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[誰しもが、『何か欠けている』ものが存在する、又は正体が掴めず困惑する中、己はなにひとつ感じていなかった。
死者が最後に願わずとも、笑える、微笑むことの出来ぬ欠けた精神状態だったからかもしれない。
一度センターへ戻り回診の続きへと戻る。途中、5階のあの一角で歩みが停止した。
けれど、今はもう――、爪先は3階へ、一糸の戸惑いなく進んでいく。
対峙したのは303号室の前、予定より少し押してしまったか。太陽が天辺へ昇る頃、その病室を訪れた。]
後藤くん、入るよ。
[昨夜一度、危険な状態にあったと看護師より説明を受けた。脳裏へと置き、その扉を開こうとし]
よく……うーん…まあまあかな
[夜中に吐き気を覚えて目がさめたことは言うつもりはない。入院してから増えた薬の副作用だろうと、見当はついている。
ぼたんのくしゃりと寄った顔は感情が読み取りにくく、けれど下を向いて椅子に座った少女にはそもそも見えていなかった]
おばあちゃん、私ね…明日
………んと、検査があって
おばあちゃんの顔が見たいなあ、って思って
[痛みを隠す表情はなく、俯きがちに顔を背けるのみ]
[椅子に座った少女に向かって、一歩二歩と老婆は近寄る。
隣の椅子に座っても、老婆の視界にはなにも、少女の表情は見えなかった。少しだけ、身を乗り出す。胸に添えた人形は今はもう膝上に横たわり、じっと、見上げていた。セルロイドの表面に描かれた平面的な瞳で。]
おンや……明日なのかい。
[小さな黒目が揺れた。萎びた指を、少女の頭に触れるよう伸ばし、けれど触れる前に落ちる。]
検査、――……
うゥん、こんな婆ちゃんの顔見に来てくれるなんてェ
嬉しい限りだよう。
婆ちゃんの分の元気ォ、奈緒ちゃんにあげっから。
………ありがと
[顔は見せないようにして、ぼたんにそっと抱きついた。老人の匂いがしたけれど、家族との触れ合いは少なくとも、それは病院の匂いを忘れさせる懐かしい匂いだった]
元気に…な った
元気、返すね
[少しだけ力を込めてから腕を離した。点滴の管が椅子にあたり音を立てる。
顔をあげた少女の表情は、少しだけ口元が歪んでいたけれど、泣き顔にはぎりぎりなっていないはずだ**]
あらあらあらあら
今元気返しちゃうなんて
明日の検査終わってからで、いいンだよう。
[柔らかな樹の色が視界に広がった。抱きとめる老人は、言葉とは裏腹に声音を柔らかにして――けれど口端はまっすぐのまま。柔らの感触を惜しむようにしながらも老人は身をはなし、奈緒の顔を見、そして止まった。]
[血の気の薄い彼女の顔は、脳裏にこびりついたあの、眼下に広がる、鮮やかな色を内包しているはずであった。生きるものなら必ず、どれほど肌が白くとも、その下には血潮があると認識していた。
けれど、田中老人には、そうは思えなかった。単なる――単なる、予感だ。それに過ぎない。
老婆は指を震わせながら、奈緒の腕に伸ばした。叶うなら衣服を掴もうとし、出来るなら奈緒の存在がそこにあることを確かめようとし。]
――……奈緒ちゃん――
明日ァ、ただの検査、なんだよねェ
本当、それだけ……だよねェ…………
検査ならすぐ終わるかんね、危ないこともないさね。ね。
[口端が下がっていく。老婆の声音は、急いで流れ落ちていくかのように連続して]
ごめん、ねえ。ごめんねえ。
婆ちゃん、…………あたしァ不安にさせちゃいけねェってのに
でも、ごめんよう。なんだか……なんだか……
―― ………。
……ごめんよォ**
『…うん、大丈夫。検査の結果も、数値は悪くないよ。急に冷え込んだせいじゃないかな。』
[黒ぶち眼鏡がトレードマークの主治医が言う。
長身ときっちりオールバックにまとめた長めの髪は、なんだか父を思い出させて、ほんの少しだけ寂しくなった。]
『散歩くらいならしても良いけど、あまり身体を冷やさないようにね。このまま調子が良かったら、お正月には外泊できるかもしれない。頑張ろうね』
[その言葉に、千夏乃は目を輝かせた。]
ほんと?お家に帰れるの!?
[この半年、一度も家には帰っていない。
それどころか、この病院から外に出たこともないのだ。]
『無茶して体調崩したらだめだよ。
ちゃんと薬も飲んで、好き嫌いもしないこと。いいね?』
[主治医の目をまっすぐに見上げて、ぶんぶんと首を縦にに振った。]
昼過ぎ、3階→中庭
[お昼すぎ。いつものように赤いオーバーを羽織って、大事な縫いぐるみの羊を連れて、中庭へ散歩に出ることにした。
千夏乃は知らないことだったが、前日、この病院では悲しい出来事があった。しかしそれは、巧妙に大人たちの手によって隠されていた。
特に3階の病棟には、多感な年頃の子供たちばかりだ。だから、その事件に関してはとても注意深く取り扱われていた。そのことも、千夏乃が感じた違和感と無関係ではなかったかもしれない。
ともかく、今朝感じた違和感はまだほんのりと続いてはいたが、主治医の言うように、急な冷え込みのせいなのだろう、と、気にしないことにした。]
寒いねえ。
[やはり返事はなかったが、羊をオーバーの胸元に挟み込むと、心なしか温かくなったような気持ちになった。
小さな中庭を、ゆっくりと横切って歩く。
中央の大きな桜の下のベンチに腰掛けて、ぼんやりと人々が行き交うのを眺めるのが、千夏乃は好きだ。
夏には何時間も、このベンチで過ごしていた。そう、この桜の下で。]
[ポケットから懐炉代わりのミルクティーの缶を取り出して、両手に包み込む。まだ熱いその缶も、マフラーのすき間に埋めてみた。
首元が温かいと、身体全体が温まるような気がする。それから、温まった手袋を頬にあて、白い息を吐きながら、通り過ぎる人々をただ、*眺めていた*。]
午後:屋上
[後藤の回診を終えた後、午後は非番となっていた。
自宅での静養を勧められたけれど、部屋でひとりになる方が余計に考え込んでしまいそうだった。
溜まりに溜まった書類整理を言い訳に、病院へ残る事にした。]
―――…、……さて、と、
[ここで良く、平家が煙草を吸っていた事を思い出し今日は一箱、煙草を購入していた。
大学の頃、父に見つからぬよう吸っていた煙草は、この病院に赴任してからきっぱりと止めた。
数年振りに吸ってみようと思ったのは……、止められても尚、止めなかったあの女性の姿を思い出したからだった。]
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