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朝
今日も、冷えますね…。
[何時もと変わらぬ病院の早朝。
昨日の雪が界隈を白く彩る中、
野木は定刻に出勤した。
同僚達の噂話の中で、一際耳に残ったのは
[305号 ボタン]の名と――]
回想・ロビー
[真心を伝えるのは難しい、
そう消沈する医師へ、眉尻を落とした]
いやァ… 俺ちはアンタさんみたいな学力はねェし
真心だってな…
結局伝え切れなかった、唯の人生の落伍者なんだァよ
[無力さを感じるのは自分の方だと、
ははは、と自嘲の笑みを零し]
んでも、俺ちは今…
先生の役に立てたのかね
だったらば、
……今日を生きた甲斐があるってもんだよ
[明日を生きる楽しみは?
あるのだろうか。
家族を失い、母を喪おうとする男の目の前に
明るい明日は、あるのだろうか。
今はこの若い医師の未来を思うことで満たそうと、
「んじゃあな、先生」と手を振り、別れを*告げた*]
人生に、落伍者なんていませんよ
学があろうと、金があろうと
それで人の価値は決まりません
貴方のおかげで、私は今日助かりました
誰かを助ける事ができる
十分、価値のある人生ですよ
[生きた甲斐がある。
そう言う男性に、いくつか頷いて。
別れを告げる男性に、手を振った。
さぁ、そろそろ仕事の時間か。
そう思っていると、ナースから声がかかる。
オペが入っています、と言う話。
そろそろだと思っていた。]
はい、今行きます
[今日の勤務が終わったら、*写真を探そう*]
新しい朝
[白い便箋に書かれた手紙を読む。
昨日の午後、看護師が届けてくれた手紙。
もう何度も読んだから
貰った文章は全部覚えてしまった。
青空の色は、たくさん知っている。
夏の深い紺碧や、春の淡い天色。
雨上がりは勿忘草色。冬の秘色色。
南国の空は瑠璃色だった。
窓の外へ視線を向ける。
天満さんに教える、私の想う空色は、
海と雪と空が混じり合う位置の色が良い。
この部屋から、その色は見えない。
見に行かなくちゃ。伝えるために。**]
[きのう、屋上でたばこを吸って、それから部屋にもどりました
もどると、お客さまが来ていました
かつみさんと、そがさんです
ふたりとも、かみさまのおともだちでした
おみやげや、そう言ってかつみさんはわたしになにかをくれました
それはふぐさしでした
かみさまが、すきだったもの。]
[ありがとうございます、ちょうどよかった
わたしはふたりにお願いをしました
もちろんお金は払うから、と言いました
これは、ひろくんやさわださんではだめなお話でした
だって、きっと叶えてくれないから
かつみさんは、わたしがゲームで勝てたら叶えてくれるといいました
わたしは頷きました]
[今日は、しあわせな気分です
ゆめを見ました
かみさまと、傷のにいさまと、ねえさまふたり
それからひろくんと、さわださん
みんなでお鍋を囲んでいるのです
暖かそうなゆげがゆらゆらと立ち上ります
みんな、みんな楽しそうです
この時間がずっと続けばいいのに、そう思いました]
[目を開けると、ひろくんがいました
隣で眠っています
そういえば、昨日も泊まってくれたのでした
ひろくんはぐっすり眠っているようで、静かな寝息が聞こえます
わたしもまた眠たくなってきたので、ゆっくり目を閉じました
あったかい。]
[あれは真夏の土曜日だった。
陽射しの強い午後、兄と一緒に、
乗用車で海水浴場を目指した。]
二年前・夏の午後
[兄が運転する車の後部座席に沈み、窓に作った隙間から吹き込む風に煽られた髪を押さえる。兄は助手席に座った恋人と談笑していて、私の方を見る事は無い。風に掻き消えて何を話しているのかは知れないが、二人が笑っているから幸せな話なのだろう。
海に着いたら、私も大学の友達と合流する予定になっている。学生最後の夏休み。子供で居られるモラトリアムを惜しんで、就職活動の隙間を縫って、忙しく遊びまわっていた。]
[すぐ後ろに、大きなトラックが着いてきていた。長距離運転の疲労からか、たまにふらりと車体が揺らぐのがバックミラーに映っていて、不安は感じていた。けれど、兄は恋人との会話に夢中で。]
お兄ちゃん…ちょっと休んでいこうよ。
喉、乾いたし。ねえ。
[サービスエリアの看板が見えたから、声をかけてはみたが。風が邪魔をして聞こえなかったようで。看板を過ぎ、後方のトラックとの位置関係もそのままに、私たちを乗せた車は真っ直ぐに進んだ。]
[そのすぐ後だった。
いよいよ運転手の意識から解放されたトラックが、車間距離を詰めて私たちに躙り寄ったのは。酷く乱暴な音を聞いて、後ろを振り返る間さえなく、私は、未来を失った…――*]
二年前・秋の夜
[身体に、正常なところはひとつも無かった。潰れかけた内臓も、破れた皮膚も、千切れた神経も、なんとか縫繋げて修復されたものの。痛みと熱に苛まれる悪夢のような日々。
傷は至る所に残ったし、複雑に砕けた骨が刻んだ神経の復活は望めない両足が冷たく思い。
誰にも会いたくなくて、私はすべての見舞いを断っていた。こんな姿、死んでも見られたくない。友達にも、家族にも、誰にも。私自身の目でだって見たくない。元より両親との折り合いは悪かったし、兄は罪悪感からか私を直視はしなかったから、断る機会もそう多くは無かった。]
一年前・春の朝
[気付くと、ひとりになっていた。
顔や腕の目立つ箇所の傷は綺麗に塞がり、
見るに堪えない姿では無くなった。
でも、その頃には、
会いたいと思う人は居なくなっていて。
友達は皆、大学を卒業して社会人になった。
家族はそれぞれに忙しくしている。
私はこの白い病室を与えられて。
あるはずだった未来に縋り、
死にきれなかった事を悔いて生きる
今に続く日々がはじまった。*]
