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[千夏乃は数学が好きだ。
好きな科目は音楽と数学。そう言うと、変わってるね、とよく言われるのだが。
どちらにも、世界の秘密が隠れている、と、千夏乃は思う。
ひとの心の秘密、ひとの手の及ばない地球や宇宙の秘密。
美しい数式は音楽のような感動を呼び起こすし、美しい音楽には数学的な音と音との関係性が隠れている。]
…ほら、ここ。ここでね、お風呂があふれるんです。面白いでしょ?
[それは半ば、独り言のように。]
あーあ。早く明日になったらいいのに。
明日、夕方からおとうさんと弟が、来るんです。
ほんとうは昨日、おかあさんが来るはずだったんだけど、お仕事で来られなくなっちゃった。
[鉛筆でくるくると宙に円を描きながら、頬杖をつく。
千夏乃はおとなしい子供ではあったが、おしゃべりな方だ。放っておくと、一人でも延々と喋り続ける。今日も、ゴトウが口を挟まない限りは家族のこと、好きな歌のこと、大事な羊の縫いぐるみのこと…静かな口調で、しかし坂を転がる石のように、次々に言葉が紡ぎ出される。まさに、ちょっとやそっとじゃ止まらない、というやつだ。
しかしある時不意に話をやめて、千夏乃は窓の外に視線を移す。]
夜・314号室
今日は、楽しかったね。
[新しいシーツの中、縫いぐるみを抱きしめて、呟いた。]
明日はもっと
[いい終わらないうちに、少女は夢の中。]
朝・314号室
うわあ……!
[朝。何気なくカーテンを開けて、千夏乃は感嘆の溜息をついた。
青空に架かる、連続的なスペクトルのアーチ。その外側には、うっすらと二つ目の虹が見える。]
よかった、晴れた。
[せっかく、家族に会える日なのだ。曇り空じゃ、つまらない。]
『虹が出たなら きみの家まで
なないろのままで 届けよう』
[両親の好きな昔の歌を口ずさみながら、身支度を始める。
とはいえ、長い髪をきれいに編み直すくらいのものではあるが。]
午後・3階、談話室
[昼下がり。低くなり始めた太陽はやわらかく温かな日差しを投げかける。
千夏乃はそわそわと落ち着かない。
もうすぐ、父と弟が見舞いにやってくる。]
まだかな。
[ノートを広げてはいるものの、そこには落書きばかり。]
[頬杖をついて、テレビを観ているそぶりで。しかし、キャスターの声も、コメンテーターの声も、まったく頭に入ってこない。と、]
『チカノちゃん。お父さん来たよ』
[ステーションから若い看護師が顔を覗かせた。千夏乃は跳ねるように椅子から立ち上がり]
[肩まである髪を後ろに束ねた長身の父。モス・グリーンのジャケットとチョッキがよく似合う。
2週間前に会ったばかりなのに、もう懐かしく感じる。]
……おとうさんっ!
[千夏乃は駆けだして、父親に飛びついた。
モス・グリーンのジャケットから、懐かしい匂い。]
『良い子にしていた?チカノ。
お母さんが、残念がっていた。職場のひとが急病で、ピンチヒッターだったんだって。次のお休みには、必ず行くから、って。来週は私も同じ日にお休みだから、皆で居られるね』
[父は少し屈んで、娘の頭を撫でた。
千夏乃は良い子にしていたかな、と自問して、『概ねイエス』という結論を出し、頷いた。]
『…おねえちゃん、今日はげんき?どこもいたくない?』
[父の陰から、小さな弟が顔を覗かせる。彼が前に来た時はあまり調子が良くなくて、ずっと伏せっていたのだ。どうやらそれを覚えていて、気にしているらしい。]
ありがとう。今日は、元気だよ。
ハルちゃんも元気?
[答えて、今度は千夏乃が、少し屈んで弟の頭を撫でた。]
前日の3階・談話室
排水口…。
[ゴトウの提案に、ふと思案顔になった。]
出て行くお湯と、注ぐお湯の量が違ったら…傾きがかわる、のかな?うん、たぶん。
[しばらくぶつぶつとつぶやきながら考えて、それからぱっと顔を上げ]
出て行くお湯の方が多かったらいつかお湯はなくなるし、注ぐ方が多かったら、またあふれますね?
[千夏乃は楽しそうに、ころころと笑う。彼女の頭の中では、あふれるお湯がフルカラーのアニメーションで再生されているのだ。]
『本当に正しいってことが自分で示せる』
[ゴトウの言葉に、千夏乃は深くうなずいた。]
そう。グラフが描けないくらい、ずっと遠くの話でも、式があれば想像できる。ここにないものを、目にみえる形にしてくれる。そこが、すごいんです。
歌もね、同じなんです。
奥底に隠れてる人のこころを、形にしてくれる。だからわたし、数式と歌が大好き。
友達はみんな数学が好きじゃないから、チカノは変わってる、って、言うけど。
[唇をわずかにとがらせて]
……もっともっと、色んな知らなかったことを、知りたい。わかりたい。
もっともっと、隠れてるわたしを、知ってほしい。
そうしていつか大人になったとき、自分の力で何かあたらしいものを作り出せたら、見つけ出せたら……素敵だと思いませんか?
[千夏乃はまっすぐに、ゴトウの目を見つめた。]
昼過ぎ、3階・談話室
[いつもの通り自習セットとマグカップ、ひざ掛けを持って、千夏乃は談話室へと向かった。もちろん、羊の縫いぐるみは手放さない。
しかし今日は、勉強なんてできる気がしなかった。
夕方には父と弟がやって来る。それを思うと、気もそぞろになるというものだ。
そわそわしながらもノートと白湯を準備して、ひざ掛けを広げたとき。なにやらがさがさと響く音。]
[売店の袋をがさごそ鳴らしながら現れたのは、人形を抱いたお婆さん。
見舞い客、にしては、外を歩く服装ではない。
千夏乃は興味を覚え、羊を連れて自動販売機のそばに掛けた彼女に、近づいてみた。]
…こんにちは。お見舞いですか?
[よその病棟に入って怒られないのだろうか、と思ったが、お婆さんは師長や医師たちよりもずっと年上なのだから、怒られないのかもしれない、と思った。]
えへへ。お誕生日に、もらったんです。
おばあちゃんのお人形さんも、かわいい。
[羊を口元に掲げて、笑う。
それから、人形に羊の鼻先を近づけて]
「こんにちは。おなまえはなんていうの?」
このこ?このこはね。ぽーちゃん。
まっしろふわふわの、ひつじだよう。
[お人形のほおを撫でて、千夏乃は答えた。]
お人形さんは外国からきたの?長旅だったのね?
――もしかして、おばあちゃんが子供の頃のお話、だったりするんですか?
[目をまるく見開いて、問う。]
……こはるちゃん?
[突然飛び出した名前に、首を傾げる。
千夏乃は個室だし、あまり他の子供と面識はない。]
わかりません。わたしが知ってるのは、三つ隣の部屋の、あっこちゃんくらい。でも、あっこちゃんはまだちいさいんです。わたしより大きいひとは、えっと
[そういえば昨日の、と、彼の名を思い出そうとした時、談話室に当の本人が、現れた。]
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