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病院へと至る道
[その日の午前中。
彼女はいつものように、通いなれた歩道を歩いていた。
少し離れた場所には病院が見える。
この交差点を過ぎれば、建物が影になって見えなくなってしまうだろう。]
[今日は何を歌おう。
そんな事を考えながら、警備員の男性へすれ違いざまに挨拶をする。]
こんにちは。
いつもお疲れ様です。
[ぺこりと頭を下げて、返事は確認しないまま再び歩いていく。
これはいつもの事。
健常者ならまだしも自分と挨拶を交わすという事は、間違いなく彼の仕事を邪魔する事になってしまうのだから。
だから、その時点では彼女は気付かない。
彼が決して返事を返さないという事には、気付かない。]
中庭
こんにちは。
[昨日も会った老女の姿を見つけると、挨拶の言葉をかける。
ベンチに座った小さな老女は、更に小さな腕の中の人形に話しかけていてこちらには気付いていないようだった。
けれど、それも気にするそぶりもなく、邪魔をしないようにか少しだけ離れて。
空を見上げた。]
[今日は何を歌おうか?
こんな空が近く見える日は、あれがいい。
祝福の歌。
アヴェマリア。]
Ave Maria
gratia plena...
[その歌声は、空にとけるように吸い込まれて行く。]
Amen...
[やがて歌い終わり、結びの祈りを捧げると、それまで気にしていなかった周囲に顔を向ける。
その時に初めて違和感を感じた。]
…?
[誰一人として、こちらを見ては居ない。
拍手とかが欲しかったと言う訳ではないけど。
通り過ぎる人も廊下を歩く人も中庭に居る人も、誰も彼女を見ては居ない。
声が出ていなかったのだろうか?
いや、そんな筈は無い…と思うけれど、自信が無かった。
何せこの耳はポンコツなのだから。]
[遠い病室の少女の耳に、彼女の歌は届かない。
いや、誰にもその歌声は届いてはいなかった。]
…何か、変。
[いつもと違う。
その不安は、胸の中でもやもやと渦を巻く。
今はまだ不可解さの方が勝っていて、そう大きいものではなかったけど。
丁度手近に居た入院患者の男性に目を向けて。
確認をしようとして、挨拶の言葉を述べる。]
こんにちは。
お散歩ですか?
[会釈をして。
普段ならそのまま歩いていく事の方が多いが、男性の事をじっと見つめる。
しかし、男性の様子は声をかける前と、全く変わらない。
返事を返すどころか、こちらを見てすらも居なかった。]
[その後、何人かに同じ事を試したが、誰からも返事が返ってくる事は無かった。
中庭から受付へ。
受付からラウンジへ。
病棟、病室、ナースセンター。
どこへ行こうと。
結果は同じ。]
[気が付くと、普段は来ないような奥深くまで入り込んでしまっていた。
彼女は知らなかったけれど、そこは病院の中でももっとも暗くて冷たい場所。
霊安室の、すぐ傍。
そこで彼女は見ることとなる。
目にハンカチを当てている母親の姿と、布をかぶせられ、車へ運ばれようとする――自分の遺体。]
あ…
[ぞくり。
背中に寒さが伝った。
立っていられない。
目の前がくらくらする。
いくら布がかぶせられていても、直接見ることが出来なくても。
アレが自分である事は、何故か疑いようも無いほどに分かってしまった。
そうだ。
なんで忘れていたんだろう?
昨日、帰り道、急に強い光が向けられて、その後意識が暗転して、そして――]
私…
死んじゃった…のか…
[口にしてみても、実感は無い。
唇が乾く感覚だって、まるで生きてる時のようなのに。
けれど、彼女の本能が、彼女の記憶が、何より娘に気付かず敷地から離れようとしている母親の姿が、彼女の死を肯定していた。
声をかける。
そんな行動すら出来ず、ただ、母親が遺体と共にどこかへ行くのを呆然と見守るしか出来なかった。]
[誰も居なくなった出入り口を見つめながら、ぼんやりと思う。
母は、今頃家に向かう最中なのだろう。
そしてそこで葬式を行うつもりなのだ。
父はきっと、その準備の為に忙しいのだろう。
実家に住んでいる頃、時折見かけた光景が頭に浮かぶ。
幼い頃から見慣れていた十字架。
その前で、悲しげに沈んだ表情の喪服姿。
流れるのは清らかに澄んだ声の賛美歌。
他の人に混じって歌った事だって、何度も何度もある。]
――…慈しみ深き 友なるイエスは
我らの弱さを 知りて哀れむ…――
[か細い声で口ずさまれるそれは。
昨夜も自ら歌った、聖なる歌。
鎮魂の、あるいは祝福の、祈りを捧げる為の歌。]
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