい、怖い、寒い、切ない、辛い。
寂しい、寂しい、寂しい、さみしい──
ぐちゃぐちゃになった感情を曝け出す…は、
それこそ化け物の様に醜かっただろう。]**
……そうだ。お前さん、なんであの時泣いてたんだ?
いや、言いたくなかったら言わなくてもいいんだがよ。
……ミハイルがな。なんか、お前を気にかけてたように聞こえたモンでな。
[答えを期待して訊ねた訳ではなく。
ただ、どう慰めたらいいのかがわからなくて、それだけ告げて階下へ降りていった。
ユノラフに部屋まで誘導して貰い、白杖を手渡されれば、一言短く礼を述べてそのまま別れた。]*
…少し、いいか?
[たどり着く先は、マティアスの部屋。言葉を投げ、中へと入る。
いつもと変わらぬ友の顔に、気持ちが楽になっていくのを感じた]
…単刀直入に言う。イェンニが、ナッキだ。
昨日の夜、蜂を水の中に沈めているのを見た。
[ぽつん、と事実だけを告げる]
…なあ、
もし俺が、イェンニといきたいって言ったら、どうする?
[『生きたい』『逝きたい』そのどちらとも取れる残酷な質問に、マティアスはどう返したか。
何れにせよ、男はすぐに苦い笑みを零して取り消す]
…すまん、冗談だ。
そうだよな、俺には、お前を見捨てて独りにするなんて事、出来るはずがない。
だけど、イェンニも独りにしておけなくて、幸せにしてやりたいと、願ってしまうんだ。
寂しさから、孤独から、救ってやりたいと
傍にいたいと…
――彼女を、愛してしまったんだ…。
[感情を押し殺して呻く]
俺の事なんか気にするんじゃねェ。
大体よォ、俺みてェな奴が独りで寂しがると思うか?
元々、ずっとひとりきりだったじゃねェか、俺は。
[いくら誰かが傍に居てくれようと、結局目が見えない自分とは違う。
亡者の声が聞こえる自分とは違う。
その意味で、マティアスはずっと一人だった。
勿論寂しくない訳はない、だが、それ以上に、友に幸せを掴んで欲しくて。
今までずっと世話になった、大事な友人に。
自分が突き放すような言い方をして傷つけたとしても、それはきっとイェンニが癒してくれるのだろうから。]
……最終的にゃァ、お前が決める事だがよ……
……俺ァ、お前の幸せを願ってるんだ。
好きな奴がいんなら、そいつと添い遂げろや。
[最後に、ふっと表情を緩めて、そう締めくくった。]
[湖の底は、暗くて寂しいところ。
誰もいない水底で、遥か向こうの陽光を追いかけて。
水に溶けてしまうから、涙を流しても気づかない。
ずっと泣いている事に、気づけない]
……え、
[光が欲しいなら、と言われて何の事かと思ったが、ユノラフが戻ってきたためか続きが紡がれる事はなく。
代わりに告げられた言葉にやや首を傾げた。]
[しゃがみこむ。視界に映る2本の足。
人の形をした白い足。
今、それは黒い皮膚に次第に変わり、
硬い鱗に覆われていく]
いや、いやよ、どうして、
わたしは──……!!
[人間だとでも思っているの?
違う、わたしは、ナッキで、でも、人と一緒に、
生きていて。]
[ナッキが人を湖に誘うのは、
人の生気を自身の力として蓄えるため。
…は人として生きた時間が長すぎた。
人になるための力は、昨夜の誘いで使い果たしたようで。
…は、もう人としての形を保てなくなっている。]
あ、あ、 ゃ、ア……
[ミハイルと違い、元が人ではない…は、
人に化けていただけだ。
力が失われればあとはもう──
硬い皮膚と鱗に覆われた化け物になるまで、
時間の問題だろう。]
[朝が来ても、…は広間に顔を出すことはない。
誰にも見せられない、こんな醜い姿。
息を潜めて、部屋に篭った*]
いや、いやよ……こんなの、いや……
[ぐずる声は、少ししわがれている。
罰が当たったのだ。
人を騙して、人を殺して、のうのうと生きている罰が]
…………
たすけて
[誰か。]
[村を出る覚悟は、まだ出来ていない。それでも今は、とにかくイェンニに会いたくて――]
…イェンニ。いるか?