[勤務を終えた若者は、家でアルバムを開いていた。
あの男性の言うとおり、好きな場所の写真を探すためにだ。
絵心というものは、若者にはまったくない。
描いた数だけ上手になると、絵を生業にしている友人は語っていたけれど、ならばこそ若者には絵心がないのだろうと思う。
若者は、親が医者であるから医者になる、といったタイプではない。
小さな頃に命を救われて、などというタイプでもない。
知的好奇心を追って行った結果、医者にたどり着いたという者である。
学はあったかもしれないが、暖かい思い出や楽しかった記憶という物がまるで欠如している。
こうして振り返ると、なんと色のない人生であることか。]
だめだな、こりゃ
[だから、もともと写真などという物が少ない。
知的好奇心を満たすために旅行にはよく行ったものだが、どれも遺跡や世界遺産の類である。
どうも、年頃の女性が喜びそうだとは思えなかった。]
[ベットに転がり、横になる。
咥えた煙草は、貰い物の煙草。
小さな部屋に、雑音にしか聞こえないテレビ番組が流れている。
妙に寒い一日で、部屋では暖房器具が必死に熱を作っている。
冷蔵庫の中身は、ドリンクくらい。
調味料も、ほとんどありはしない。
医師という肩書きを取り除いてしまえば、同年代の若者達よりも、ずっと質素な生活をしている気がする。
外を見れば、まだ雪が降っていた。]
夏に雪の写真を見ると、あんなに綺麗なのに
冬に見ると、それが当たり前になっているのだな
[小さく呟くと、何か思い立ったようで。
アルバムからいくつかの写真を抜き取って、手帳に挟んだ。]
[そして、若者は眠りに落ちる。
何か、とてもいい夢を見た気がするけれど。
内容は、もうほとんど覚えていない。
確か、子供の頃の夢の話だった気がする。
若者が目覚めたのは、また着信音だった。]
なんだよ、いい夢だったのに
[夢は気がつくと泡と消えて。
誰かに話そうと覚えていたはずの事も、顔を洗うと頭から消えた。
だけど、今日はいつもより。
ほんの少しだけ、元気になれた気がした。]
さて、急ごうか
出番があるかわからない、私の舞台へ
[変な気分に浸っていたのは、夢のせいだろうか。]
[病院にたどり着くと、やはり今日も出番はなかったらしい。
内科の患者が、息を引き取ったとの連絡を受けた。
仕事をよこせ、とは言わないけれど。
救うチャンスももらえないとは、悲しいものだ。]
ご遺族にお悔やみを、よろしくね
私はまた、ふらついてくるよ
食事もとっていないんだ
[そして、今日は微糖と一緒に。
昨日買い忘れた、サンドイッチを買った。
男性から受けたアドバイスを元に、写真を持ってきてはみたけれど。
これで本当に喜んでもらえるのか、わからない。
変な緊張感があるものだな。
若者はそう思いながら、サンドイッチを頬張る。]
食べ終わったら見せに行こう
[緊張に押されて、ほんの少し*先延ばし*]
朝の夢
[薄く積もった雪をさくり、さくりと踏みながら
男は今日も病院へ、母を見舞う。
今朝の病院は、スーツ姿の男性が多い気がして
「お偉いさんでも亡くなったのだろうか?」
なんて、ぼんやりと馳せた。
気のせいかもしれないけれど。
母は、ゆっくりと、ゆっくりと話してくれた。]
そうかァ、正月の夢、見たのかァ……
[嬉しそうな母の横顔にそうか、そうかと頷いた。]
[正月。
独り暮らしを始めた養女も戻り、
皆で新年を祝う。毎年の恒例行事だ。
この時ばかりは金がなくとも豪勢に。
朝風呂を終えたら、娘達の待ちに待っていた
お年玉を渡す。
そうしているうちに、母が我が家へやってくる。
迎えにいってやればいいものを
俺は既に飲んでいるから、母は徒歩で来るのだ。]
『あけまして おめでとうございます』
[新しい年の始まりを、家族皆で祝う喜び。
おせち料理。
雑煮。
母の炊いた赤飯。
母の笑顔。女房の笑顔。娘達の、笑顔。]
[あたたかい記憶の中
過ぎ去っていった過去は夢となり
時折、男の心を癒してくれる。
うつら、うつら。
病室を後にした男は
休憩室で微睡の中に*居た*]
896号室から、屋上へ
[屋上へ出るには部屋着じゃ寒すぎるから
コートを羽織ってマフラーを巻いた。
海と空が混じる所まで
ちゃんと見渡せると良いのだけど。
どうかしら?と
窓硝子の私と首を傾げて顔を見合わせて。
私は静かに部屋を出た。
エレベーターを使って登った屋上では、
控えめな量の洗濯物たちが風に揺れていて。
冷たい風が、海の匂いを運んできた。
海の歌も少し明瞭に聴こえる。**]
[あのあと、起きたひろくんはお仕事に行きました
別れぎわには、優しく頭をなでてくれました
また来るよ、そう言って。
わたしはしばらく自分の書いた日記を読んでいました
覚えていること、いないこと、たくさん書いてありました
やがてわたしは日記を閉じました
そうして、いつものように屋上へ向かいました
煙草を吸うために
夢の中のかみさまも、たばこを吸っていました。]
―屋上―
[屋上に行くと、だれかがいました
ここの患者さんでしょうか
わたしはそのひとの邪魔をしないように、端の方へいきました
そうして、ハイライトに火をつけます
風に揺られながら空たかくのぼる煙を、わたしは眺めていました**]
[食べ終わったサンドイッチ。
重圧から逃げる理由がなくなって、仕方なしに立ち上がる。
たしか、896号室。
軽くノックして、部屋にはいったはいいけれど。]
…―――
いないじゃないか
[私の変な汗を返せ。
心の中で、そう呟いた。
しまった、部屋以外に彼女の行きそうな場所がわからない。
探そうにも、探しようがないな。
途方にくれた結果、メモ帳を破いて。
ここに来た旨を書いておくことにした。]
[背景クルミ様…―――
いや、それは違うだろう。
親愛なる?
