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ラウンジ
[話し相手の消えたラウンジで、彼女はそっと、周囲の話声に耳を傾けた。同じようなことが、違った声色で、宙を漂っていた。
彼女は不意に息苦しさを覚え、喉をさする。さまざまな言葉が蔓延するその場で酸素を失ったようにしながら彼女は人形を抱きすくめた。]
[その日、彼女は昔の夢を見た。]
[彼女の夫も、娘も、それから孫たちもいる夢だった。
彼女らは楽しげに海辺を歩いていた。
孫の手に合ったのは だった。
彼らはそれを美味しそうに食べていた。
それだけだった。
足元に寄せる波はきらきらと反射し、夢の情景に輝きを添えていた。]
朝 病室
[彼女は一人で起きて、寝台の上に座っていた。
先日の我儘など思い起こさせないような素振りで、礼儀正しく看護士に対し食事もきちんと、とった。]
……今日はァ、いい天気かねェ
[窓の向こうを見ながら、彼女はぽつりとつぶやいた]
[老人は年寄り特有の動作で重そうに体を起こした。
人形と、裁縫道具と、それから先日買い求めた菓子の詰まった袋を持ち、彼女は病室を後にする。]
午前 ラウンジ
[彼女はやはりそこにいた。
いつもの定位置で、膝の上には人形のスカートを広げて、自身の脇にはセルロイドの金髪人形を座らせて、そうして彼女はそこにいた。時折視線を持ち上げて、その場に入ってくる人間へと向ける。そして、しわくちゃの顔になんとも形容しがたい表情を浮かべてから視線を戻すのだ。
それ以外、彼女は自身の制作に手を付けるでもなく、窓の向こう、遠くに見える海原の欠片にじっと視線を向けていた**]
[それから、幾何の時が過ぎたのか老婆には判らなかった。
ただ、確かなのは、孫のように思い、接していた彼女はここには来ないらしい――ということだった。
老人は窓の向こうの景色を見、思い返す]
少し前 ラウンジ
「田中さん、ご飯食べました?
行かなきゃだめですよ。」
……さっき食べたよう。だからもう、食べたかァないんです。
あたしァ、ここに居たいンです。
待ってるって言っちまったからにァ
あの子ァね、検査だって言ってたんですよぅ
なんだかね――気のせいならいンですけども、
怖そうに見えたからね、そんなら、
……あたしには出来ることなんてないですけども、
せめて、せめてェ待つぐらいはァ、つって……
「でも、田中さん、
きっとね、検査はご家族の方がついてらっしゃいますよ。」
――――……
「ね、そんなに不安がってたならきっと、
ご家族の方を呼んで、きっともう、心配なく検査受けてますよ。
だから田中さんは、その子が戻ってきたときに元気に迎えてあげましょう。」
[押し黙る老婆の隣に座り、根気強く言葉をかけていた看護士は、老婆が微かに頷いたらしきを目に入れて満足そうに頷いて去っていった。]
現在 ラウンジ
[老婆の手の中で、黒い天鵞絨の洋服が揺れた。
常に似合わず、力強く握りしめ、黒い布地に折り目が入る。数滴、滴が零れ落ち、布を湿らせた。]
あたしァ、――……
そうだよう、家族じゃないよォ
…………知ってたもん。
……――知ってるもん。
[聞く者のいない独り言が人形の平面の瞳に落ちていく。
老婆はふと、頭に手を添えて体制を崩した。ほんの数十秒のことだった。]
[身を起し、彼女は頭をふるった。
皺だらけの顔面に二つある、黒い眼をゆっくりと開けて、周囲を見渡す。おどおどしく辺りを窺うと、彼女は立ち上がった。]
……、……。
[胸元の衣服を握りしめ、彼女は椅子に縋るようにしつつ立ち上がった。金髪の人形が彼女の膝から滑り落ちる。
周囲を探る眼差しはそのままに、そして、人形を見ることもなく、彼女は歩み、それから小走りに去った]
1F 廊下
[彼女は上着もはおらず、手にもの持たず、歩いた。
建物内をうろりと歩き回り、何かを必死に探すような眼差しで周囲を見渡す。
そこにちらりとでも、無菌室にいるべき姿を見つけたら、
もしくは中庭に向かう姿を見つけたら、動きは止まったことだろう。
けれど今の彼女に何か建設的なことが言えたのかは別の話だ。]
建物外
[ようやく、目当ての場所が見つかった彼女はそこから建物外へ出た。
老婆の日課であった散歩を知っているものならば、
病院の敷地内を歩む彼女を止めることはなかった。
老婆は、時折、意図の不明な駄々をこねたが
おおむね大人しかった。
老婆の我儘が増えたのはここ数日のことだった。]
寒い……。
……、……おうち、帰らないとォ
[柔らかく皺の寄っていた彼女の顔は、いまや風の寒さにゆがみ、暗がりでがさつく森の茂みに怯え、紙をまるめたかのように皺くちゃになっていた。
よろめく彼女の足取りを支えていたのはなんだったのか、知ることは難しい。けれど、彼女はただ必死に、その足を動かしていたことは事実だった。転び、衣服に泥をつけ、それでも立ち上がった彼女の歩みは、森が開けたころに、止まった]
海
[田中ぼたんは、海辺にいた。
明かりは遠く。病院の上階の、カーテン越しの明かりや談話室から漏れた光が、おぼろげながらに見えた。彼女はそれを遠く仰ぐようにしながら、波打ち際近くまで進み、しゃがみ込んだ。
皺だらけの手を二つ、ぎゅっと握りしめる。寒さのせいか、その手はかすかに震え、関節は真白に染まっていた。]
……おっとさん……ルリちゃァん……
あたし、来たよォ……!
一緒に帰れるよう。出といで ……
おっとさァん……
[声は小さく、潮風にかき消される。
彼女は立ち上がり、波打ち際をゆっくり歩いた。
その横には誰もいない。
彼女の後ろに続くのは一人分の足跡のみ、それもすぐ波が消した。
黒く色づく海に反射するのは、微かな、遠くの病院の明かりだった。]
あぁ、そっかァ――夢かァ
ありゃァ……そうだよねェ、お布団の上で見た夢だねェ
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