[彼女の部屋の扉をノックし、声をかけるが返事はなく]
……だめ、よ。
こんなすがた、みせられない。
[浮かぶのは拒絶。
人間は、化け物を殺す。
今のわたしは、名実共に化け物と呼ぶに
相応しい悪魔の姿。
人じゃないから、躊躇う理由もないだろう。]
[カタカタカタ]
[キィキィ]
[カタン]
…ん?
[どこの部屋だろうか。物音が聞こえる。窓でも開いているのだろうか。
しかし、こんな天気で窓を?]
[首を傾げながら廊下を歩いていき、その部屋の前で足を止める]
だれか、いるのか?
[ノックをする、その部屋は。
――クレストが使っていた部屋]
[部屋の中から、返事は無い。
しかし何故か、酷い胸騒ぎがして]
…イェンニ?
いるのか?
[ここにいるような気がして、呼びかける]
どうして、どうして、なんで、ここに。
やめて、こないで。
わたしをみないで。
ころさないで、
[漏れる嗚咽を抑えながら、必死に祈る。
それでも、心のどこかでは]
あいたい。
[本音が揺れる]
[突き放されるのが怖いから、先に突き放して]
[恐れられるのが怖いから、先に恐れて]
[拒絶されるのが怖いから、先に拒絶する]
[…が本当に守りたいのは、自分だけ。]
[あのしわがれた声は、イェンニのものとは似ても似つかないのに、ここにイェンニがいると感じるのは何故なのか。
鍵の掛かった扉に何度か体当たりをすれば、敢えなく開いて、
雨風の吹き荒ぶ部屋の中に転がり込んだ]
……── ?
[降って来た声は罵倒や怒号ではなく、優しい声。
凶器を持たないその手は、首を絞めるでもなく、
殴りつけるでもなく。
優しく、頭に触れて。]
どうして 、
[あなたは、わたしをころさないの?
ユノラフの問いに、問い返す形になっただろうか。
シーツに隠した顔は、赤い目をぎょろりと瞠り、
ただ驚きに固まった]
ごめんな。
もっと早くに気づいていれば、こんな思いをさせずに済んだのに。
…独りで、辛かったよなあ。
[イェンニの背に回る腕に、自然と力が籠もった**]
[どうしてこの人は、今のわたしを見て、
そんな風に居られるの]
わたし、は ナッキ、なのよ
[みんなが殺したがってるはずなのに。
それとも、これから殺すのかしら。
逃げなきゃ、早く、ここから。]
……はなして、 はな……し……
ふ、ぅ う……
[でも、この醜い体を優しく包む腕を
引き剥がす事ができず、咽び泣く]
―大部屋―
[ユノラフが出て行くと、荒れた部屋でニルスは何かを探し出す。
時折、割れた壺の破片を靴で踏んでは不快な音が鳴り響いた。
そして目当ての物を見つければ、それを拾い上げジャケットの胸ポケットにしまい込む]
誰かを信じ、愛し、馴れ合うだけのゲームはもうお終いだ…。
[積み上げられた積み木は崩すためにある。これが最後の、玩具遊び。最後にユノラフが呟き残した言葉>>23を思い返しながら、床に落ちた破片を踏みゆっくりとドアへと向かう]
…分からないんじゃない。
僕は“それ”を捨てたんだよ、ユノラフ。
[もう部屋には居ない、彼にそう返してニルスは部屋を出た]
[抱きしめる腕の力を緩め、イェンニの頬を流れる涙を拭う。
変わり果てた姿に、もう永くはないのかもしれないと思いながらも、それでも彼女の命が在る限りは共にいたいと――
そしてもし。
彼女が死を望むのであれば、その命を受け止め、背負いたいと――
鱗に覆われた額に、唇を落とす]
[扉の向こうに人影が見えたのは、その頃だっただろうか]
―回想・過去の記憶―
[それはまだニルスが一桁ほどの年の頃。彼は小さな手を母にひかれながら夏至祭へと来ていた。
彼の母はこの国の出身ではない異国の民だったが、この夏至祭がとても大好きでよくニルスを連れては共に祭りを楽しんでいた。
彼もそんな母が大好きで、まるで同い年の子供のように花冠を被りはしゃぐ母の姿を笑ったり、大きなコッコを二人で眺めるこの瞬間がとても幸せだった。
その幸せな時も束の間。
祭りから帰る時、母の顔はどこか暗かった。
その理由はニルスも今なら理解出来るが、母は父――彼女の夫――から度重なる暴力を受けていたのだ]