それも違う気がする。
結局、形式にこだわっても意味がないと思い。
数枚のメモの廃棄の後、簡素なメモを残した。]
宿題を持ってきたけれど
いないようなので改めるよ
もしメモを見たら、呼んでくれると嬉しい
ユウキ
[うん、これだけで十分意図は伝わる。
きっと、たぶん、大丈夫。
自分でいくつか頷いて、メモを残して病室を出た。]
‥‥?
[「風に、拐われるよ。」
聞こえた声に、わたしは振り返ります
そこにはマフラーをした、女の人がいたのでした]
こんにちは。
[わたしはたばこを口から離して、にっこり笑ってそう言いました]
[私と同じくらいの年頃に見える女性は、
風に遊ぶ煙草の煙の中に居て。
笑う顔が少し現実離れして見えた。
からりと車輪を回し車椅子を進めて、
彼女の方へと距離を詰める。]
…こんにちは。
その煙は、美味しいもの?
[喫煙の経験は無いけれど、
彼女が持っていると煙草の煙は
甘いものかのように見えたから。
訊ねてみる。]
[この人が乗っているものを、わたしは知っています
車いすと言うのです
そがさんが乗っていたから、わかります]
わたしは、すきです。
かみさまが好きだったから。
[美味しいものかどうか、考えてみました
おいしい、よりは、好き、かなぁと思いました]
…かみさま。神様?
…神様は、あなたを救ってくれる?
[私を救う神様は居なかった。
信仰は太陽にしか
向けたことは無いのだけれど。
煙草の煙を追って空へと向けた目を細め、
再び見つめるのは彼女の顔。]
かみさまがいなかったら、わたしは今、ここにはいられなかったから。
[「神様は、あなたを救ってくれる?」
そう訊ねられて、わたしは頷きました
かみさまが、みつけてくれたから
かみさまに、ロッカと呼んでもらえたから
だから、わたしは今ここにいられるのです]
…素敵だね。
私の前にも現れれば良いのに。
神様とか、天使とか。
[非現実的な存在感の彼女が言う神様が
何者なのかを私が知る由もなく。
ただ、何かを信じる心は羨ましい。
少しだけ微笑んで、
マフラーに顎先まで埋めてしまう。]
‥‥でも、かみさまは、いっちゃったんです
わたしを置いて。
[わたしはもういちどたばこを咥えて、すうと大きく息を吸いました
重たいけむりがいっぱい溜まって、かみさまがいないさみしさをほんとうに埋めてくれたらいいのに、と思いました
それからふうと吐き出した煙、真っ白です
わたしはその煙がのぼっていく空を見あげました
かみさま、かみさま、
わたしのことが見えていますか。]
…いつもキミの中に居るから
神様と呼ぶのではないの?
離れていても傍に居るというやつ。
でも、寂しいね。
置いて行かれるのは。
[煙草の煙は何を満たすのだろう。
喫煙は緩やかな自殺だと誰の言葉だっけ。
彼女は何を見上げているのだろう。
儚げな彼女の傍へ。
もう少しだけ近付いて。
私は、巻いていたマフラーを外して、
煙草の火を避けて
彼女に巻きつけようとする。
少し、屈んでくれないかな?]
…あげる。
「…いつもキミの中に居るから
神様と呼ぶのではないの?
離れていても傍に居るというやつ。」
‥‥。
[女の人の言葉に、わたしはうつむいて、たばこを灰皿に落とし、ポケットに手をやりました
そこには、煙草の箱と、ジッポと、
それから、石が入っています
かみさまの、お墓の石です
お守りみたいに持っていたものです
これがあると、かみさまが傍にいてくれるような気も、時々はするのです
けれど、きっと、そんなわたしをかみさまは笑うでしょう
そんなただの石ッコロを後生大事にしてどうすんだ、と。]
[きぃ、と、車輪が音をたてました
顔をあげると、女の人はこちらに近づいてきていました
巻いていたマフラーが、今は外されています
わたしは、不思議に思って、彼女の目線の高さまでかがみました]
「…あげる。」
[そう言って、彼女は、わたしの首にマフラーを巻いてくれたのでした
それはほんわりとあたたかくて、なんだかあったかい気持ちになりました]
‥‥ありがとう、ございます
[でも、どうしてこれをくれたのでしょう?
