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[彼女に彼の返事を解する事は出来ない。
言葉ではなく、ざわざわとした耳鳴りとしてしか捉える事が出来ない。
口の動きを読む事も、容易では無かった。
けれど、何を言われたかは分かった気がしたから、軽い微笑を浮かべた後、それ以上は喋らず再び歩き出す。
目指す先は病棟へと続く階段。
入院中、そして退院してからも続けられた行為。
知っている人の所、あるいは知らない人の所へも、ふらりと気が向いた所へ足を運ぶ。
さて、今日はどの階まで行って、どの病室へ行こうか。**]
[隔離されているので好きな時に外に行けないし、
好きな時に誰かと話す事も出来ない。
誰かがこの部屋の前まで来れば話す事は出来るけど。
手続きが必要だとか、時間が掛かるとかで来れる人は少ない。]
バレー、したいなあ
[外を眺めながらまた独り言。独りだけしか居ないので、独り言でも言葉を聞かないと気が狂ってしまいそうだ。]
603号室
[結城と何か言葉は交わしたか。
きっと、笑顔で別れただろう。ばいばいと笑顔は1セットだから]
……とうとう個室、か
[最初は4人部屋だった。それが2人部屋になり、かけられるお金は少しずつ増えていった。個室の多い上階の部屋は、眺めだけは、本当に良かった]
悔しい、なあ
[首に巻いたままのマフラーを握り締めて窓から顔を背けた]
[そういえば、隣のクラスだか下の階だったか、ともかく同じ学校の有名人が入院したという噂があった。
隣の席の………]
クラスメイトも思い出せないとか
だめだこりゃ
[なんとかという女の子が、眉を下げて、でもどこか誇らしげに話していた。噂の発信源になれることが嬉しいのか、と考えたことを覚えている]
まあ制服脱いだらわからんけどね
[ひとりごち、マフラーをベッドに放り投げた]
――……
[眠りは、浅く。
時計の長針が一回りもしない内に、男は再び目を開いた。帽子を手に取り、暫くぼんやりと仰向けになっていてから、男はベッドから出た。
被った帽子に代わり、傍らに置かれた松葉杖を取る。その両端を前に出し、それを芯に右足を進め、また両端を前に――繰り返す。
男は左足を失っていた。
半ば捲り上げられたズボンから伸びるのは身を覆う白。重度の開放骨折から動かせなくなったその足は、近い将来、真に失われる予定だった]
……
[慣れた様子で歩き、男は病室を出た。かつり。ぺたり。小さく音を響かせ、廊下を進み]
[不意に届いた女子学生の声>>28が、思考を現実へと帰化させた。
彼女へと振り返った己の表情は酷く、間の抜けたものであっただろう。大きく目を瞠り、やがて現状を把握しにこりと微笑んだ。]
こんにちは、黒枝さん。
……ああ、ちょっと考え事してたんだ、うん。
[不思議そうに此方を覗き込む様子に、なんでもないよと首を振る。
何時もの自分を取り戻そうとするのは、下らない自尊心からかもしれなかった。
バツ悪そうに視線を落とし、彼女の荷物を見遣る。]
今日からだったんだね。後で、様子を見に行くよ。
[『ばいばい』。若者らしい挨拶を残す彼女へ、軽く手を振って見送った。]
[女子学生が去ってしまえば、廊下には再び静寂が宿り始める。
否、微かな足音が近づいてきたか。
姿を捉える事は叶わないものの、静かに窓を閉める。
海風が体調に触る患者も、少なくはないから。]
[廊下に人通りは少なく、辺りはしんとしていた。からり。その中で響いて聞こえた音に、男は顔を其方に僅か傾けた。廊下の先に見えたのは、白い人影。病院である此処には当然幾人もいる、医師の一人だ]
……
[そうとまではすぐに把握出来たが、何分サングラスでとても良好とはいえない視界、それがどの医師かまでの判別は]
……、今日は。
[出来たのは、数メートルに近付いてから。かつり、立ち止まり、会釈と共に挨拶し]
[スカーフに手をかけて、首を振った。
今日は一つ目の検査まで時間がある。まだ、もう少しだけ。制服でいよう。
トランクを開けて、荷物を片付ける。図書館で借りてきた本は出さずに、パジャマを一着、マフラーの横に置いた]
ずっと此処にいたらそりゃあ…
[気分も滅入るよね、と。
陰を隠せていなかった結城の顔を思い出した。次に会うときは、彼が言った「後で」の時は]
私が暗い顔してなきゃ、いいけど
[一人でいるのに慣れると、どうにも独り言が増える。誰か、誰か。大きな財布から少しだけ小銭入れに移し変えて、水色のがま口を片手に病室を出る]
[近づく足音が、通常のそれとは異なる事に気づいたのは窓を閉めてからだったろう。
足を引き擦り、松葉杖をつき、顔を隠すかのように目深く被った帽子姿の人物を正面に捉え、軽くお辞儀を返した。]
こんにちは、柏木さん。
今日はとても良い天気で、気持ちいいですね。
[こうして歩く事さえ不自由であろう彼へ送る挨拶は、余りにもありきたりなものでしかなかった。
しかも、…先程までは「気持ちいい」には程遠い心境であったのだけれど。]
[結城という内科医。直接治療での関わりはないが、その名前と所属、新米らしいという事、そして簡単な人となりくらいは知っていた。
そもそも、病院内で全く知らない人間というのは、職員でも患者でもそう多くはない]
いい天気。……そうですね、確かに。
こんなに静かだから。
雨ではないとは、思っていましたが。
そうですね。いい天気です。
[結城の言葉で初めて気が付いたというように、閉じられた窓の方を見た。通る声質だがマフラーで些か篭った声で、ぽつりぽつりと]
[風に紛れる歌声に、ふんふんと鼻歌で後を追いながら、老婆の時間はゆっくりと過ぎていく。その間にも皺に紛れるような黒いまなざしは一針一針進む手元に注がれていた。黒い布は形を変え、布を寄せては膨らまし、そうして少しずつ洋装の一部へと変わっていく。]
あんたには、 黒いびろうど の
スカートがいいね
こんな風にも飛ばない 重ぉい スカートさね
あの子の歌は 飛んでいいんだよぉ
そうじゃないとあたしにゃ聞こえなくなっちまうからねぇ
[もう一針、皺を寄せた。波打つ光沢の天鵞絨、海原の輝きとは違う柔らかなきらめきを眼に写し]
――おや。
いつの間にやら、終わっちまってたみたいだ。
[歌声のかけた潮風に耳を傾けた。]
ラウンジ
[廊下を進みやってきたのは、緑と青が一緒に見えるラウンジだった。両方とも好きな色だし、何より此処にいる人の空気も、なんとなく好きだった]
おばあちゃん、元気してた?
[踊るような足取りは椅子の前で止まり、ぼたんの前へと膝を抱えるようにしてしゃがみこんだ]
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