[ニルスの父はこの国の出身で、母は彼と異国で出会い此処へ嫁いできた。それもそう、母には身寄りがなかったのだ。
そんな母は無差別に自身へ行われる暴力を誰にも相談する事が出来ず、それをニルスは閉じられたと思われていた両親の寝室のドアの隙間から、母の泣き腫らした顔を覗き知ってしまった。
助けたいと幼いながらに思ったが、その母の隣で未だ暴行を加える父の横顔は彼が普段知っている優しい顔とは全くの別人のようで、それが恐ろしくて。
自分も母のようにされるのではと怖くなり、助けることもせずその場から逃げ出した]
[母はニルスに父から暴行されている事は一切口に出さなかった。
それは母として我が子に弱音を吐かない、巻き込ませない…そんな心の現れだったのだろうか。
そんな母はやがて精神体力諸共に衰弱していき、ついには病に罹り帰らぬ人となってしまった。
それはニルスが暴行の事実を知って翌年、夏至祭が始まる頃。
まだ幼い彼には、母の死はすぐに理解出来なかった。
ただ分かるのは母は父の暴力が嫌で逃げたのだろうか、という子供の知恵を振り絞って出た結論。
そして母の葬儀が行われた日。
ニルスは死に化粧を施された母の屍体と初めて対面し、その姿を、今まで見たなかで一番綺麗なものだと感じた。
それが彼が初めて見た“命の終わりの輝き”だった]
[葬儀の最中、森から迷い込んできた一頭の揚羽蝶が宙を舞い、母の心臓がある左胸へと留まる。
そこで美しい翅をひらりと動かす様子は、まるで母の心臓の鼓動が目に見えているようで、ニルスはその光景に釘付けになった。
やがて蝶はひらりとまた宙に舞い、まるで母の魂のように森へと帰っていった。
数日後、彼の父親は妻への暴行がばれるのを恐れるかのように何処かへ逃げた。
ニルスが蝶に興味を持ち、まるで喪った母の魂を捕らえるように標本にするようになったのも。
自身の父親がこの世で一番醜く、母を助ける事が出来なかった自分もまた、醜い人間なのだと思い始めたのはその頃からだろうか。
そしてニルスが酒に一切手を出さないのは、彼の父親が母に暴行する際は決まって大量の酒に手を出していたからだった]
[母を喪い、父が蒸発した後のニルスは父方の祖父母に育てられた。
彼等はもともと身寄りのない母の事を良く思っておらず、またその母と同じ髪色と容姿を持つニルスの事も良く思っていなかった。
祖父母は渋々と幼いニルスを引き取ったが、それからの生活は幸せなどではなく。
彼はそんな環境のなかでゆっくりと歪み続け、やがて学びの才能を開花させた。
然すれば祖父母は掌を返すが如く、我が孫は誇りだと言わんばかりに彼を褒めちぎり、周囲に自慢をし始める。
そんな二人の様子を見て、幼子から少年へと育った彼は人間の醜さを再確認し、そして失望した]
[それから成人した後。
ニルスは今まで心血を注いで研究してきた蝶の知識者となり、昆虫学者の職へと就いた。
彼がこの小さな村に来たのはその数年後だっただろうか。
祖父母が次々と老衰で倒れていく際、彼は顔も二度と見たくないと病室で言い放ち、看取ることもせずに生まれ育った町を出た。
―――父の醜さと己の弱さ、そして祖父母や周りの人間の裏切りを知って成長した男は、まるで自身を傷つけまいと身を守る蛹のよう。
哀しいことに母の優しい愛で育てられたはずの彼は、人を信じ、愛する心を捨ててしまって*いた*]
―クレストの部屋へ向かう道行き―
[他人の不幸は蜜の味。
上手く言えたものだ、とニルスは緩やかな足取りで階段を上る。
昨夜死んだ、飢えた蜂のように。
心の死んだ蝶は花蜜を求め、ひらりひらりと不規則に舞う。
こつ、こつ、こつ。
全部の部屋の前を周り、僅かに聴こえた二つの男女の声をもとに歩けば、かつて司書として存在していた男の部屋に辿り着く。
昔覗き見てしまった両親の寝室のドアの向こう。
その時と同じように、ドアは誘うように僅かな隙間があって。
ゆったりとした動作でノブを握って開けば、きぃ、とドアの軋む音がする。
そしてその向こうにはまるで寄り添い合うようにその身体を抱きしめるユノラフと、黒い鱗に覆われたイェンニと思しき
――――――――化け物が居た]
―クレストの部屋―
Hyvää päivää.