お礼を言いながら、わたしは首をかしげました]
[珊瑚朱色のマフラーは、
彼女によく似合っていると思う。]
…私は神様にはなれないけど、
寒そうな首筋にマフラーは巻けるの。
どう、すごいでしょう。
[手紙だって書けるし、
お手玉だって上手に投げられるの。
少し前向きな気持ちになれたから、
首を傾ぐ彼女の顔を見上げて。
もう一度、微笑んで。
車椅子を動かして、屋内に引き返そうと。]
…手紙を書くの。宿題も待たなくちゃ。
だから、行くね。
また会おうね。キミ。
「…私は神様にはなれないけど、
寒そうな首筋にマフラーは巻けるの。
どう、すごいでしょう。」
[彼女の言葉に、わたしは少しだけ、きょとんとしました
おどろいたのです
それから、嬉しくなって、ふにゃ、と笑いました]
‥‥ロッカ。
ロッカです、わたし。
むっつの花で、ロッカ。
[屋内に戻るのでしょう、女の人に、わたしは名乗りました
きれいな色のマフラー、ほんのり暖かいそれをきゅうと小さく握ります
この人のことも、わたしはかかえていきたいと思いました]
…ロッカ。
私、アネモネが好きよ。
キミの中の6つの花に、
アネモネはあるかな。
私はクルミ。
[名前を交換して、私は屋内へ。
寒さは気にならない。
海を見られたし、ロッカにも会えた。
楽しく温かい気持ちになれた。
病室へ戻ろうとエレベーターを待つ。
なかなか来ないエレベーターを。]
クルミ
クルミ、さん
[わすれないように、彼女の名前を呟きます
顔も、しっかり見ました
大丈夫です、たぶん]
こんど、会うときには、
アネモネ、用意します、ね
[アネモネがどんな花なのか、わたしにはわかりません
でもきっと、ひろくんは知っているでしょう
ひろくんは物知りですから
次に来てくれたときに、お願いしてみようと思いました]
[階段を駆け下りられたら良いのに。
車椅子の車輪を撫でて、吐息を零す。
エレベーターはまだ来ない。
持て余した暇にまかせて、
階段に少し、近付いてみる。
からから。乾いた音で車輪が回る。
よく磨かれた踊り場を進む。
エレベーターはまだ来ない。
少し、振り向いて表示パネルを確かめた。
車輪が何かを踏んだ。
それは、誰かが落としたハンカチだった。]
[車輪が、滑って。
車椅子がぐらりと傾く。
踊り場が途切れた先の階段に向かい。
私の身体も、一緒に。
瞬く間も無く。]
…、
[声を上げる間もなく。
私は、階下へと投げ出された。*]
[車輪が空回る音を聞きながら
私は天井を見上げている。
壊れた車椅子の部品と
私の身体から流れ出す生温い血が、
清潔に保たれていた廊下を汚す。
派手な音を聞きつけた看護師が
慌てて誰かを呼んでいるようだけれど、
私の意識は春先の雪のようなもので。
溶けて、流れて、失われつつある。]
…部屋 とどいて、る かも
おてだま と、
わ たし、の、嬉しい もの…
[絶え絶えの声は、誰かの耳に届いたかな。]
…あの ね、
…ユウキ 先生 。 、 呼んで、て
…、
[看護師が傍に居るのかどうか、
確かめないまま、呟いて。
私は目を閉じる。
そしてそのまま、深い所へ、
沈んでいく。*]
[それからわたしは、もう一本、ハイライトを取り出しました
もらったマフラーを汚さないように気をつけながら、そうっと吸います
綺麗な淡い朱色のマフラー、触るとふわふわしていてとても気持ちがいいのです
きっと、クルミさんが優しい人だから、このマフラーも優しい手触りなのでしょう]
‥‥くしゅっ
[どれほどそうしていたのでしょうか
くしゃみが出る頃には、手に持ったたばこはすっかり灰になっていました
わたしは部屋に戻ろうと思いました
なんだか人が慌ただしく動いていて、誰かが落ちたとか、何だとか、言っていましたが、
わたしには、何の事だかわかりませんでした]
[どこかで、大きな音がした気がした。
病院内で珍しい、そう思った気がする。
若者はロビーを覗いた後、自分の机の前に戻ろうと歩いている最中だった。
突然慌ただしくなるのは、いつもの事で。
急患かな、程度に思っていた。
ナースが早足でやってきて、若者に声をかけた。
曰く、患者が階段から落ちたのだと言う。]
患者はどこです?
[早足、半分走りながら状況を聞く。
車椅子の患者が、踊り場から落下。
出血、意識無し。]
輸血と、オペの準備はできてますね
[大丈夫、ここは病院だ。
処置さえ早ければ、大抵の事では大丈夫。
出血死なんてさせない。
打ちどころさえ悪くなければ。
車椅子で、大事な部分が巻き込まれていなければ。]
ご家族に連絡も
[切ったり縫ったりは、専門家だ。
それが仕事なのだから。
そう言い聞かせながら、血だまりの側に立つ。
そこに転がっていたのが、探し人の姿であった時。
少しだけ、動転したけれど。]
え…―――
[一瞬だけ、固まった。
頭の中で、いろんな単語が回る。
誰が、何故、何が、どうして、いつ、どうすれば。
いろんな言葉が巡った後、たどり着くのは結局。
助けなければ、と言う言葉であったけれど。]
止血、急いで
移動させますよ
[いつもと変わらないつもりでも。
少し声に怒気が混じるのは、焦りからか。
それとも、サンドイッチなんて食べずに部屋を訪ねていればなんていう、的外れな罪悪感からなのか。]
クルミさん、クルミさん、目をあけて
なんでもいい、意識を
[それとも、やはり。
患者に少し、情が移ってしまったからなのか。
冷静とは言い難い事は、自分でも理解できた。]
―休憩室―
[少女は本を読むのが好きだ。
特に星の本はいい。
暗い世界に輝くいくつもの点は、とてもキラキラして見えた。
だから今日もベッドで星の本を見ていたのだけれど、病室の外が何故か騒がしくて、そちらが気になって集中できなかった。
本を読む気にはなれず廊下に出ると、医師や看護師、患者まで何か慌しく焦ってる様子だった。
彼らの様子から何かがあったことは察せられても、何が起こったのか確認するのは怖くて。
人を避けるように歩いていると、休憩室まで歩いてきてしまった。
ここには漫画の本がいくつか置いてあって、内容は正直よくわからないけど暇つぶしには丁度いい。
今日は先客が居るようで、そうした時はいつもぺこりと頭を下げて挨拶をするのが自分なりの決まりだった。
だから頭を下げて、先客の前を通り過ぎて本棚の前へと行こうとした所でふと足が止まる]
…ねむってるの?
