…帰れたのかな。
[しん、と静まり返る境内。
杏奈は何処に居るのだろう。視線を巡らせても見つからない。]
――俺は、
[かえりたい。
だけど]
…放っておけないんだよね。
[青年は眉尻を下げて笑う。
一年、この世界に身を浸していたからだろうか。
招いた本人が誰かを知っても、恨む事も出来なくて。
鈴の音がする。
迷い子のように頼りない、か細い音だ。]
[少女が‘終わり’にしようとしている事を、青年はまだ知らない。]
親不孝な息子を、許して下さい。
[――どうか、この寂しさが僅かばかりでも癒えますように。
そう願いながら、青年はそっと目を閉じた。*]
―2016年・出店―
…え、寝てないよ?!
[妹に肩を揺すられて、青年は慌てて口元を拭った。
どうやら涎は出ていないようだ。
寝てはいない。恐らくは。
只、少しぼぅっとしただけだ。
そう言うと、熱中症かと騒がれるだろうから言わないけど。
――少しだけ、寂しいような。
何が原因かは分からないが、青年は宥めるようにそっと左胸の辺りを押さえる。]
…あ、いらっしゃいませ。
一杯如何ですか?
[妹の声に我に返ると、青年は出店に視線を向ける客に笑顔を向けた。
聞こえてくる祭囃子に耳を傾ければ、寂しさも紛れるような心地がして。
青年は接客に集中する事にした。
本蔵酒造は、秋祭りでは毎年、自分の蔵で作った清酒と近隣の村で作られた地ビール、そして幾つかの清涼飲料水を販売している。
お手軽な紙コップ一杯から一升瓶まで。一杯300円とお買い得だ。
道の向かいにある、親戚の柳樂商店の出店の方が置いている商品の数は多いだろう。]*
[ここまでは祭りの喧騒も届かない。
時折何かの羽音が聞こえるのが不気味だ]
何か此処、寂しくなるな。
[赤の咲く崖の縁に近づいて、上体を傾ける。
股のぞきして村の賑わう辺りを想像して数秒、立ち上がった**]
[それにしても、いずれ神職に就く青年は、いったい誰と話をしているのだろう。
彼の視線の先には、黒い蝶が群れかたまって羽ばたいていて、覚えのある少女の声は、そちらから聞こえていた。]
──蝶の声……?
[蝶たちは、やがてかたまったまま遠ざかってゆく。]
『…人に声を届けたいと願う時は話においで。』
[蝶の群にかけられた声は、妹を慈しむ兄のもののように聞こえた]
*
あらあら、双季ちゃん。ちょうどいい時に来たのね。
[境内の人ごみの中に、先ほど会った少女の顔を見つけて声をかけた。]
焼きたてよっ。
[両手には焼きそばが一皿ずつ。
盛りの少し多い方を差し出す。]
[神社の裏へ。その先へ。ちりんと鳴るほうへ。崖のあるほうへと歩みを進めただろう――――
―――それは1978年、秋祭りの日のこと。]
[崖から離れるにつれて祭りの音がどんどん大きくなる。
提灯の明かりにほっとしたその時]
やっべー、霊感とかないのに。やっべー。
ないないない。
[手をたたいて呼ぶような音が聞こえた気がした]
――『黒い蝶をみたのなら、父さんに言いなさい。なあに、すこしばかり話を聴きに行くだけさ』って昔から言うけど、父さんには何が見えてるんだな?
[首をかしげる当代の餅肌はまだまだ修行も霊力も足りないようだ。]
それより苺大福……!焼きそば大盛りはちょっとばかり出費がだけど苺大福には変えられないんだな……!
[不良跡取りがしっかりと神社を継ぐのはまだ、遠い先の話なのだろう。秋祭りは続いていく――]*
[園長と話している双季らの姿を見とめたなら、何故かほっとする。
その理由は、今の青年には分からない。
祭りの最中に双季が出店の前を通った時には、笑顔でこっちにおいで、と招こうか。
彼女は未成年だから酒類は出さないけれど、ソフトドリンクはあるから。]
[ふと、客と笑顔で話している妹の姿を見る。
もしも妹が青年の‘兄’だったなら。
きっといいリーダーとして酒蔵を仕切ってくれるだろう。
青年がいなくても大丈夫なくらいには。
――時折、そんな事を考えないではいられない。
それでも。]
…俺が、此処に居たいからいるんだ。
[そうして来年も、再来年も。
*この村で秋祭りを。*]