[1] [2] [メモ/メモ履歴] / 絞り込み / 発言欄へ
ねぇ、知ってる?
[ココアをテーブルに置く彼女もちらりと窓を鑑賞したように感じたから。]
…クリスマス、あれね
イエスの誕生日じゃないんだって
[窓の外の子供は、父親と母親の間で手を繋いで幸せそうに笑っている。きっとこれから暖かい家に帰って団欒の時を過ごすのだろう]
[案の定彼女は盆を胸に抱えたまま興味なさそうなありそうな読めない表情で僅かに首を傾げただけだった]
ふふ、ごめんなさい
あんまり気にしないで
[彼女の背を見送りながら、冷えた両手を温めるようにコップを持った。冬だというのに、店のどこかからカランと氷の回る音が聞こえた気がした。]
[冬香の家は四人の姉弟と両親、出戻り姉の娘の七人家族。だった。
事の発端は二年前。なんだかあの頃、色々なことが一度に起こったような気がする。
春。大学を卒業した末の弟がいつまでも家族に甘えていないで自立したい、と言って家を出ることになった。子供の頃の甘えん坊の弟の印象をずっと持ち続けていた冬香には、まさに晴天の霹靂だった。
小さい頃はいつもいじめて泣かせていた弟だったが、いなくなってしまうと何かぽっかり穴があいてしまったような、そんな寂しさを覚えた。]
[それから暫くして、下の姉が再婚するかもしれないと言い出し、夏休みの間に娘を連れて近くのアパートに引っ越していった。結局いつの間にか再婚話はなくなってしまったようだが、今もそのまま母娘二人で暮らしている。
秋には長姉が地方への転勤を打診された。仕事一筋で家庭に入るなど露ほども頭にない彼女は、あっさりと承諾してばたばたと荷物をまとめて出て行ってしまった。
急に半分になってしまった家族。家の中は以前よりずっと広く感じた。それでも、自分はきっとこのままここで暮らしていくのだろう、漠然とそう思っていた。]
[が、一番大きな変化が、よりによって自分自身に、訪れることになった。
忘れもしない。その年の暮れ、雪の夜。]
[ウエイトレスが音もさせずにテーブルにカップからは、柔らかな湯気と芳香が立ち上る。]
ああ、ありがとうな。
[一度も見た事はないが、この娘の笑顔って、どんな感じだろう──ふとそう思った。]
[いい人だと思う。
優しくて、気が利いて。
一緒にいると、いつも落ち着いて、安心できた。
小さな喧嘩を幾つもして、その度にいい関係になっていった]
そう思ってたのって、私だけだったのかなーって。
[カフェモカに口をつける。
温かい。
甘く優しい、ミルクたっぷりのココアみたいな人だと思っていた。
その奥の苦味には、気付けずにいた]
[カウンターの内側に目をやれば、店主がトマトを持って何か作っていた。
パンを焼く匂いが仄かに漂っている。注文した事はないが、他の客がこの店のトーストサンドを旨そうに食べているのは見た事があった。]
──トマトって、旨いよなあ。
[少しだけ、胸の奥が痛い。**]
ああ、マスター。
……その、何だっけ、BLTサンドだっけ、そいつももらっていいかい?
[それと、紅茶のおかわりも、そう付け加え。]
[短編集の一作を読み終えたところで、ストローで沈殿したガムシロップをかき混ぜる。作者の未完の遺稿と知ってはいたが、ここで終わるのかよ、と少し可笑しくなった。
ちなみに今日も、仕事に直接関係する本は一切持ってきていない。この店は、そういうところじゃない。少なくともおれにとっては。
メールは、まだ来ない。]
やっぱ、帰省するのが手っ取り早いか……?
[ただ待つより、そちらの方が確実そうだった。
気が進まないのは仕事の兼ね合いと、昨日届いた白黒刷りの葉書一枚のせい。]
『…クリスマス、あれね
イエスの誕生日じゃないんだって』
[しばし考え込んでいると、控えめなBGMに紛れ、そんな言葉が聞こえた。
へえ。初耳だ。
おれと三大宗教の接点は、世界史の知識が少々と、あとはせいぜい幼稚園が寺だったくらいのものだ。
それで正解は何なのだろう。
耳を澄ますが、その続きは聞こえてこなかった。
答えのない謎かけにでも遭った気分。]
[それにしても、そうか、もうそんな時期か。
師走。センセイが走る月。
塾講師をしているおれみたいな人間にとっては、実にぴったりの言葉だ。
センター試験まであと1ヶ月弱、受験を目前にした生徒たちのための集中講義や冬期講習の準備で大わらわだ。うちみたいな個人経営の塾でさえそうなんだから、大手のところはもっとだろう。]
[今日だって、夕からは仕事だ。
気づけば冬の日はもう赤みがかり始めている。
軽く腹ごしらえをしておこうと、ウェイトレスを呼び止める。]
ホットサンド、あります?
[店内に漂う微かな香りの誘惑は強力だった。]
[ベーコンレタストマトに卵たっぷりタルタルを挟んだBLTEサンドは人気メニューのひとつ。もちろん、卵抜きもあるけれど
大抵は作り置きのタルタルソースも、我侭な客のために玉葱抜きでつくりなおされる]
……ん、おいし
[半分を一息に食べてから、寒さで強張っていた肩からやっと少しだけ、力を抜いた]
[はじめは純粋に、惹かれあった。
ホットミルクのように、白く、すべてを保有してしまうあたたかさ。
ココアの、じんわりと広がる甘さ。
それらを共有した時間を過ごした。
ミルクとココアで、珈琲の黒と苦さを隠して]
[お互いの視線は、お互いをみているようで、
その実お互いをみていなかった。
彼の優しい視線に映り込んでいるのは私だけではなかった。
わたしが踏み込んではいけない、誰かが常に、そこにいた。
彼は、私が気づいていないと思ったのかもしれない。
はじめは、わからなかった。
それはきっと、彼の優しさ。作った表情。
ミルクとココアで隠したコーヒーがわかるまで、ずいぶんと時間がかかった]
[1] [2] [メモ/メモ履歴] / 絞り込み / 発言欄へ