[首をかしげて、しげしげと様子を見つめる。
少女の両親よりは年上だろう。
祖父母と同じくらいだろうか、よく分からない。
起こしてあげた方がいいのだろうか、あるいは音を立ててはいけないのだろうか。
判断がつかず、おろおろと休憩室を首を振って見渡す]
[部屋で日記を書いていると、扉があきました
傷のにいさまと、さわださんが来てくれたのでした
傷のにいさまは、わたしの首にあるマフラーを見て訊ねます
そいつはどうしたんだ、って
わたしは答えます
クルミさんがくれました、って
そうして、こう続けます
にいさまは、アネモネってお花、ご存知ですか、って]
[傷のにいさまは、知っているような、知らないような、煮えきらない様子でした
きっと、お花のことは詳しくないのでしょう
さわださんが笑いながら、アネモネがどうしたのかと訊いてきます
わたしは答えました
クルミさんが好きだと言っていました、
マフラーのお礼をしたいんです。]
[傷のにいさまはわかったと言って、明日までに必ず用意してくれると約束してくれました
わたしは傷のにいさまにお礼を言って、ぎゅっと抱きしめました
傷のにいさまは大きくて、温かくて、わたしはすきです
かみさまと、ひろくんの、次に好きです
さわださんが、小さく笑いました
わたしも、つられてふふっと笑いました**]
最期の意識
[誰かが、私の名前を呼ぶ、声。
沈んだ闇の縁から。
とても遠くから。
暗闇は深く重く
混濁した意識の浮上を阻む。]
………、 、 。
[それでも応えるように、
瞼が微かに震え、
唇の隙間から、声にならない言葉が、
細く微かに零れた。]
[彼女の表情に、反応が見られた。
大丈夫、まだ大丈夫。
唇が、微かに動いている。
何かを言っているのかもしれないけれど、聞こえない。
だが、まだ生きている。]
クルミさん
聞いているかい
君を喜ばせる事、探してきた
喜んでくれるかは、わからないけれど
外の写真、持ってきた
[彼女の意識を、保たなければならない。
意識を失うと、体温が下がる。]
外の写真って言ってもさ
ただの、風景写真なんだ
桜並木、夏の砂浜、秋の紅葉、冬の雪景色
私が君を治すから
そしたら、その目で見に行こう
君の先も、君の足も、ちゃんと治す
だから頑張れ、階段程度に負けちゃいけない
[足は、正直絶望的だけれど。
それでも、口から出たのはそんなでまかせ。
できない事を、できないと言うだけなら。
きっと、誰にでもできるから。]
君にはちゃんと、未来が待っている
それが今は見えなくても、明日はやってくる
証明してみせるから、気を強くもって
休憩室
[うつら、うつら。
暖かな室内で優しい夢の中をたゆたう。
部屋の外で起こっていた悲しい出来事に気づけずに
最後に、思い出したのは若い先生の笑顔だった。
『十分、価値のある人生ですよ』
そうだ。
俺ちがここに在ることを
誰かが そう言ってくれるだけで――]
――…ん、むう…、
おお、おお。…ねてた、よ
おはよう、お嬢ちゃん
[腰掛けたまま眠っていたらしい。
人の気配に気づいて目を開ければ
正面には、小さな女の子の姿があった。
困惑気味の面持ちへ、にこりと眉尻を落とす]
起こしてくれたのかい。ありがとうな
[触覚は既に失われている。
体中が、役立たずな両足の仲間になって、
何の感覚も得ずに屍のように横たわる。
瞼を伏せているせいというより、
視覚そのものも、失せていて。
血の匂いを感じ取る嗅覚も死に。
それでも鼓膜が震えれば
言葉は脳の奥に染み入る。
桜並木、砂浜、紅葉、雪景色、未来。
見たいな…と、思った。]
きゃ。
[声をかける前に目を覚ました事に驚いてしまい。
おそるおそると見つめた後、安心したように笑顔を浮かべた]
えっと、おはようございます、なの。
おじい…おじちゃん、ここでねるとかぜひいちゃうかもなのよ?
るりね、まえにねむっちゃったとき、すごくおこられたの。
かぜひいて、しゅじゅつがえんきすると、いけないのよって。
[空想の世界が私を手招く。
四季折々の美しい光景の中を、
健全に機能する両足で歩く空想。
けれど、私はそこへ飛び込むのを拒む。
車椅子での不自由なままでも、
明日は来ると、未来があると、
語りかけてくれる声が在るから。]
…、 ぁ 、
り が、 と ぅ 。 、
[最期に、未来を見せてくれて。]
[寝惚け眼を、ごしごし擦る。
寒い自室よりも暖かくて熟睡出来てしまい。
おずおずと此方を見遣る少女へと、
少し背筋を丸めて視線を合わせ]
そうか、そうか
こんなところで寝たらだめだなァ
おじいちゃん、ここがあったかいから
つい、寝ちまったよ
[気を使ってくれたのか、わざわざ「おじちゃん」と言い直してくれたので、「おじいちゃん」で良いのだと強調を。
孫達の中にもきっと、彼女と同じくらいの子がいるはずだから]
おお、るりちゃんはしゅづつをするのかい
えらいなあ
[体温が下がっていく。
止血しても追いつかない出血。
このままだと、ショック症状が起こる。
短時間の出血、大動脈からの出血だろう。
圧迫止血では間に合わないけれど。
凍結止血するにも、電気凝固させるにも、まだ手術室は遠い。]
どこへだって、連れて行くよ
平家蛍を見た事はある?
