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中庭
[思わず聞き返してしまった言葉への反応は無かったけれど、気に留める事も無く車椅子を借りに出た。
松葉杖を受け取り車椅子に彼を乗せると、ゆっくりと椅子を押しながら廊下の中央を進んでいく。
時折、顔見知りの患者や看護師に声を掛けられ幾許かの言葉を交わした。ありきたりな、挨拶程度に。
通用口から中庭へ、スロープを伝いそっと降りていけば、澄んだ空気と木々のせせらぎ、やわらかな陽光が迎えてくれる。
直接日光に触れるのは、負担が掛かるかもしれない。
木陰まで車椅子を押し、軽く身を屈めて柏木のサングラスを窺った。]
……疲れてませんか?柏木さん。
普段、余り外には出られてませんよね?
[慌てた仕草で居住まいを正す奈緒を、やはりくぐもったような声で笑った。笑うたび、声を発するたび、幾層もの皺の奥から揺れるような、表情はそんな綻び方をした。
孫に対するような口調は、実質、彼女自身がそう思っていたからに他ならない。]
ふふ、うふふ
奈緒ちゃんったら。
[誤魔化すような彼女を揶揄する声音で呟き、話題に合わせてセルロイドの人形を膝上に招く。問いかけには緩やかに首を振った。
関節の自由に動くことのない古びた人形は、るりんとした眼を奈緒にそっと向け]
この子は 一番のお姉さんさ。婆ちゃんみたいに年取った、ちいちゃな女の子さよ。
ずうっと昔から この子を持ってるからねえ。
新しいお召し物用意してあげなきゃ、そろそろ怒り出しそうなんだ。
あたしより後に生まれた子供の方が、ずっと可愛い服を着てる――ってぇ、
この子ったら 最近へそを曲げててねえ。まったく困っちまうよ。
[笑みの名残で震う声のまま、随分長くそばに置いてきた人形の髪を撫でつけた。]
んー…
[誤魔化しから出た真。ぼたんが抱える人形をじい、と見つめた]
そう、だね。女の子はいつでも可愛くいたいしね
[そうっと人形の頭へ手を伸ばす。ぼたんの手に触れないように、髪の先を撫でようと。
もし触れたならば
ぴく、と手が震えたのが、伝わってしまうかもしれない。
家族よりも屈託ない笑みを向ける相手でも、老いは、死は
身近ゆえに少女にとって恐ろしいものだった**]
[すれ違う人々には会釈や短い挨拶を向けながら、廊下を通り、中庭へと運ばれていく。肘掛けに乗せた手は、時折サングラスを押し上げ、マフラーの端を弄り。
目的地に着き、木陰まで来ると、緑と白の色と気配に満ちた周囲を仰ぎ見るように一望し]
……、いえ。
[結城に覗き込まれれば、ふと帽子の鍔を――元々深いそれを――引き下げるようにして]
大丈夫です。
あまり外に出ないのは、元からでしたし。
体力がないのも、元からですが。
……いい天気ですね。
[答えて後、頭上で揺れる葉と枝を見上げ]
(…歌…?)
