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夜
[敷地内で飛び降りた柏木はすぐに発見されただろう。もしかしたら医師を呼び出す緊急アナウンスが流れたかもしれない。
そして末期癌の患者が息を引き取るのも、穏やかな死は、それこそ病院中に溢れている。
けれどそれも、日常のひとつだった]
…あ、おばあちゃんに挨拶行かなきゃ
[結局昨日は会えなかった。手術を明後日に控えた少女は、ぼんやりとしか心に浮かばない家族のそれよりも、ぼたんの笑顔が見たいと――
ベッドの中で、小さく微笑んだ*]
[今日は手術の前準備がありますからね、と看護師が生真面目な表情で説明をする。初めてではないから、半ば聞き流して、病室を出て行く看護師を見送った]
麻酔の先生と、あと…
…痛いなあ
[今朝の点滴は、巧くいかず鈍い痛みが腕全体に広がっている。それでも空き時間に、今日やっておかなければならないことは沢山ある。少女は病室を出て、エレベーターに向かった]
[エレベーターの扉が開く。
一歩踏み出して、右へ曲がって。顔を上げると、廊下の奥に窓がある。そこからは遠く空が見えて、夕方になると日が差し込んできて、夕方暇になると1階ずつ降りていって夕日を追いかけたりしたものだった。
そんなことに夢中だった、もう10年くらい前のこと、だけれど]
…あれ?
[窓の前にバリケード、というとおおげさだろうか。近寄れないように柵が設けられていた]
[通り過ぎた病室の中から、不安そうに囁く声が届く。振り切るように足を進め、531号室の前にたどり着けば]
……あれ、柏木さん
[ネームプレートが入っていなかった。
扉をひいても、鍵がかかっているのか軋んだ音を立てるのみ]
いなくなっちゃった、のかな
[あの状態で、とも思う。
約束したのに、とも思う。
退院した、とは独り言でも言葉にできなかった]
時計…どうしよ
[左右を見渡しても、顔見知りの看護師などはいなく、あとで先生に聞いて見よう、とその場を後にした。
一人で出来ることは、とても少ない。
一旦病室に戻った少女は、点滴のパックを取り替えてもらってからもう一度廊下に出た。
今日のパジャマは樹みたいな茶色。柔らかい生地が乾燥した肌と擦れてかさりと音をたてた]
ラウンジ
[こん、と咳をひとつ。ずれた眼鏡を右手で直した。たどり着いたのはラウンジ。扉を開けて、いつもの椅子へ歩み寄る。
からからと点滴装置を引いて、血色の悪い顔色に表情はなく。
ぼたんがいれば、声をかけるつもり。
いなければ…たまには、その椅子に座ってみようか]
よく……うーん…まあまあかな
[夜中に吐き気を覚えて目がさめたことは言うつもりはない。入院してから増えた薬の副作用だろうと、見当はついている。
ぼたんのくしゃりと寄った顔は感情が読み取りにくく、けれど下を向いて椅子に座った少女にはそもそも見えていなかった]
おばあちゃん、私ね…明日
………んと、検査があって
おばあちゃんの顔が見たいなあ、って思って
[痛みを隠す表情はなく、俯きがちに顔を背けるのみ]
………ありがと
[顔は見せないようにして、ぼたんにそっと抱きついた。老人の匂いがしたけれど、家族との触れ合いは少なくとも、それは病院の匂いを忘れさせる懐かしい匂いだった]
元気に…な った
元気、返すね
[少しだけ力を込めてから腕を離した。点滴の管が椅子にあたり音を立てる。
顔をあげた少女の表情は、少しだけ口元が歪んでいたけれど、泣き顔にはぎりぎりなっていないはずだ**]
やだな、謝らないでよ
ほんとにただの検査だからさ……
だから…今度こそ、また
[視線を反らす。次の言葉まで間があいた]
……また明日ね
[唇を引き結び、白い頬は強張ったまま。
立ち上がると点滴装置を握り、右手はひらりと振って]
603号室
[病室に戻った少女は荷物の整理を始めた。未だ半分以上は未読の本の山を鞄に詰め、洗濯して感想させた着替えをその上に重ねた。
昼食が今日最後の食事となる。売店で買ったプリンをデザートにして、歯磨きを終えれば歯ブラシセットも鞄に詰め]
個室はやっぱり…広いよ
[片付いた病室に背を向け、再び入院棟内を歩き始めた]
[点滴装置の持ち方も堂に入ったものだ。エレベーターに乗って、少し迷って押したのは、五階も四階も通り過ぎて、結局一階に降り立つ。
明日は家族が来ることになっている。無事に手術が終わって病室に戻ったら、退院したら。一緒にご飯を食べるのが恒例となっていた。大抵、退院後すぐはろくに食べれなくて、美味しいとも思えないのだけれど。
すれ違う医師の顔をひとつひとつ確かめる。知った顔があれば、柏木がどうなったのか、約束の、時計がどうなったのか。聞きたかった。取りに来ますと言った自分か、置いておくと言った彼か。約束を破ってしまったのはどちらなのか、はっきりさせたかった]
[売店を覗いて大好きなお菓子を買った。勿論今は食べられないけれど、きっと母親も好きだったように思う。だからきっと、無駄にはならない。
六階に戻ると、廊下の隅まで行って夕日を眺めた。それは柏木が落ちた窓のひとつ上で、そうとは知らずとも、目に留めた看護師の一言で、夕日を最後まで見送ることは出来なかった。
だから病室に戻って、ただ海を眺めることにした。
赤く染まる海。
暗く、一足先に夜を感じさせる海。
いつか還っていく、海]
ごめんね、おばあちゃん
[手術が無事終わったとして、明日は無理だったな、と今更気づく。そんなつもりはなかった。嘘をつくつもりではなかった。
また、戻ってきたい。
その想いを現しただけで――守られることのない、約束。
待たないで、と明日のぼたんを想い、ベッドに入った。
あとはうつらうつらとしているだけで、知らぬ間にカーテンは引かれ、点滴は交換され、夜は、最期の夜は――更けていった]
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