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…… もう、 好きにはさせない。
消して、……
消えて、やる。
[その残骸たる黒を睨み付けるように見据え、呟いた。筆を水入れに付け、そのまま手を離す。筆は一度僅かに沈んでから其処に浮いた。筆先から滲み出す黒が、水の色彩を呑み込んでいき]
[そのキャンバスとイーゼルを中央に配置してから、男は窓際に寄った。珍しくカーテンを開き放していた、その窓をがらりといっぱいに開く。
吹き込んできたそよ風が、壁に貼られた絵の端をひらひらと揺らした。
それから、男は修理した時計を手に取った。ベッドのサイドテーブルに丁寧に畳んだハンカチと並べてそれを置き、一枚のメモを書いて脇に添えた]
[そのメモには、
――「誰か」に渡して下さい――
そう一文だけが書かれていて]
[その後、男は部屋を後にした]
[かつり。ぺたり。
松葉杖を伴う足音を響かせながら、男は廊下を歩いていった。そして、廊下の端、周囲に部屋もない行き止まりで、人通りの少ない場所で足を止め]
……、
[窓際に立ち、硝子の向こうに広がる空を、橙が混じりつつある、鮮やかな、綺麗な空を、*眺めた*]
[己が見えるところまで来た結城の存在に、すぐに気が付く事はなく。僅かにふら付きながらも、男は松葉杖を持った片手で窓を開け放った。夕方の冷えた風が吹き込み、帽子から漏れた髪を揺らす]
……
[落ちるような青。焼けるような橙。散りばめられた白。重なって浮かぶのは、淡い緑に、銀混じりの紫に。奈落のような、暗い藍に]
……、
[あの時とは違う、と思った。
此処に入院する要因が作られた、時。
あの日は、空は暗く曇っていた。
冷たい雨が降っていた]
[男は高所からの落下事故により此処に入院する事になった。そうして生じた複雑骨折は片足を失わせるまでのものだったが、それ以外に重大な怪我はなかった。落下した箇所が自転車置き場のテントの上だったのが良かったのだという話だった。
落下事故。割合と知られた画家である男の不幸は、けして大きな扱われ方ではなかったが、メディアにも取り上げられた]
[事故。
それは、本当は事故などではなかった。
男は、その日――自殺を試みた、のだった]
[男は幼い頃から絵を描く事が好きだった。本来色のない物に色を、あるいは物に本来とは違った色を見る――共感覚と呼ばれる能力の一種を、男は生まれながらにして具えていた。男の瞳に移る世界はとても鮮やかで綺麗で素晴らしかった。だが周囲の人間に幾らそれを伝えようとしても、同じ感覚を持たない者達には、正しくは伝わってくれなかった。故に、その世界を、出来る限り伝えたいと、男は絵に熱を注ぎ出したのだった。
そして二十代の始め、前衛寄りの風景画家として世に出た。その色彩感覚は。鮮やか過ぎる程の色彩と対照的な精密な描写は、それが合わさった独特の画風は、相応の評価を受けた。
一部には、過去の天才達の再来だとまで、言われた。男は、満足していた。誉めそやされる事ではなく、己の世界が伝わった事に。
評価する人々はその世界に魅せられてくれたのだと。信じていた]
[――柏木さん。
そう呼ぶ声が聞こえて、男ははっと其方を見た。其処には、目がない笑った人間が――否。結城、が、立っていた]
…… 結城、先生。
[散歩に、という誘いには答えず、ただその名前を口にした。結城は、笑っていた。笑っているように、男には見えた。それも、嘲笑うそれを、浮かべているように。
――全ては、妄想だった]
[世に出てから数年経って、男はより人気を得た。それから更に数年経って、男は、――落ちた。
何も描けなくなったというわけではない。絵自体が変わったわけでもない。人気が全てなくなったわけでもない。だが、少なからず、評されるようになった。画家「レン」は、終わったと。所詮インパクトだけに過ぎないような、流行のような、天才もどき、凡庸な創作者に過ぎなかったのだと]
[男は、思った。
何故なのか、と。
自分は名誉など欲しいわけではないのに。自分に才能があるとすら思っていないのに。自分は、ただ、この素晴らしい世界を、他の人にもわかって欲しかった、見て欲しかった、だけなのに。
その想いは果たされたと、思っていたのに]
[そうして、男は病んでいった。男の描く絵は、段々と暗い物になっていった。
男は少しずつ思うようになった。周囲の人間は、自分の世界を本当に見ても、素晴らしいなどとは思わないのではないか。綺麗だ、などとは。もしかしたら、鮮やかだ、とすらも。だから彼らは自分をくだらないとわらう]
[笑う。わらう。わらう、……]
[皆、笑っている。
皆、自分を笑っている。
皆、自分の世界を、笑っている]
[男は、そう考えるようになった]
[男は、妄想に、狂気に、取り憑かれた。その頃から、男の描く絵は変わった。男はサングラスと帽子とマフラーを欠かさないようになった。
笑う目を見ないように。笑うあいつらは色に閉じ込めて。笑わない、恐れる目を、見られないように。口を見られないように。笑わない、それすらも、笑われる、それを、避けるように]
[妄想を恐れ続け、
妄想に追われ続け、
男は、その日、己の住むマンションのベランダから、飛び降りた。あいつらが、消せないのなら。自分が、消えてしまえば。助かるのではないかと。もう苦しむ必要もないのではないかと]
[だが、それで男が死ぬ事はなかった]
[打った体、砕けた左足、それらの痛みは、感じもしなかった。雨に濡れながら、男は暗い空を仰いだ。刹那、唯一愛し続けていた色彩にすら、見放されたかのような気持ちになった]
[「また」など、「明日」など、訪れはしない。訪れてはならない。そう考えながらも声にはせず、男はユウキの姿を見送った]
[そして、窓枠に、両の手をかけた。ぐらつく体に、窓の縁に一旦肩を預ける。窓の外に広がる空を仰ぐ。先よりも橙を増した空は、綺麗だった。何処までも何処までも、綺麗だった]
[――ぐしゃり。
穏やかならざる音が響く]
[かつて落ちた時と違い、痛みを感じた。今度は失敗ではない故なのだろうと、考えた]
[地面に仰向けた男の右腕は左足と共にあらぬ方向に曲がっていた。落ちていた瓦礫の上にあたった左の脇腹は、その先端に抉られ貫かれていた。何より、男の頭は、割れていた]
[傍らに落ちた帽子の濃緑を、首に巻き付いたままのマフラーの薄緑を、地面を、鮮やかな赤が染めていく。広がった黒い髪、そのちらほらと混じった白い部分も、赤く染められ]
――……、
[サングラスはブリッジで二つに割れながら少し離れた場所に飛んだ。切れ長の、黒い瞳が、無彩な代わりに全ての色彩を歪みなく映し出す瞳が、空を、鮮やかな空を、虚ろに見据える。男は薄く唇を開き]
…… ああ。
綺麗、 だ。 ……
[ぽつりと、掠れた声で、満足げに、呟いて。やはり満足げに、男は笑った。
そして、男は目を閉じた。
最後に鮮やかな色を残して。最後に鮮やかな色を見て。色彩の夢に、*沈んでいった*]
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