夏の低くて大きな空と
地上に舞う蛍の光が合わさって
まるで、天の川が二つあるようなんだ
一面の花畑、なんて見たことあるかい?
カラフルな絨毯のようで、綺麗なものだよ
春になったら、見に行こう
― 昨日 休憩室 ―
[どこかで聞いた、懐かしい歌がテレビから流れている。
あの歌は誰の歌だろう。テレビ画面をじっと見ようとすると、子供たちがその前を楽しそうに駆けていった。
ふふ、と笑うと、そのままぼんやりと歌を背景に、子供たちを眺め続ける。
と、隣の男性が、感慨深げにこちらに話しかけてきた。]
ええ、孫はわたしにもおりますよう
何人かいたけれども、みんなそれぞれ大きくなりましたねぇ
昔はよくみんな家に遊びに来たものだけど
でも、孫はそういうものでしょうねぇ
みんな立派になって、嬉しいですよ
[ちなみに同居していた長男の子供も、大学生となり、朝はご飯も食べずに部屋から直接出かけていき、夜は自分が起きているうちは帰ってこなかった。
ここに入った時、一度だけ家族で見舞いにきた。
他の孫も含め、もう、孫の顔を本当に見ていない]
子供は、いいねぇ…
私もそう思いますよ
[子供たちを通り越すように、ぼんやりと遠くを見て少し微笑んだ。
孫が14歳、という話には]
あらあらまあまあ
じゃあまだまだ小さいねぇ
可愛がってやりなさいな
可愛がってやれるのも今だけですよう
[今度は男性の顔に視線を向けて、微笑んだ。
しばらくすると、彼はこちらに軽く頭を下げると、立ち上がって去っていく。
こちらも彼に頭を下げた]
[手術室へと辿り着く前に。
私の身体からは
生命が抜け落ちてしまう。
手紙のお返事や、お手玉の約束、
写真もこの目で見たかった。
叶わなかった事は幾つかあるけれど。
そういった生への未練が在ることが、
この上なく嬉しかった。
未来は、あったのね。近くに。
私にも。
それを教えてくれた、
とても素敵で嬉しい言葉を贈ってくれた
先生への感謝の言葉が最期の言葉。
脱力して緩んだ口元は
ほんの微かに笑った時と同じ形に成り。]
秋は、川が綺麗でね
魚釣りをして、その場で調理して食べる
中秋の名月なんて、しっかり見た事あるかい?
お月見も、いいものだよ
冬はやっぱり、雪原だね
体を切るほど冷たいはずなのに
光を弾いて、真っ白に輝く朝
世界が最も輝く朝さ
君にはまだ、見てない世界が沢山ある
[ありがとう、彼女がか細く。
そう口にしたのが聞こえて。
動かないであろう手を取り、脈をはかると同時に語りかけ続ける。]
まだ、お礼を言うには早い
君を救って、それからお礼を言ってもらう
― 朝 ―
[朝日が部屋を照らし、いつもどおりに起きた。なんだか、心が晴れ晴れとしている]
あぁ、きたんだったねぇ
[机の上にあずきの袋が置いてあった。
昨日、部屋への帰りに職員からもらったものだ]
今日は、そろそろおしごとしなきゃだよ
[よしっと気合を入れると、朝食の準備に入った]
おそと、さむいもんね。
ゆきがね、たくさんふってたのよ。
[こんなにいっぱい。と、示すように両手を広げて。
10本の指を動かしながらゆらゆらとその手を下ろす。
どうやら雪の物まねをしているつもりらしい]
うん、えっと…。
あしたがね、しゅじゅつのひなの。
[首を傾げて記憶を探り。
思い出して、どこか誇らしげに伝える]
― 部屋 ―
[日のあたる部屋の中で、無心に、かつ丁寧に縫い目を作っていく]
いいねぇ
[昼頃、お手玉が、ひとつできた。
茜色と紫のちりめんのはぎれをあわせたものだ]
これはくるみちゃん用だね
おばあちゃんは、これにしようかね
[また別の、山吹色のはぎれを取る]
こうすれば、2人であそぶときに一緒になってもわかりやすいからねぇ
[ちくちく。静かに縫い始めた。
この調子なら、明日には最低でも2個は完成しそうだ。
明日はロビーでくるみちゃんを待とう。
きっと明日も今日みたいに日が出て、特等席も暖かいに違いない]
雪も、溶けてしまうかねぇ
[ちらりと窓の外の少し溶け出した雪を見やった]
んだな、外は寒いよ
でも、雪はきれいでおじいちゃんは、すきだなァ
[ひらりひらり、雪の降る様子を真似る少女に
「上手だァなあ」と頷いて。
彼女を真似て、自分でも手をひらひらと振ってみたが]
あしたかァ…、そうかァ
[一瞬だけ、眉間に皺を刻んでしまう。
何の手術かは解らないが、こんなに小さいのに
痛い思いをするのかもしれないと思うと、苦しさを覚え]
しゅづつしたら、ゆきだるま作ったり
できるようになるだろうなァ
雪で、うさぎさんも作れるんだぞ〜?