[ドアが開けば唄うように紡がれたこの国の言葉。貴族が使うような気品溢れる丁寧な挨拶も、今の二人には狂気に思えるか。
黒い鱗に覆われた女を冷めた目で一瞥し、ユノラフに問う]
こんな化け物でも、まだ庇うのか?
[呆れたように聞けば、彼からは予想通りの返答がくるだろうか。ジャケットの胸ポケットから少し覗いていた、折り畳み式の細身のナイフを取り出せばパチンと開いてみせる。銀色の刃が稲光と共に光った]
…その化け物を、殺す。
[痛いほどの鋭い視線は黒い鱗を持つ者に。女が声をあげたとしても、ユノラフが止めにかかったとしても。ニルスの殺意は変わらない。
―――こつり、こつり。
硬い靴音が二人に近付く]
[汗が噴き出す。
こちらは丸腰で、向こうの手にはナイフ。
それでも――やるしか]
イェンニ、目を閉じてろ。
[一言。そう告げて。
タオルケットを剥がし、殺意を隠そうともしないニルスに投げる。
雨水を吸ったタオルケットが、ニルスの頭上に広がった]
[果たして、ニルスはどう反応したか。
はね退けるにしろ、被るにしろ、足元に生まれた隙を見逃さず、男はニルスの足に飛びつく。
もつれ合うようにして2人は床を転がる。やがて、体格で勝る男がニルスに馬乗りになり、顔を一発、殴りつけた]
イェンニ、逃げろ!
[部屋の隅で震えているだろう彼女に向けて声をあげる。
――その一瞬、ニルスの手の中で光るナイフから、意識が逸れた]
[案の定、返ってきたのは滑稽な言葉>>73。化け物は化け物で変わりないというのに、何が違うというのだろうか。
女を後ろに隠すユノラフを笑って見ていれば、何かを投げつけられる]
なん…ッ!?
[咄嗟に上げた腕でそれを被ることは防げたが、気を逸らされた次の瞬間には足に衝撃が走り床に転がっていた。
馬乗りになった彼が顔に一発の拳をぶつけ、じわり、頬に痛みが広がる。
少しの耳鳴りの中、逃げろと叫ぶユノラフの声で我にかえれば。
彼は女に声をかけ気が逸れている。今だ。
片手に構えたナイフの柄を強く握り、それを大きく振り翳して馬乗りになっているユノラフの肩へと力強く刺した]
……あなた、 あたま おかしいわ
[こんな私の傍に居たいだなんて。
欲しいと望んだ言葉だけど、選ばれるはずがないと
信じて疑わない…は、思わずそう返す。
村一番のお人よしで、誰よりも優しい男。
きっと誰にでも同じ事を言うんじゃないかしら。
冷たい皮膚に、温かい唇が触れて、
そこにだけ熱が篭ったように。
もし、これが。
わたしのためにしてくれるのなら──]
[一思いに刺したユノラフの肩からどろり、まるで蜂蜜のように血が垂れ流れるのを見つめる。泣き喚くばかりの女の声>>82が煩わしい。早く、黙らさねば。
ユノラフが床に倒れ込んだ隙に立ち上がる。女が駆け寄ってきたが気にせずに、一度はナイフを引き抜いた傷口とは別に、ぐり、切っ先を僅かに沈め抉って抜いた。
倒れているユノラフを静かに見下ろし、歪んだ笑みを見せれば視線は女へ]
…君は僕と同じだと思った。
独りで、何かの為に生きる事も出来ず、妬み、憎み、恨み…寂しい人間。
[ゆっくりと女のもとへと近付く。手には、ユノラフの血で塗れた銀のナイフ]
[怖い、痛いのは嫌。
でも、ユノラフがこれ以上傷つくのが嫌。
それもわたしのせいで、わたしなんかのせいで]
この人の傍は、とても温かいの。
[泣きたくなるほどに、とても。
どうしても失くしたくない。
たとえ自分の命がなくなったとしても。]
[逃げようとはしない女と健気なユノラフの姿に、ほう、と感心する素振りを見せる。そして私はずっと独りだ、と言うその鱗に覆われた顔にずいっと顔を近付けると、ニルスの乱れた前髪が女の鼻先に触れるほどの距離になる]
…そうだ。君はずっと独りだ。
今までも、今も、これから先も。
[女を洗脳するかのような言葉。
それはまるで自身にも向けられているようで。
ニルスは腰を屈めたまま、女をユノラフの隣に突き飛ばし馬乗りになった。
そしてナイフを持っていない左の手で、女の細い手首を片方だけ床に押さえつける]
……?
