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[おや――。と、声に出さぬまま、皺に埋もれる眼が僅か大きくなった。
条件反射のような、怯えのような、触れるを厭うような若い震えを看過することはなかった。しかし、それを幾重にも刻まれた歳月の中に隠す術を――奈緒が厭うたものによって隠す方法を、老いたからこそ知っていた。]
……そうさねェ。
だから、婆ちゃんも可愛い女の子でいたいのさ。
だから
今度、外出できたら、
くれぇぷ を食べにいこうって、思ってるんだよ。
うふふ。 内緒だよ。
甘いものはやめときなさいって言われちまったからね。
[わざとらしく周囲を見渡す素振りを付け加え
老婆――田中ぼたんは、笑い声を漏らした。それは彼女が思っていた以上に、一音一音のはっきりした*笑声だった*]
いえ、気にしないで下さい。
いいんです。貴方は違いますから。
違う。多分。……、いいんです。
[結城が謝罪するのを聞けば、其方に顔を向ける事はなくも、代わりに緩く頭を横に振って。零した言葉は、半ば独りごちるよう]
心の、……
先生。
[続けられた話に、ふと一際はっきりと呼びかけ]
先生は、人の心は何色だと思いますか?
先生には、怖いものはありますか?
[そう、二つの問いを紡いだ。マフラーの端を摘み、その辺りに視線を落とすようにしながら]
……、……違う、……?
――なに、と……?
[「気にするな」という言葉よりも、「違いますから」という言葉への違和感に、表情を曇らせた。
「違う」という事は、何かと比較されたのだろうけれど、その比較対象が、わからない。
真意を知りたくて思わず腰を屈めた瞬間、今度ははっきりとした意志で紡がれる言葉に、引き寄せられる。]
人の心の、色……、怖い、もの。
[変化球のような問いだった。確かめるように紡ぐ響きは次第に、医師としての自分の声音とは異なり、素の低さが混じってしまっていたかも知れずに]
人のこころは無色透明だって、昔読んだなにかの本に書いてあった気が、しますね。
相対するこころの色を汲み取って、赤になったり、青になったり変化する、という。
怖いもの、は……、うーん、……ありますね。
[後者へは言葉を濁してしまうものの、努めて平静を保った声音にはなったか。かすかに俯いたまま]
[視界の端、お下げ髪の小児科患者の姿を見止めれば、軽く手を振り挨拶するだけの余裕はまだ、存在している。]
……人の心は。
極彩色なんだと、思います。
この世界のように。この世界の言葉のように。
[結城の返答を聞くと、一度頷いてからぽつりと零した。
男には、本来無色なる音も、匂いも、色付いたように感じられる。男には世界は酷く鮮やかに見えていた。今はサングラス越しであれ]
そうですか。……そうですね。
私も、怖いものはあります。
怖いものがあります。どうしようもなく。
それは此処まで来ても、逃げられていないんです。
[もう一つの返答には、両手を肘掛けに戻しながら。詳細を質す事はなく、言葉を重ねた]
このまま足がなくなっても、きっと変わらない。
足には何も関係がない事ですから。
[結城が現れた少女に挨拶をすれば、男もその気配に気付き、其方を向いて会釈をした]
今日は。
303号室
[孝治は窓をみつめていた。景色ではなく、窓を。
そして徐に視線を戻し、一人呟く]
…あと、何日だろうな。
[自分にとっては普通のことだと思っていた。
ただ、…はもう。
自分は駄目なのだろうな、となんとなく思っていた。]
ああ、確かに。
無色でぱっと色がつく、っていうよりも、元々どんな色も持っている、っていう解釈の方が、しっくりきます。
[「世界」「言語」、その喩えは心の奥にストンと降り、彼の言葉に酷く共感できた。と同時に、自分と柏木では、世界の見え方が異なるのかも知れない、とも感じていた。]
柏木さんは画家さんだから、……より美しく、感じ取れるのかもしれませんね。
[色彩感覚豊かな彼にもまた、怖いものが存在する。
追われているイメージを、何処と無く察した。
軽く伏した視線の奥に、柏木の足を映し出す。切断の予定がある事を院内で知らぬ医師は、居ないだろう。
足を失う事が怖いのだろうか、とも一瞬考えたけれど…物理的なもの、ではない、何かに柏木は追われているようだった。]
僕のも、……柏木さんと似たようなものですよ。
……内容を口にしたら、笑われそうですけれど。
どうしたら、……『それ』を、怖いと思わなくなれますかね…?
[彼と自分、全く異なるものに追われているのかもしれないけれど。
ぽつり、抑揚の無い音階で最後の言葉を*呟いた*]
むしろ、逆、ですよ。
私は……私には、世界はとても鮮やかに見えたから。
その世界を、描き表したいと思ったんです。
自分の見る世界を、人に伝えたいと思ったんです。
[感じ取れる、という話には、少しだけ帽子の鍔を上げ、一たび結城の方を見上げるようにしながら]
それが、どれだけ叶っているかは……
別ですが。……
……それでも、切欠はそうだったんです。
[故に男の絵は、世に出る以前から極彩色を基本としたものだった。現在の「共通点」を持つ絵を描くようになったのは、ある時期を境にして後の事だったが]
どうしたら。……どうしたら、いいんでしょうね。
何処まで行ってもそれは追ってくる。
[呟きには、やはり呟きらしく]
……いっそ自分が消えたら?
それの勝利になるのかもしれない。
それでも。いっそ。
……、ああ。
でも、消える事も難しいんです。
そう私にはわかっている。
どうしたら、いいんでしょうね。
[再び鍔を下げ直し、ふ、と、溜息には届かない微かで短い吐息を零した]
消せたなら。
何も問題はないんですがね。
[かさり。
一枚風に吹かれて落ちた緑の葉を*眺め*]
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