[だから、しっかり。
かけた言葉は、彼女に届いたのか。
測っている脈が、途絶えた。
力の抜けた四肢。
手術室は、もう少しだというのに。
頭の中では、もう答えは出ている。
動脈性出血による乏血性ショック。]
クルミさん?
クルミさん?
しっかりしてください
[医師としては、失格なのかもしれない。
死を前にした冷静さというものは、患者と親しくなれば吹き飛んでしまうもののようで。]
緊急補液
移動しながらでもやるんだ
― 夕暮れ ―
[2つ目が完成したのは、太陽も沈みかけた頃だった]
やっぱり若い頃に比べると、仕事がおそいねぇ
[目も指も、思ったようにはいかない。
それでも、できた2つのお手玉を見て、表情がほころんだ]
多分、くるみちゃんもあと2つは欲しいっていうよ
ちょっと準備だけしとこうかね
もう若くないからねぇ
[呟きながら、外を見る。
沈み行く太陽が、最後の光を地平線に広げている。その様に自分を重ねた]
[明日も、明後日も。
ずっとこんなふうに、ただ老いていく日々が続くのだろう。
自分は、病気の子供たちを妬むような人間だ。
病気なのだ。辛いだろうに。苦しいだろうに。
でも、彼らの目の前に広がる景色と、自分が見ている景色と、どんなに違うことだろう。
もしも、願いが叶うなら…]
夢だね
[薄暗くなった部屋で呟いた]
[頭の中では、無駄だとわかっていても。
そうせずにはいられないというのは。
はたして、幸せな事なのか、不幸な事なのか。]
心停止、心臓マッサージ
[手術室にたどり着き、心電図につながった時には、数値として。
患者の死亡を伝えていた。
試みるだけは、全て試みて。
自分にできる事は、全てやっても。
救えぬ命が、大量にある。
他人でも、知人でも。
大人でも子供でも、平等に。
救えぬ命は、救えない。
蘇生措置を試みるも、上手くはいかず。
結局は、また取りこぼす。
どれだけ救いたい命であっても。]
うん。
いっぱいふって、たのしかったよ。
おそとであそびたかったけど。
かんごしさんが、だめっていうから、おへやからみてたの。
うさぎさん…みてみたいなぁ。
あのね、うさぎさんは、おりおんさんにおわれてるんだよ。
ほんにかいてたの。
[説明を欠いている事にも気付かないまま伝えようとして。
思わず話にも熱がこもる。
しかしそこで、たまたま通りがかった看護師に見つかり。
そろそろ寝なさいと怒られてしまって、寂しげに頷く。
二、三言ほど離すと看護師は仕事に戻ってしまいそれを見送って手を振り]
ごめんね、おじいちゃん。
るり、あしたにそなえて、ねむらないといけないの。
[首をかしげてそう伝える。
看護師の受け売りである「明日に備えて」という言葉は片言だった]
じゃあおやすみなさい、おじいちゃん。
[ぺっこりと頭を下げる。
そのまま病室に戻ろうとしたが、ふと振り返り]
またゆきがふったら。
ゆきだるまつくるの、てつだってくれる?
[問いかけと微笑みを投げかけて。
その返事を聞く前に小さく手を振って、病室へと戻って行く]
医者が神を信じたがらない理由はこれだな
人事を尽くしても、何もできやしない
[小さく呟いた言葉。
それは心の中だったか、口から出たのだったか。
ご遺族への連絡等は済ませてあるようだ。
もうすぐ、やってくるのだろうか。
なんと説明しようか。
助けられなくてすみませんと、謝るのだろうか。
若者は、少し休むと言い残して屋上へ出た。
周りの人影は気にせずに、隅の方に座り。
タバコを咥えて、火をつけた。]
[あと何度、命を取りこぼしていくのだろう。
そう考える事自体が、医師として若いと言うことなのだろうか。
割り切れていたつもりであったのに。
この手で救えぬとなると、やはり苦しい。
頭が痛かったけれど、それを気にする余裕はなかった。]
神よ、貴方は人を愛するが故に
こんなにも早く、お呼びになるのですか
では何故に、人を地上に離されるのか
[吐いた言葉と、吐いた煙が。
空高く、登っていく。
ゆらり、ゆらりと登っていく。
風がそれを溶かして、天までは届かなくても。
毒づく権利くらい、あるのではなかろうか。]
[一生懸命話をしてくれる少女を
何時しか孫と重ねていた。
逢った事のない孫もきっと
こんな風に、人懐こい子達に違い無いと、思うのだ]
そうかァ、そうか…
げんきになったら、かんごしさんも
外で遊んでいいよ、って言ってくれるさね
うさぎさんと、……オリオンさんかい…?