[ユノラフが去ってどれほど経ってからだろうか、部屋の前を歩く足音が聞こえた。
ユノラフ……ではない、だろう。イェンニとも考えにくい。
だとすると、今残っている可能性があるとすれば、ニルスのものか。
しかし、別に奇妙な事でもないと思って、その時は特に気には留めなかった。]
君は、僕と同じだ…だからこそ腹が立つ…見たくもない自分の醜態を、曝されているようで…っ!!
[ぎしりと軋む骨の音。
その時のニルスの顔はどれほど険しかっただろうか。
それはどこか憂いを帯びているようにも見えただろうか。
彼は自分自身こそがこの世で一番醜い人間だと知っていた。
そして似たようなイェンニが、自分が手に入れられなかった愛や信じる心を享受しようとする姿が、羨ましくも憎かった。
やがて右手に構えていたナイフが振り翳され、押さえつけられていた女の手のひらにどすりと、まるで蝶の標本にされるかのように突き刺された。
致命傷ではない、その痛みと様子に女は、ユノラフはどんな声をあげるだろうか]
[>>92浴びせられるのはニルスの感情。
そんなの知らない、私はあなたとは違う。
恐怖に支配された…は声に出せずに首を振るだけ]
ぃ、あ……
[化け物と言っても、少し力を加えられれば軋む程度の女の細腕。
ぎりぎりと掴まれた手首から痛みが伝わる。
ニルスが何を思ってそんな事を言っているのだろうか。
…には到底分かることではなく、]
──っぁああああああああああ!!
[右手に衝撃、何が起きたのか把握する前に鋭い痛覚。
悲鳴を上げて、身を捩れば刺さった刃が傷口を広げる。]
いや、痛い、やめて いや いやぁあああ……!!
[もがこうとしてももがけず、泣き喚く]
[痛い、痛い、痛い痛いいたいいたいいたい]
どうして、なんで、
やめて、 いたい、 いたい
[一緒にいたいと、願うことすら罪なのかしら。]
[部屋の外から騒々しい足音>>91が聞こえ始めたのはこれぐらいの頃だろうか。
きっと悲鳴に気付いたマティアスが来たのだろう。
それでも気にせず、ニルスは冷静で狂気じみた殺意を女に向ける。
刺した手のひらからはナイフに付着していたユノラフの血と混ざり、はて、化け物からはどんな色の血が溢れるか。
懇願するような声>>94を聴き、虚しくも届かなかった男の手>>95を一瞥したらニルスはナイフを刺したまま、まだ薄っすらと人の色をした肌が覗く女の首に両の手をかけて、蝶を殺すように圧迫させた]
………るさい………うるさい、うるさい、煩いッ!!!!!!!!
[やめろ。
僕の前でそんな綺麗なものを見せるな。
ニルスは音も目の前の光景も全て掻き消すように、全ての力を込めて女の首を圧迫する。ぎりぎりと締められていく首、女の口からは苦しげな呼吸音が漏れる。
―――女が息絶えたのは、それからどれ程後のことだろうか]
[苦しい、苦しい、痛い、苦しい、息が出来ない。]
……ぁ、 っ 、
[酸素を求めるように、喘ぐ。
自由の左手は、ニルスの手の甲を引っかいて傷を作っただろう。
右手は標本の様に磔にされているが、
もがき過ぎて皮膚はずたずたに抉れてる。
感覚もどこかへ行ってしまった。
涙で滲む視界では、ニルスのどこか苦しそうな顔。
なんとなく、泣いているようにも見えた。
あなたも、くるしいの?
あなたも、ひとりはさみしいの?]
あ、 、
[薄れ行く意識の中、最後に触れた手の感覚だけが
しっかりと残っている。]
ユノラフさん、
ユノラフさん
わたし、あなたの事を──愛してました。
[そうして目を閉じて、さようなら。]
[想い人を瞼の裏に描きながら、涙で濡れた瞳は閉じられた。
伸ばした左手はただ触れるだけ。
醜い化け物はもう動かない。
嵐が止んで太陽が顔を覗かせるのもそう遠くはないだろう。]
[嵐が終わったら、村人が待ち望む祭の再開。
ユハンヌスは終わらない。
櫓はまだ湖にあるのだから。
さあ、火をつけましょう。
コッコの炎は高らかに天を指し、
水の悪魔は二度と現れることは無い*]
はァ!?