[一二三は開いた窓から流れ込む歌声に耳を傾ける。誰のものかは分からない。でもどこか心に染みる、優しい歌声であった。]
(…良い…声じゃないか…ふふっ…)
[出歩くことが自由とはいえ、彼女に許された範囲は病院という檻の中のみであった。
直ぐに興味という興味は消費し尽くされてしまう。
変わりのない日々に、しかし緩やかに死に向かいつつある日々に、一二三はうんざりしていた。]
そうだ、お散歩、しようか。
[普段はあまり部屋から出ることもない千夏乃であったが、比較的体調の良い今日、縫いぐるみしか話し相手がいないのではやはり退屈だ。
ベッドから注意深く降りて、厚手のタイツを履き、黒いカーディガンの上から、母からお下がりにもらった茜色のオーバーを羽織った。少し大人っぽく見えるから、千夏乃はこのオーバーがお気に入りだった。
それから、羊を胸に抱いて、そっと病室の扉を開ける。]
見つかったら、おこられちゃうかな。
[口うるさい看護師たちには気づかれないようそっと足音を忍ばせて、千夏乃はエレベータ・ホールへと向かう。
その途中、中庭の方から歌が聞こえたような*気がした*。]
[何気ない所作だった。
背後から彼の顔を覗き込むように窺い見たのは、表情を、というよりも顔色を窺おうとした動作だったかも知れない。
けれど、それを拒絶するようにより目深く鍔を下げる柏木に気づき、自己の失態に気づく。]
ああ、すみません。つい、癖で……、
[眼元や頭部を隠している患者も少なくは無い。それは、病状により見せたくないという理由があるからだと悟っている。
しかも柏木は著名人だ。配慮が欠けていた事を、今更ながらに詫びて]
体力は食事やリハビリでも作れますけど、心の洗濯、っていうのかな……、そういうのって、屋外じゃないと出来ないような気も、するんですよね。
医者の言うセリフじゃ無いですけど、はは。
[視線を交える事無く、そう告げて頭を掻いた。]
[伸ばされた奈緒の手が化学繊維の髪に触れる。
人形の髪を上下に梳るように撫でていた指先が、水分を失い、針だこができ、
そして年月を蓄積してきた指先が、瑞々しい十代の女の子に触れた。]
[おや――。と、声に出さぬまま、皺に埋もれる眼が僅か大きくなった。
条件反射のような、怯えのような、触れるを厭うような若い震えを看過することはなかった。しかし、それを幾重にも刻まれた歳月の中に隠す術を――奈緒が厭うたものによって隠す方法を、老いたからこそ知っていた。]
……そうさねェ。
だから、婆ちゃんも可愛い女の子でいたいのさ。
だから
今度、外出できたら、
くれぇぷ を食べにいこうって、思ってるんだよ。
うふふ。 内緒だよ。
甘いものはやめときなさいって言われちまったからね。
[わざとらしく周囲を見渡す素振りを付け加え
老婆――田中ぼたんは、笑い声を漏らした。それは彼女が思っていた以上に、一音一音のはっきりした*笑声だった*]
いえ、気にしないで下さい。
いいんです。貴方は違いますから。
違う。多分。……、いいんです。
[結城が謝罪するのを聞けば、其方に顔を向ける事はなくも、代わりに緩く頭を横に振って。零した言葉は、半ば独りごちるよう]
心の、……
先生。
[続けられた話に、ふと一際はっきりと呼びかけ]
先生は、人の心は何色だと思いますか?
先生には、怖いものはありますか?
[そう、二つの問いを紡いだ。マフラーの端を摘み、その辺りに視線を落とすようにしながら]
……、……違う、……?
――なに、と……?
[「気にするな」という言葉よりも、「違いますから」という言葉への違和感に、表情を曇らせた。
「違う」という事は、何かと比較されたのだろうけれど、その比較対象が、わからない。
真意を知りたくて思わず腰を屈めた瞬間、今度ははっきりとした意志で紡がれる言葉に、引き寄せられる。]
人の心の、色……、怖い、もの。
[変化球のような問いだった。確かめるように紡ぐ響きは次第に、医師としての自分の声音とは異なり、素の低さが混じってしまっていたかも知れずに]
人のこころは無色透明だって、昔読んだなにかの本に書いてあった気が、しますね。
相対するこころの色を汲み取って、赤になったり、青になったり変化する、という。
怖いもの、は……、うーん、……ありますね。
[後者へは言葉を濁してしまうものの、努めて平静を保った声音にはなったか。かすかに俯いたまま]
[視界の端、お下げ髪の小児科患者の姿を見止めれば、軽く手を振り挨拶するだけの余裕はまだ、存在している。]
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