[何処かで聞いたことのある単語だが、さて…
星に疎い男には、ピンと来なくて首を傾けた。
やがて、やって来た看護師に叱られる少女の姿を前に
「俺ちが引き止めちまったんで」と、看護師を嗜めた]
明日に、備えてか…、
おお、がんばれよ、明日な
[少女の小さな頭部をそっと、優しく撫でようとし]
[大人びた言い回しの裏に
本人や周囲の大人たちの苦労と痛みの痕が窺えた。
振り返りざまの言葉へ、暫し瞳を瞬かせたが]
おお、おお。いっしょにつくろうなァ
ゆきだるまと、ゆきうさぎさんなァ
おじいちゃんと一緒につくろうな、るりちゃん
[返答は、彼女の耳に届いただろうか。
まるでうさぎみたいに跳ねていってしまった小さな背へ
手を振り、見送った]
[ただ、そこに居るだけで周囲の空気を明るく変える、
そんな少女の存在が、昨日の光景を思い出す。
昨日、ここで話をした老女も
「子どもはいいね」と、そう言っていた。
彼等の先には、未来が続く。
まだ見えぬ道だからこそ、その先は明るく、心躍るのだろう。
老女の言葉を、思い出す。]
……そうさねェ、
かわいがってやりたいもんだがねェ…
[それは叶わぬ希望と知っているから、
過ぎ去っていった少女との約束を、守りたいと思っていた。]
あの婆さんも、誘ってみるかねェ
[今度会えたら。
逢えなくなる等と感じることなく、席を立った]
[医師であっても人間。
ただの人には、抗う事のできぬ範疇がある。
タバコの煙が、雲には届かぬように。
この声が、海までは響かぬように。
少し落ち着いた若者は、先ほど息を引き取った女性の最後の顔を思い浮かべた。
彼女は、幸せだったろうか。
いいや、幸せな人生であったかなどは考えていない。
息を引き取る間際、彼女は。
この世界を、愛して逝けただろうか。
若者の目には、彼女が笑って逝ったように見えた。
本当にそうなら、自分が彼女に出会った意味はあったのだろうか。
医師として、力になれずとも。
人として、力になれたろうか。]
医師として、力になりたかったけれど
屋上
[凍てつく外気を肌に感じた瞬間に
ぐわんと頭痛が響き、軽い眩暈を覚える中
煙草を吸う為に屋上の扉を開いた。
視線の先、昨日の若い医師の姿を見つけて歩み寄り]
よう先生。アンタさんも煙草――…、
[吸うのかい、そう続けようとした言葉は
彼の、余りの憔悴ぶりに先を失ってしまい。
理由は解らずも、その肩を励ますように叩こうと手を伸ばす]
[一瞬だけ、優しい風が頬を撫でて。
身を切る冷たい風に混ざったそれを、若者はとても不思議に思った。
見る目が変われば、世界は色を変える。
彼女の世界も、最後に少しでも変わっていればいい。
そんなことを思うのは、陶酔や逃げの類?]
ま、いいさ
[逃げだろうと、陶酔だろうと。
携帯灰皿で消したタバコを、片付ける。]
[そうしていると、男性の声が聞こえて。
振り向いた先には、昨日の男性がいた。
肩に伸びた手は、拒むこともなく。]
ええ、少し現実逃避に
[そう言って、笑ってみせた。]
そうか、そうか
先生だって人間だもんなァ
逃避したくなる時だって、あるよナァ…
[ポン、と軽く肩を叩いて
彼と同じように笑い飛ばした。
けれど、昨日の何処か楽しそうな思案振りと
現在の彼、明らかに異なる様子に――
煙草に火を点けながら、ぽつりぽつりと言葉を紡いで]
なァ、先生は… ヒトは死んだらどうなると思うかい?
俺はね、「死ぬ事は、生まれ変わる為のきっかけ」だと思うんさね
[医師という視点からすれば、笑い飛ばされてしまうような内容だろう。
けれど、男にはずっと常に心にある思いであり、
そうであると、信じて生きてきたのだ]
善行を詰めば、次はより幸福な人間に生まれ変わる…
そんなこたァどうでもいい
ひとつだけ確かな事はな、現世で出逢った人間とは
縁を引き寄せれば必ずや、来世でもまた出逢える、ってことだ
だから、もしもアンタさんが…
来世でも出会いたいと思う人と
死に別れる事があったら
その人の事を忘れずに、命日には花を手向けてサ…
そうしたらきっとまた、逢えるよ
[持論でしかないけれど。
肺を煙で満たし、ゆっくりと吐き出しながら
医師へ、微笑んだ]
まぁ、私も人間ですからね
人は死んだら、ですか?
[それはもちろん、骨になるさ。
そんな事は、わかっている。
でも、男性が言っているのはそういう事ではなくて。
科学に基づかない、信仰や思想のようなもの。
若者は、それを否定するつもりはない。]
そうですね
人の縁とは、不可思議なものです
生まれ変わる事が、たとえばできたとして
もし、その相手ともう一度出会えたとして
今度は、まともな関係が築けると良いですが
…―――
私は、生まれ変わってもこんなのでしょうし
気の利いたセリフ一つ、出てくる気がしませんよ
[命日に華を備えれて、冥福を祈るのは。
それは、来世での再会を祈る事なのか。
面白い事を言う人だと、思って。]
ふふ、お坊さんか何かですか?
[そう言って、首をかしげてみた。]
なァに、アンタさんは色男で頭がいい、
気の利いた台詞が浮かばなくても
相手が何を求めているのかを探ろうとする
そして、相手に答えたいという真摯な思いがある
[だから、心配するな、とばかりがははと笑い]
いやァ、俺ちはただの塗装工だァ
……明日辺り、仕事あればいいんだがなァ…
[詰まりは現状、無職にも同じだということ。
フィルターギリギリまで煙を味わい、灰皿へ吸殻を落とすと
「お先に」と声を掛け、屋上を後にした。
持論では、「生まれ変わる為の〜」そうは思っていても――
別れは、辛い。それは己とて、同じと*知りつつ*]
それは、過大な評価な気がしますけど
でも、ありがとうございます
[褒めてもらっているのだと理解している。
だから、若者は頷いて。
男性の仕事の話には、相槌を打つに止めた。]
はい、ありがとう御座います
お世話になりっぱなしで申し訳ない
[お先にと出て行く男性を、見送り。
若者は、今度何かお礼をしなければと思った。
相談に乗ってもらい、今日は励ましてもらった。
その行為にではなく、その心には。
心を返さねばならぬと思うからだ。]
次に会ったら、煙草でも奢ろう
[といって、できる事はこの程度であるけれど。]
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