[マティアスの問いに答えたのは、ミハイルだった。
ニルスがイェンニを殺そうとしている事、そしてユノラフが怪我をしている事を端的に告げられる。]
[イェンニを助けなければ、と、思った。
ユノラフは、きっと、怪我をしていてそれが叶わないのであろうから、と。
けれど、自分には目がない。
もし止めようとして誰かを殴ったとして、それがニルスである確証を持つ事が出来ない。
下手に動いて、逆にイェンニを、あるいはユノラフを殺してしまったら?
どうすればいい。どうすれば、どうすれば、どうすれば―――
マティアスにはどうする事も出来ず、立ち尽くす他になかった。
小さく、謝罪の言葉を呟きながら。]
……あァ―――
[どれほど経っただろう。イェンニの声が聞こえなくなった頃だったろうか。
ミハイルの声が聞こえる。
自分に頼み事をする声が。]
…………ユノラフ。
イェンニはな――――――醜い姿になっても、お前を愛してたってよ。
[結局、死者の声を聞くくらいしか、自分には出来ない。何と無力な事だろう。
マティアスは唇を噛みながら、静かな声で、それだけを友人に告げた。]**
[首を締めている途中、苦しげに動く彼女の左手がニルスの手の甲に傷を作る。それは彼女が生きた証を残すかのように。
やがて呼吸音も絶え絶えになってきた頃、不意に伸ばされたイェンニの手にびくりと肩を揺らす。
その時の顔が、まるであの優しかった母のようで。
ニルスはそれを拒絶するかのように、最後の力で首を一際強く締めた。
そして伸ばされた手はするりと落ち、皮肉にもあの時に届かなかったユノラフの手へと触れていた]
はぁっ…はぁ、っ…。
[いつの間にか乱れていたニルスの呼吸も次第に落ち着き、ゆっくりと両の手がイェンニの首から離れていく。
その薄っすらと人肌の残る場所には、赤い、蝶のような締め痕。
周囲の音は何も聴こえない。
ノイズのような音だけが頭に響き、視界の端にある窓の外から極彩色がひらり、ひらりと舞ってきた。
それがニルスだけに見えるものかどうかは知らない。
その極彩色の翅を持つ者は、たった今死んで逝った彼女の心臓へと留まり、鼓動するように翅を動かせばやがてまた外へと飛んでいった]
…僕は……また…
[飛んでいった極彩色を見送り、ぽつりと零れた言葉は最後まで言われず。
彼の脳裏に浮かぶは死んだ母の顔。
静かに頬を伝って流れた涙の粒は、黒い鱗に覆われたイェンニの頬へとそのまま落ちていった]
[窓の外ではやがて雷雨がおさまり始め、待ち望んでいた太陽が顔を覗かせ始める。
暫く呆然としていたニルスは、イェンニの上から退いて部屋を出て行った。
きっと近くに居たマティアスの肩にぶつかっても、何も言わずに行っただろう]
─少し前─
あ、ああ、あ…!
[イェンニの手を取ろうと伸ばした手は届かず、ただ、目の前で絞め殺されていく様を見るしかなかった]
イェンニ、
イェンニ!
――…死ぬな、死なないでくれ
[声を限りに、彼女の名を叫ぶが、届くことはなく]
――…あ、
[伸ばした手の中に、力を失ったイェンニの左手が、
……落ちた]
[ぼろぼろと、溢れ出す大粒の涙を気にもせず、彼女の言葉を告げてくれた友に礼を述べ]
ああ、イェンニ…
――俺も 愛している。
[もう、何も語らない唇に、自分のそれを重ねる。
いつしか雨は止んで、晴れ間が広がり始めていた**]
―自室―
[クレストの部屋から出た後、ふらふらとした足取りで自室へと戻った。
部屋から見える外の景色は明るく、まるで時間を夏至祭の日へと巻き戻したかのような快晴となっている]
…………。
[ベッドへと腰を下ろせば、ぎしりと音を立て沈む。
―――何もかもが終わった。
生きるか、死ぬかの、ゲームが。
たったそれだけの事なのに、この失望感は何だ。もうこの世界には失望しきっていたんじゃないのか]
[ニルスは最後まで気付けなかった。
自身がまだこの世界を、人間を、誰かが手を差し伸ばしてくれることを信じ、望んでいたことを。
そして、それを自らの手で振り払っていたことを]
[彼の頬に残る乾いた涙の痕が濡れることは、もう*無かった*]
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