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……そうかァ。あんがとなァ。
[少女の答えに、マティアスは複雑そうにしながらも礼を述べる。
彼女は、か細く小さな声で、間違いなく一人の名を言ったのだ。]
……なァ。ミハイルはいるかィ?
[ゆっくりと立ち上がり、少女が呼んだ相手に、そう呼びかけた。]
[水に毒を流し込むのは、内側から敵兵を崩す為の常套手段。
腹を下す類の毒は簡単に手に入った時代。
非日常的な生活を送るに当たり真水を飲む事も多々あった。
その度に動けなくなっては、ただの肉人形だ。
盾になるだけ、犬や猫よりはマシかも知れないが。
それよりも、脇腹の致命傷を受けた事が一番頭に残っている。
抉れた皮は、肉は夥しい血を流し。
捲れた肉皮から覗く白い肋骨は砕けていた。
泥水の浮かぶ地面から顔を上げようにも、
力は入らず、生臭い臭いと強烈な痛みの中で――
はやく、 ――らくに、なりたい。
護るものなど、故郷には無いのだから。
帰る場所など、もう無いのだから。
熱林の中、苦しみに唸りながらそう願った。
開いた瞳孔は、誰かの影を最後に映して瞬き一つしなくなった]
―― カーテンのない部屋 ――
[降りしきる雪の質は、
もう厳冬の其れと同じもの。
イルマの遺体を迎えに外へ出ていた
養蜂家の衣服は、乾いた粉雪を払って
落とせば濡れはさしたるものでなく。
重ねたタオルに包まって過ごせば、
窓から冷え込みの沁みる部屋でも
時折震える程度で座っていられた。]
[まだ雪質が湿って重かった過日。
振り返らずに、先を踏み固めて
あるいていった若き司書たる彼。
いささか素直すぎるとも感じながら
その背を見守って歩いた年嵩の男は、]
[――――ひとりの部屋で、過日と同じ、
荷馬をあやすときの声をちいさく立てる。]
ほうい ほうい
[ここにいるよ。][…ここにいる。]
[先ゆく若者は過日、ひとりではなかった。
いまは届かせる気のない声が、彼のために*]
―回想・子供の頃―
[そういえば、マティアスの異能に気づいたのはいつだっただろう。
確か、そう。
まだ子供の頃、両親を事故で亡くした時だ]
[当時は近隣でも珍しかった写真館を営んでいた事もあり、時折、両親は近くの村まで写真を取りに行っていた。その間、まだ少年だった男は祖父の元でカメラを触らせてもらっていた]
[その日、両親は2つ先の村まで写真を取りに行っていた。
いつもは翌日には帰って来るのに、一向に帰る気配がなく、不安で不安で押しつぶされそうになっていた時――]
[マティアスが、見えない両親と会話をしていた。
『事故にあったって言ってる』、確か、そう伝えただろうか。
――両親が帰りの道で落盤に遭い、死亡したという報が入ったのは、それからすぐのこと]
[幻想的な、
痛みも、苦しみも無いアクアリウム。
暗い水の底で、上を見上げれば仄かに明るい。
煌く水の動きを追い、踊る海藻を見つめて。
魚達の息吹を、直ぐ傍で感じた―――いつかの記憶*]
[マティアスが、自分が死者の声が聞こえると知ったのは、自分の親が死んだ時だった。
死んだと言われても、声が聞こえて、会話ができるのだから、マティアスにとっては生きているも同然で。
しかし周囲は、親を亡くして寂しかったんだねぇ、可哀相にねぇ、と憐れむばかりで、彼自身が認知できている親の存在を認めようとはしなかった。
それでようやく、自分が聞いている声は、他者には聞こえていないのだと気付く事ができたのだ。]
[それ以来、なるべく他者には知られないように気を付けていた。
もしうっかり亡者と会話をしてしまっても、独り言だとか、気のせいだったとか、適当に誤魔化して。
だが、ユノラフの親が事故で亡くなった時は、自分からそれを曝した。
もしかすると、友に嫌われるかも知れないと言う懸念はあった。
けれども、それ以上に、友を案じる二人の親の言葉を、友に伝えてやりたかったから。
嫌われるのにも慣れていたから、だから、告げた。]
[しかしユノラフは、この異能を嫌悪はしなかった。
だから、それ以降も、亡者となった彼の祖父や恋人、友人などの言葉を、幾度となく伝えた。
怖がらずにいてくれた事への、自分ができる恩返しのつもりで。]*
[司書は、ミハイルのほかにもうひとり、
黒を背負う者を識っている。
――いちど、ミハイルを見上げ。
『告発』の行為が彼を裏切る事になるのならば、
この口を開かぬまま、
ミハイルと共に去ってしまおうか。
異能持ちと信じてもらえぬ『狂人』ではなく、
ほんものの、『狂人』となってしまおうか。]
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