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[整髪料もつけず乱れた前髪がわずらわしい。
腕から伸びた点滴も、2週間もすれば無意識にひきずることが出来るようになってきた。
外来棟から入院棟に戻り、病室へ向かう途中。椅子のすぐ傍で、立ったまま、壁に凭れ深く息をついた]
……は、疲れるなんて
情けない
[体調に不安を感じたのは、最初はいつだったか――去年のことだったように、思う。正月、実家に帰るべきかと頭を痛めていたことを、覚えている。
気のせいだと、時間がないと
自らをだまし続けたつけが、今の自分だ]
…あずきが入っていて。
ちりめんの布がさらさらしていて
懐かしい匂いがするの。
[戻ってくる声があってもなくても、
私は車椅子に座ったままで話をする。
海の音は
あずきを揺する音と
少し似ているなって考えてみたり。
お手玉があったら
少なくとも両手は退屈しないと
少し期待をしてみたり。]
あのころ
[女房と出会ったのは飲み屋だった。
とある離島から集団就職で上京した兄に呼ばれ
母と妹、弟と慣れ親しんだ島を離れたのは
中学を卒業する前だった。
もちろん、学校へ通う金などなく
兄の塗装の仕事を渋々手伝って成人を迎えた。
飲み屋で出会った女は、人妻だった。]
[結婚した瞬間に、父親になった。
三歳になる女の子は俺を「お兄ちゃん」と呼んだ。
「パパのところにかえりたい」と言うので
「パパはお仕事だから、
お兄ちゃんが「お父さん」になってあげるよ」と言ったら
にこにこと喜んで飛び跳ねていた。
実際、「パパ」は仕事と女遊びで
家庭を顧みなかった男らしい。
娘はすぐに懐いて「お父さん」と呼んでくれた。
女房は「ママ」のままだった。]
[それから二年後、血の繋がった娘ができた。
赤ん坊を抱いた瞬間の幸福感を
忘れることはないだろう。
兄と仲違いし、塗装屋を独立させたのもこの頃だ。
家族を養うことの喜びに溢れていた。
それと同じくらい家族に触れ
絵を描くのが好きだった。
だから一件塗り替えの仕事を終えると
その金が無くなるまで、仕事をしないサイクルだった。
生まれたばかりの赤ん坊と女房を、写真へ収める。
現像した写真を見ながら、油絵を描くためだ。
「お父さん、あたしも撮って」と
駆け寄る義娘が煩わしくなって
蹴り飛ばした。
血の繋がりが、愛おしい頃だった。]
[短い時間だったけれど、
日差しの中で懐かしい時間を持てた。
嘘でも夢でも無い本当の思い出。
私の中にあった思い出。
腿を擦って、からりと車輪を回した。]
…また会える?
[お婆さんに訊ねて、
叶うなら「またね」の約束を交わし。
私は、ロビーから離れる。]
[時は流れて、義娘の下に三人の娘ができていた。
家族が増えても、仕事のサイクルは
相変わらずだった。
金がなくなると、女房を夜の仕事へ出させた。
絵を描き、娘達と遊ぶ時間だけが楽しみだった。
此方の表情を窺う義娘がかわいそうで
時折、学校の宿題を見てやったりした。
けれど、夜居ない女房の代わりに
家事が出来ていないと、義娘に手を挙げた。
口答えする女房を、何度も殴った。
仕事をしなければ。
けれど、俺がやりたいのはこんな仕事じゃない。
ジレンマで増殖するフラストレーションを
家族へぶつける日々が、続いた。]
ふぅ…
[立ち上がると、近くにあった窓口の老眼鏡を少し拝借する]
ふむ、いい塩梅だよ
[試しにかけて、窓口のチラシのようなものをじっと見る。文字はまだ小さいが、何とか読めた。
眼鏡を手に取ると、もう一度同じ場所に向かい、腰掛けた。
しかし雑誌をとりに行く前に少し陽だまりの中でぼんやり一息ついていたとき、目の前に車椅子の女性が近づいてくるのが見えた]
? こんにちは
[まっすぐ自分に向かってくると見える彼女を、不思議に思いながらも挨拶をした]
…お手玉 そりゃあ作れますよう
作れるけど…、お嬢ちゃんが遊ぶの?
[何しろ散歩に出ない間は部屋で無心に縫い物をしているのだ。
最近は目が悪くなり、縫い目が粗くなったものの、まだまともにできるものと言えるだろう]
いまの若い子はあれじゃないのかね
ディーエスとか
[自分にしてみれば10代も20代も同じだ。
さっきぶつかりそうになった子もなにかそれらしき機械を持っていたし、ある程度成長した孫も遊んでいた気がする。
お手玉を求める彼女を不思議そうな顔で見た]
[あずきが入って…という言葉に、ああ…と目を閉じる]
そうだねぇ、上げるとじゃらって音がするね…
そうだねぇ、よく遊んだものだよ…
[一時、もう遥か昔、田舎の山の夕暮れが瞼の裏に浮かぶ。そしてふと目を開けた]
そうだ、はぎれが少し持ってきたのがあったね
茜色のちりめんと、紫色のがあるよ
あずきは…職員さんに買ってきてもらいましょうか
[自分でもすっかり乗り気になっていた]
うん、作れますよ
わたしの作ったのでよければ
廊下
[長い廊下を車椅子で進むのは一苦労。
腕の力も随分と落ち込んでいるみたい。
休憩に停まった窓際で、
先程の、お婆さんとの話を思い出す。
柔らかな声が耳に残っている。]
回想・ロビーで
…そう、私が遊びたいの。
おかしい?
[十分に大人の顔つきをした私は、
少しだけ気恥ずかしくて
そろりと両肩を上げて首を傾けた。
ゲーム機を欲しいと思った事はない。
小さい頃から
外を走り回っている方が好きだった。
体を自由に大きく動かすのが好きだった。
お手玉やけん玉やコマ回しも。
とても好きだった遊び。
だから、作ってくれると言って貰えて。
とても久しぶりに笑顔になれた。
茜色も紫色も素敵だと喜んだ。]
[微笑んで頷いた。彼女は欲しいと言っただろうか。
また会える?との問いには]
わたしはここにいますよ
このあたたかーい場所がわたしの定位置なんです
[とまた少し微笑んだ]
また会いましょう
えーと、…
[名前を聞けば、呼んで、座ったまま、去る彼女に小さく手を振った]
…足が悪い子なんだね
若いのに、難儀だよ
[彼女が去った後、ポツリと呟いた。
自分より若い人々と同じ空間に居られるこの場所は介護棟よりよっぽど好きだ。
でも、みんな、どこがが悪くて辛いのだと思うと、なんだか申し訳ない気分にもなってしまう。
彼女や、さっきぶつかりそうになった子供のことを考え、静かに目を閉じた。
ぽかぽかとした陽だまりと、病院の薬品の匂いの中で、しばらくじっと目を閉じて、静かなざわめきを聞いていた**]
…クルミ。
此処に住んでるの。
[去り際に、
手を振り返して名前を教えた。
病室から出ることはあまり無いけれど、
また、来ても良いなって思えて。
私はそのひとときを笑って過ごした。*]
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